歴史探偵女魏って多くの武将がいたけど中身が良く分からない



魏の有力武将って誰がいた?
この記事では、こんな疑問にお答えしますね。
- 魏の歴代皇帝
- 魏の軍師
- 魏の猛将
- 魏の文官
- 主要武将のプロフィール


- 歴史大好き女
- 今まで読んだ歴史書籍は日本史&世界史で200冊以上
- 日本史&中国史が得意
- 特に中国の春秋戦国時代や三国時代、日本の戦国時代が好き


- 歴史大好き女
- 今まで読んだ歴史書籍は日本史&世界史で200冊以上
- 日本史&中国史が得意
- 特に中国の春秋戦国時代や三国時代、日本の戦国時代が好き
三国志の世界で最も人材に恵まれた国、それが「魏」です。
曹操という稀代の英雄が築いた魏には、知略に優れた軍師、勇猛果敢な武将、有能な文官が数多く集まりました。
その人材の層の厚さは、蜀や呉を圧倒していたのです。
しかし、魏には武将が多すぎて、誰がどんな活躍をしたのか分かりにくいですよね?
そこで、この記事では長年の歴史研究の視点から、魏の武将を完全網羅して解説します。。
曹操四天王、五将軍、五謀臣といった有名グループから、知られざる名将まで、カテゴリー別に分かりやすくご紹介しますね。
そして、この記事を読めば、魏の人材王国の全貌が見えてきますよ。
魏とは?三国志最強の人材王国


魏の建国と発展
魏は、三国時代(220年~280年)に中国北部を支配した王朝です。
ちなみに、正式名称は「曹魏(そうぎ)」といいます。
そして、魏の歴史は、実質的には曹操の時代から始まります。
曹操は196年、献帝を迎えて「天子を奉じて諸侯に令す」という大義名分を得ました。
その後、袁紹、呂布、袁術といった群雄を次々と倒し、中原(ちゅうげん)を統一したのです。
また、208年の赤壁(せきへき)の戦いで劉備・孫権連合軍に敗れています。
しかし、この敗戦によっても中国北部の支配は揺るぎませんでした。
そこで、曹操は生前に「魏王」の称号を受けており、220年に死去します。
その息子・曹丕が後漢最後の皇帝から禅譲を受け、魏の初代皇帝となりました。
これにより、約400年続いた漢王朝が終わり、三国時代が正式に始まったのです。
ちなみに、魏は265年に司馬炎が晋を建国するまで、45年間存続しました。
魏が強かった理由
なぜ魏は三国の中で最強だったのでしょうか?
その理由は主に四つあります。
第一に、強固な経済力です。
魏は、中原という肥沃な土地を支配していました。
そして、この中原は中国文明の中心地であり、人口も多く、農業生産力が高かったのです。
第二に、屯田制(とんでんせい)です。
これは曹操が導入した制度で、兵士に農地を与えて耕作させ、軍の食糧を自給自足するシステムでした。
この制度により、魏は十分な食料を確保して長期戦でも有利に戦いを進めることが出来たのです。
第三に、人材登用の巧みさです。
曹操は「唯才是挙(ゆいさいぜきょ)」、つまり才能さえあれば身分を問わず登用する方針を掲げました。
これにより、貧しい家の出身者や、敵だった者まで、優秀な人材が集まったのです。
第四に、魏を建国した戦略的な地理位置です。
魏は、北方の異民族の脅威にさらされていましたが、それが逆に軍事力を鍛える結果となりました。
また、蜀や呉を同時に攻撃できる地理的優位もあったんですね。
本記事の武将分類について
本記事では、魏の武将を以下のように分かりやすく分類しています。
役割別分類
- 軍師・謀臣(知略で戦略を立てる人材)
- 武将(実際に戦場で戦う将軍)
- 文官(内政を担当する官僚)
時代別分類
- 前期(曹操時代、190年~220年)
- 中期(曹丕・曹叡時代、220年~239年)
- 後期(司馬氏台頭期、239年~265年)
特殊グループ
- 曹操四天王、五将軍、五謀臣、虎豹騎など
なお、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』は小説ですので、史実とは異なる部分があります。
そのため、本記事では史実に基づいて解説し、演義での描写が異なる場合はその旨を明記することにしました。



魏は三国の中で最も人材に恵まれた国でした。曹操の「才能主義」が、身分に関わらず優秀な人材を集め、その層の厚さが魏の強さの源泉となったのです。
魏の君主たち:曹氏一族と司馬氏
まずは、魏を支配した君主たちを見ていきましょう。
歴代皇帝・王
魏の実質的な創始者であり、後漢の丞相(じょうしょう)、魏王として権力を握りました。
正式に皇帝にはなりませんでしたが、死後に「武帝(ぶてい)」と追号されました。
また、詩人としても優れ、「短歌行(たんかこう)」などの名作を残しています。
魏の初代皇帝(文帝/ぶんてい)で、220年に献帝から禅譲を受けて即位しました。
文学に優れ、『典論(てんろん)』という著作を残しています。
しかし、軍事面では父に及ばず、呉との戦いで敗北を重ねました。
曹丕の息子で魏の第2代皇帝(明帝/めいてい)となり、魏の最盛期を築いたのです。
そして、諸葛亮の北伐を防ぎ、遼東(りょうとう)の公孫氏を滅ぼすなど、領土を拡大しました。
彼らは、第3代以降の皇帝たちです。
しかし、実権は司馬氏に握られ、傀儡(かいらい)状態でした。
魏の実権を握った軍師です。
諸葛亮のライバルとして有名で、249年にクーデター(高平陵の変)を起こし、曹氏から権力を奪いました。
司馬懿の息子たちで、魏の皇帝を操り、反対派を粛清しました。
そして、司馬昭の息子・司馬炎が晋を建国し、魏は滅亡します。
曹操の息子たち
曹操には25人の息子がいました。主な息子を紹介します。
曹丕(そうひ):長男、魏の初代皇帝
曹彰(そうしょう):次男、勇猛な武将「黄鬚児(こうしゅじ)」
曹植(そうしょく):三男、天才詩人
曹昴(そうこう):曹操の愛息、宛城の戦いで戦死
曹沖(そうちゅう):神童、13歳で早世
ちなみに、曹丕と曹植の間では、激しい後継者争いがありました。
そして、最終的に曹丕が勝利しましたが、兄弟の争いは魏の弱体化を招いたのです。



曹操は有能な息子たちに恵まれましたが、後継者争いが魏の弱体化を招きました。最終的に外戚の司馬氏に権力を奪われたことは、皮肉な結末と言えますね。
魏の軍師・謀臣:知略で国を支えた頭脳集団


魏が強かった最大の理由は、優秀な軍師たちの存在があったからなんですね。
曹魏五謀臣
魏の軍師の中でも、特に優れた五人を「五謀臣(ごぼうしん)」と呼びます。
字は文若(ぶんじゃく)。「王佐の才(おうさのさい)」と称えられた天才です。
曹操の覇業を支え、献帝を迎える献策をしました。
しかし、曹操が魏公になることに反対し、失脚して亡くなりました。
字は公達(こうたつ)。荀彧の甥で、奇策の名手でした。
そして、官渡(かんと)の戦いでは、敵の兵糧庫を焼き討ちする策を提案し、勝利に貢献しました。
字は文和(ぶんわ)。「毒士(どくし)」の異名を持つ策略家です。
董卓、李傕、張繡、曹操と仕えた主を次々と変えています。
しかし、常に最善の選択をして生き延びた知恵者なんです。
字は仲徳(ちゅうとく)。東郡(とうぐん)出身の軍師です。
身長は八尺三寸(約190cm)という巨漢で、兵法に通じていました。
そして、曹操が呂布と戦った時、重要な献策をしました。
字は奉孝(ほうこう)。天才軍師として知られ、「鬼才」と呼ばれました。
そして、この郭嘉は曹操が最も信頼した軍師で、数々の戦いで的確な献策をしました。
しかし、38歳の若さで病死してしまい、曹操は深く悲しんだと言われています。
ちなみに、「郭嘉不死、臥龍不出(かくかふし、がりょうふしゅつ)」という言葉があります。
これは「郭嘉が死ななければ、諸葛亮は出てこなかった」という意味です。
もっとも、これは演義での創作ですが、郭嘉の評価の高さを示していますね。
その他の重要軍師
字は仲達(ちゅうたつ)。諸葛亮の宿敵として有名な軍師ですね。
曹操に仕え、曹丕、曹叡、曹芳と四代に仕えました。
そして、諸葛亮の北伐を防ぎ、遼東の公孫氏を滅ぼしました。
その後、249年に高平陵の変で曹爽を倒し、実権を握ったのです。
字は子揚(しよう)。光武帝の血を引く戦略家です。
大局を見る目に優れ、曹丕や曹叡に重用されました。
また、孫権の降伏が偽りであることを見抜いた逸話が有名ですね。
字は子通(しつう)。冷静な分析力を持つ軍師です。
曹操、曹丕、曹叡、曹芳と四代に仕え、常に冷静な判断で危機を救いました。
字は長文(ちょうぶん)。九品中正法(きゅうひんちゅうせいほう)を創始しました。
この制度は、人材を九つの等級に分けて登用するもので、魏の官僚制度の基礎となっています。
字は元常(げんじょう)。文武両道の名臣で、書道の大家としても有名です。
楷書(かいしょ)の完成者とされ、その書は「神品(しんぴん)」と評されました。
字は子魚(しぎょ)。清廉な宰相として知られました。
そして、曹丕の禅譲を仲介し、魏の建国に貢献していますね。
また、演義では悪役ですが、史実では有能な政治家でした。



魏の軍師たちは個性豊かで、それぞれ得意分野が異なりました。曹操はこの多様な才能を使い分け、戦況に応じて最適な人材を配置して魏の礎を作ったのです。
魏の武将:戦場を駆けた猛将たち
魏の強さを支えたのは、勇猛な武将たちでした。
曹操四天王
曹操配下で特に活躍した四人の武将は、「曹操四天王」と呼ばれています。
字は文遠(ぶんえん)。魏の五将軍の筆頭です。
元は呂布の配下でしたが、呂布が敗れた後に曹操に降りました。
そして215年、合肥(ごうひ)の戦いで800騎を率いて呉の10万の軍を撃破。
この戦いで「張遼来たり」という言葉が呉の子供の泣き止む呪文になったと言われています。
また、関羽とは友人関係にあり、関羽が曹操の元にいた時に親交を深めました。
字は文謙(ぶんけん)。小柄ながら勇猛な突撃の名手として名をはせました。
常に先陣を切って敵陣に突入し、数々の戦功を挙げました。
そのため、曹操は「楽進の武勇は比類なし」と評しています。
字は文則(ぶんそく)。規律を重んじる将軍です。
30年以上曹操に仕え、多くの戦いで功績を挙げました。
しかし、219年の樊城(はんじょう)の戦いで関羽に敗れて降伏。
その後、呉から魏に帰還しましたが、恥辱に耐えられず病死してしまいます。
字は儁乂(しゅんがい)。用兵の達人として知られました。
元は袁紹の配下でしたが、官渡の戦いで曹操に降りました。
そして、諸葛亮の北伐では主力として戦い、街亭(がいてい)の戦いで馬謖を破りました。
魏の五将軍
魏では、特に功績のあった五人に「将軍」の称号を与えました。
- 張遼(前将軍)
- 楽進(右将軍)
- 于禁(左将軍)
- 張郃(征西将軍)
- 徐晃(右将軍)
徐晃(じょこう、?~227年)は、字を公明(こうめい)といい、元は袁紹配下の武将でした。
そして、219年の樊城救援戦では、関羽を撃破する大功を立てました。
ちなみに、史実では非常に重要な武将ですが、演義での扱いは控えとなっていますね。
夏侯氏・曹氏の武将たち
曹操の一族と親戚には、多くの優秀な武将がいました。
字は元譲(げんじょう)。曹操の従兄弟で、隻眼の猛将です。
演義では、戦いで矢が目に刺さり、それを引き抜いた時に眼球も一緒に抜けてしまいます。
そして、この眼球を「父の精、母の血」と叫んで飲み込んだという豪快なエピソードがありますよね?
ただし、これは演義の創作であり、史実にはありません。
また、史実では、主に後方の守備や内政に従事しました。
字は妙才(みょうさい)。曹操の従兄弟で、西方の守護者です。
「典軍校尉(てんぐんこうい)」として、西涼(せいりょう)地方を守りました。
しかし、定軍山(ていぐんざん)の戦いで黄忠に討たれました。
字は子孝(しこう)。曹操の従弟で、防衛の名手です。
特に籠城戦に優れ、何度も敵の包囲を跳ね返しました。
そして、樊城の戦いでは、関羽の猛攻に耐え抜いたことでも有名です。
字は子廉(しれん)。曹操の従弟で、曹操を救った功臣です。
曹操が董卓から逃げる際、自分の馬を曹操に譲り、自分は徒歩で逃げました。
これにより、曹操は終生曹洪を重用しています。
字は子丹(したん)。曹操の養子で、諸葛亮と対峙しました。
そして228年、諸葛亮の第一次北伐を防ぎました。
ちなみに、演義では無能に描かれていますが、史実では優秀な将軍だったのです。
中期・後期の武将
司馬氏の時代には、新たな世代の武将が活躍しました。
字は士載(しさい)。蜀を滅ぼした名将です。
263年、蜀への侵攻で険しい山道を越えて成都(せいと)に迫り、劉禅を降伏させました。
しかし、讒言により処刑されています。
字は士季(しき)。鍾繇の息子で、野心家の武将です。
鄧艾とともに蜀を攻めましたが、鄧艾を讒言で陥れました。
その後、反乱を起こしましたが失敗し、処刑されています。
字は公休(こうきゅう)。諸葛亮の一族であり、淮南三叛(わいなんさんはん)の一人です。
そして、司馬氏の専横に反発して反乱を起こしましたが、鎮圧されました。
降将・他国から来た武将
魏には、他の勢力から降った優秀な武将も多くいました。
字は仲業(ちゅうぎょう)。元は劉表の配下でした。
劉表の死後、曹操に降り、荊州(けいしゅう)の守備を任されました。
そして、呉の侵攻を何度も防ぎ、「荊州の守護神」と呼ばれました。
字は曼成(まんせい)。武勇だけでなく、作戦立案にも優れた将軍です。
合肥の戦いでは、張遼と協力して呉軍を撃破しています。
また、彼は儒学を好んでおり、文武両道の人物でした。



魏の武将の特徴は「層の厚さ」です。曹操四天王が倒れても次の世代が育っており、この人材の継続性が蜀や呉との決定的な差となりましたね。
魏の文官:内政を支えた官僚たち


武将や軍師が華やかな活躍をする一方で、内政を支える文官たちも重要でした。
曹魏三公
三公(さんこう)は、魏の最高位の役職です。
これらの役職は、皇帝を補佐し、国政全般を統括しました。
建安七子
曹操の周りには、文学サロンが形成されており、その中心が「建安七子(けんあんしちし)」です。
- 孔融(こうゆう):文学者、後に曹操と対立して処刑
- 陳琳(ちんりん):名文家、袁紹の檄文を書いた
- 王粲(おうさん):詩人、「七哀詩」で有名
- 徐幹(じょかん):哲学者
- 阮瑀(げんう):文章家
- 応瑒(おうよう):詩人
- 劉楨(りゅうてい):詩人
彼らは、建安文学という新しい文学の流れを作りました。
内政の実務家
字は伯侯(はくこう)。河東太守(かとうたいしゅ)として手腕を発揮しました。
その後、16年間河東を統治し、治安を安定させ、民衆の支持を得ています。
字は伯達(はくたつ)。屯田制の実施者です。
曹操の命により、屯田を各地に広げました。
これにより、魏の食糧事情は大きく改善されています。
字は不明。屯田制の発案者です。
曹操に屯田制を提案し、採用されました。
任峻とともに屯田の実施に尽力した記録が残っています。
字は伯儒(はくじゅ)。主に涼州統治を行っていました。
異民族との関係を巧みに処理し、西方の安定に貢献しています。



魏の文官たちは、華やかな武将の陰で地味ながら重要な役割を果たしました。特に屯田制の成功が、魏の長期的な国力を支えたのです。
主要武将の詳細プロフィールとエピソード
ここからは、特に人気の高い武将を詳しく見ていきましょう。
張遼
| 年代 | 年齢 | 出来事 |
|---|---|---|
| 169年 | 0歳 | 并州雁門郡で生まれる |
| 188年頃 | 19歳頃 | 丁原に仕える |
| 189年 | 20歳 | 董卓配下となる |
| 192年 | 23歳 | 董卓死後、呂布に従う |
| 198年 | 29歳 | 下邳の戦いで曹操に降る |
| 200年 | 31歳 | 官渡の戦いに参加 |
| 215年 | 46歳 | 合肥の戦いで呉軍を撃破 |
| 222年 | 53歳 | 病死 |
215年、孫権は10万の大軍を率いて合肥を攻めました。
しかし、合肥の守備兵はわずか7000人しかいなかったのです。
そこで張遼は、李典、楽進とともに籠城するのではなく、打って出ることを決断します。
そして夜明け前、張遼は800の精鋭を率いて敵陣に突撃しました。
その結果、呉軍は不意を突かれて大混乱に陥ります。
これに乗じて、張遼は孫権の本陣近くまで迫り、孫権を馬上から引きずり下ろしかけました。
ちなみに、この戦いで呉軍は大敗を喫してしまったのです。
以後、呉では「張遼来たり(ちょうりょうきたり)」という言葉が、泣く子も黙る脅し文句になったと言われています。
張遼と関羽は、深い友情で結ばれていました。
関羽が曹操の元にいた時、張遼が仲介役となって信頼関係を築いたのです。
その後、関羽が劉備の元へ帰る際も、張遼は見送りました。
ちなみに、史実では、二人の友情を示す記録がいくつか残っていますよ。
また、演義では張遼が関羽を説得する場面が感動的に描かれていますね。
許褚
| 年代 | 年齢 | 出来事 |
|---|---|---|
| 生年不詳 | – | 沛国(はいこく)譙県で生まれる(160年代と推定) |
| 197年頃 | 推定30代前半 | 曹操に仕える |
| 211年 | 推定40代半ば | 潼関の戦いで馬超と一騎打ち |
| 220年 | 推定50代半ば | 曹操の死後、曹丕に仕える |
| 227年頃 | 推定60代前半 | 病死 |
演義で最も有名な許褚のエピソードは、馬超との一騎打ちです。
211年、潼関(どうかん)の戦いで、馬超は曹操を討とうと猛攻を仕掛けました。
そして、許褚は曹操を守るため、馬超と一騎打ちを演じます。
ちなみに、演義では、許褚が上半身裸になって戦い、決着がつかなかったとされています。
この豪快な姿から、許褚は「虎痴(こち)」とあだ名されました。
また、史実でも、許褚は曹操の護衛として常に側にいて、何度も危機を救っていますね。
ある時、曹操が敵の使者と会見する際、許褚だけを連れて行きました。
それは、使者が暗殺者かもしれないと疑ったからです。
そのため、許褚は武器を隠していないことを示すため、上半身裸で警護しました。
この姿を見た使者は、許褚の筋骨隆々とした体に恐れをなしたと言われています。
司馬懿
| 年代 | 年齢 | 出来事 |
|---|---|---|
| 179年 | 0歳 | 河内郡で生まれる |
| 201年 | 22歳 | 曹操に仕える(当初は拒否) |
| 227年~234年 | 48~55歳 | 諸葛亮の北伐と対峙 |
| 238年 | 59歳 | 遼東の公孫氏を滅ぼす |
| 249年 | 70歳 | 高平陵の変でクーデター成功 |
| 251年 | 72歳 | 病死 |
司馬懿の最大のライバルは、蜀の丞相・諸葛亮です。
当時、諸葛亮は5度にわたって北伐を行い、魏を苦しめました。
そこで司馬懿は、諸葛亮との戦いで「持久戦」の策を採ったのです。
つまり、正面から戦わず、籠城して相手の食糧が尽きるのを待ったのです。
その結果、234年五丈原(ごじょうげん)の戦いで、諸葛亮は陣中で病死します。
これは、司馬懿の持久戦が功を奏したと言えるでしょう。
249年、司馬懿は一世一代のクーデターを決行します。
皇帝・曹芳が高平陵(こうへいりょう)に参拝した隙に、曹爽一派を逮捕したのです。
この時、司馬懿は70歳という高齢であり、また病気を装っていた司馬懿が突然動いたため、曹爽は何も抵抗できませんでした。
そして、魏の実権は完全に司馬氏に移ったのです。
その後、司馬懿の孫・司馬炎が晋を建国し、三国時代は終わります。
郭嘉
| 年代 | 年齢 | 出来事 |
|---|---|---|
| 170年 | 0歳 | 頴川郡で生まれる |
| 196年 | 27歳 | 曹操に仕える |
| 200年 | 31歳 | 官渡の戦いで活躍 |
| 207年 | 38歳 | 遠征中に病死 |
この言葉は演義の創作ですが、郭嘉の評価の高さを示しています。
「郭嘉が死ななければ、臥龍(諸葛亮)は出てこなかった」という意味で、郭嘉がいれば諸葛亮でも勝てなかったことを示唆しています。
郭嘉は、袁紹との戦いで「十勝十敗論」を展開しました。
これは、曹操と袁紹を十の項目で比較し、曹操が勝つと論じたものです。
また、袁紹の息子たちが争うことを予測し、追撃を勧めて的中させました。
そのため、曹操は「郭嘉だけが私の考えを理解する」と評したのです。
郭嘉が38歳で病死した時、曹操は深く悲しみました。
208年、赤壁の戦いで大敗した曹操は「郭嘉が生きていれば、私はこんな失敗をしなかった」と嘆いたと言われています。



張遼や許褚、司馬懿に郭嘉は魏の中でもひと際活躍した武将ですね。それぞれに有名なエピソードがありますよ。
魏の武将一覧表(簡易版)
最後に、主要な武将を一覧でまとめます。



こうしてみると、魏には数多くの有力武将がいることが分かりますね。
まとめ
魏には、80名を超える優秀な武将・軍師・文官がいました。
その人材の豊富さは、三国の中で群を抜いていたのです。
それではなぜ、魏にこれほど多くの人材が集まったのでしょうか。
その答えは、曹操の「唯才是挙」という方針にあります。
これは、身分や出身を問わず、才能さえあれば登用するということ。
この開かれた姿勢が、多くの有能な人材を引き寄せたのです。
また、曹操は人材を適材適所に配置する才能にも優れていました。
郭嘉には戦略を、張遼には突撃を、荀彧には内政を任せるなど、各人の長所を活かしたのです。
しかし、魏は最終的に司馬氏に乗っ取られます。
これは、曹操の子孫たちが人材を活かせなかったことも一因と言われています。



曹操は、人材登用に関して素晴らしい才能を発揮しました。その結果、有能な武将が数多く魏に集まったのです。
