三国志の戦いとは?有名な戦いを分かりやすく解説

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三国志の時代では、大小問わずに中国各地において様々な戦いが発生しており、その戦いにおいて三国志の歴史が動いた事も多々ある事から、この戦いを知る事によって三国志の流れを知る事が可能です。

そのため、この記事では三国志において有名な戦いをいくつか挙げて分かりやすく解説します!

三国志の有名な戦いはこの3つ

数ある三国志の戦いの中において、当時の情勢を動かしてきたと思われる有名な戦いについては下記の4つが挙げられます。そして、これら4つの戦いの結果によって、その後の情勢に大きな影響を与えたといっても過言ではないため、三国志を知るためにはこれらの戦いを知る事はとても重要になります。

赤壁の戦いとは

三国志で有名な戦いと言えば、真っ先にこの赤壁の戦いを挙げる人も少なくない事でしょう。それほどまでに、この赤壁の戦いとはその後の各勢力の動向に大きな影響を与えたのです。

そこで、この赤壁の戦いですが、西暦208年に長江の中流に位置していた赤壁に、曹操軍と孫権・劉備の連合軍との間で起こった戦いであり、曹操軍は孫権・劉備の連合軍のおよそ5倍とも10倍とも言われている大軍で連合軍と対峙しました。

 

ただ、元々曹操が占領していた領地には大きな川が少なく水上戦に慣れておらず、連合軍のスパイでもある龐統の勧めもあって、風により船が揺れる事を抑えるため船を鎖によって繋いでしまいます。(周瑜による連環の計)

それを確認した連合軍は曹操軍の船に火を放ちます。その結果、曹操軍の船はみるみるうちに大きな炎に包まれてしまい、曹操軍は大敗してしまったのです。

そして、この赤壁の戦いで数多くの兵力を失った曹操は、しばらく他領地に攻め入る事が難しくなってしまい、その隙に劉備陣営の諸葛亮による天下三分の計によって、曹操の魏、孫権の呉、劉備の蜀という三国時代に突入する事になります。

官渡の戦いとは

この官渡の戦いも、曹操の力が拡大し、逆に袁紹の力が衰えていく結果となった事から、三国志においてその後の動向に大きな影響を与えた戦いになります。そこで、官渡の戦いですが、西暦200年に現在の河南省にある官渡において、袁紹軍約10万、曹操軍約4万の兵力同士が対峙しました。

戦闘当初は兵力に勝る袁紹軍が有利に進めていましたが、戦闘が進むにつれて袁紹軍の内部で指揮系統の混乱が発生し、しかも袁紹配下の武将が曹操に寝返るという事もあり、結果形勢が逆転し曹操軍が勝利しました。

 

ちなみに、官渡の戦いで勝敗を分けた大きな原因は、曹操が配下の進言を素直に受け入れた事に対して、袁紹は配下の進言をあまり受け入れなかった事による謀反が相次いだ事によるものです。つまり、曹操と比べ袁紹には知力はもちろん人間的な魅力もあまり無かったという事が伺えますね。

その後、袁紹は配下による謀反や今まで支配していた領地での反乱、さらには袁紹の死後に勃発した後継者問題などによってその勢力は滅びる事になります。

五丈原の戦いとは

この五丈原の戦いは、蜀の諸葛亮と魏の司馬懿という、三国志史上において最強軍師同士の最後の戦いでもあり、この戦いの最中に諸葛亮が病死してしまい、その後蜀の衰退が進んでしまうきっかけになった戦いになります。

そこで、五丈原の戦いですが、西暦228年から始まった蜀軍による第一次北伐から数えて5回目の北伐になり、西暦234年に現在の中国陝西省にある五丈原で蜀軍約10万と魏軍約20万(いずれも推定)が対峙した戦いです。

 

ただ、この五丈原の戦いでは、再三の諸葛亮からの挑発に対して魏の司馬懿は曹叡の指示によって動こうとはしなかったため、大きな戦闘は無く両者にらみ合いの中、諸葛亮が病死してしまい、蜀軍は撤退する事になります。

そして、蜀軍の撤退を見た司馬懿はここぞとばかり蜀軍を追撃しようとするも、自分(諸葛亮)が生きているように振る舞えとの策を生前の諸葛亮が楊儀に指示していた事から反撃の姿勢を見せたため司馬懿は追撃を諦めたのです。

しかし、この諸葛亮の死によって蜀の後継者争いが勃発して、その勢力は衰えていく事になったのです。

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