歴史探偵女始皇帝の墓で生き埋めはあったの?



兵馬桶って何のために置かれたのか?
この記事では、こんな疑問にお答えしますね。
- 兵馬俑が作られた本当の理由と殉葬の歴史
- 史記が語る後宮女性たちの悲劇的な最期
- 秘密保持のために閉じ込められた職人の運命
- 水銀の川と自動発射装置の科学的根拠
- 近年の発掘で見えた王族処刑の生々しい痕跡


- 歴史研究20年の歴史大好き女
- 今まで読んだ歴史書籍は日本史&世界史で200冊以上
- 日本史&中国史が得意
- 特に中国の春秋戦国時代や三国時代、日本の戦国時代が好き


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中国史上初めて天下を統一し、万里の長城や壮大な宮殿を築いた秦の始皇帝。
しかし、その輝かしい偉業の影には、常に「恐ろしい噂」がつきまとっています。
特に、彼が眠る陵墓については、「墓を秘密にするために建設に関わった人々を生き埋めにした」「兵馬俑の中には生きた人間が入っている」といった伝説が、2000年以上経った今でも語り継がれていますよね。
そこで、もしこれが本当なら、あの美しい兵馬俑は巨大な処刑場ということになってしまいます。
史記などの歴史文献に記された内容は事実なのか、それとも後世の作り話なのか?
これについて、現代の科学調査と考古学的な発掘成果を照らし合わせると、そこには予想をはるかに超える「残酷な真実」と「意外な事実」が隠されていました。
そこで、今回は始皇帝陵の謎について、じっくりと掘り下げて解説していきたいと思います。
始皇帝の墓にある生き埋め伝説と兵馬俑の真実


始皇帝陵と聞いて、多くの人が真っ先に思い浮かべるのが、あの圧倒的なスケールを誇る「兵馬俑(へいばよう)」でしょう。
整然と並ぶ数千体の兵士たちは、まるで今にも動き出しそうなほどの迫力がありますよね。
ただ、あまりにもリアルすぎるその姿ゆえに、「これは生きた人間を粘土で固めて作ったのではないか?」「罪人を生き埋めにした代わりではないか?」という都市伝説がまことしやかに囁かれています。
しかし、考古学的な視点からその製造目的を紐解くと、兵馬俑はむしろ「生き埋め」を否定するために生まれた、当時の最先端技術の結晶だったことが見えてくるのです。
兵馬俑は生き埋めの身代わりか
結論から申し上げますと、兵馬俑はかつて古代中国で広く行われていた残酷な「殉葬(じゅんそう)」という風習を終わらせるための、極めて人道的な代替品であったと考えられています。
秦の時代よりもさらに古い殷(商)の時代には、王が亡くなると、その権威を示すために数百人単位の奴隷や捕虜、時には家臣までもが殺害され、王の墓に一緒に埋められるという凄惨な習慣がありました。
このように、彼らは死後の世界でも王に仕えるための「生きた副葬品」として扱われていたのです。
しかし、時代が進んで周代や春秋戦国時代になると、貴重な労働力や軍事力を無意味に失うことは国家にとって大きな損失であるという認識が広まり始めました。
特に秦では、紀元前384年に献公が公式に「殉葬の禁止」を布告しています。
もっとも、始皇帝もまた、死後の世界で自分を守る強力な軍隊を必要としていましたが、生きた兵士をそのまま埋めるわけにはいきません。
そこで考案されたのが、生きた人間の代わりに、土や木で作った人形「俑(よう)」を埋めるという方法でした。
つまり、兵馬俑の存在こそが、「生きた人間を埋めることを避けた」という決定的な証拠であり、野蛮な風習からの脱却を示す文明的な転換点だったと言えるのです。
兵馬俑の製造工程と人柱説の否定
「でも、中には人間が入っているんじゃないの?」という疑念を持つ方もまだいらっしゃるかもしれません。
映画や小説などでは、そのようなショッキングな描写がされることもありますからね。
しかし、この「人柱説」は、現代の科学的分析と製造工程の解明によって、完全に否定されています。
これについては、具体的に以下の理由が挙げられます。
- 焼成時の爆発リスク:兵馬俑は約1000度の高温で焼かれています。もし人間が入っていれば、体内の水分が沸騰して内部から破裂してしまいます。
- 内部の空洞構造:破損した兵馬俑を調査すると、中は完全に空洞です。人間が入るスペースは物理的に存在しません。
- 製造技法:「輪積み」という、紐状の粘土を積み上げて成形する技法が使われており、内側から圧力をかけて形を整えた痕跡が残っています。
また、表面には細かな布目や筋肉の表現が施されていますが、これも内側から押し出したのではなく、職人が外側からヘラや指で丁寧に造形したものです。
したがって、兵馬俑は純粋なテラコッタ(素焼き)の芸術作品であり、死体加工品ではないと断言できます。
8000体の兵士像に見る職人の技


兵馬俑の真の凄さは、その数だけではありません。
現在までに確認されている約8000体の兵士像は、驚くべきことに顔の表情、髪型、ヒゲの形、そして年齢までもが一体一体すべて異なっているのです。
切れ長の目をした兵士もいれば、どんぐり眼の兵士もおり、出身地や民族の違いまで表現されていると言われていますよ。
これは、当時の職人たちが適当に作ったのではなく、実際に存在した秦軍の兵士たちをモデルにし、一人ひとりの個性を忠実に再現しようとした結果でしょう。
当時の秦の軍隊は、征服した様々な国の人々で構成された多民族混成軍であり、その多様性が兵馬俑の顔にも反映されているのです。
また、兵馬俑の衣服の裾や武器などの目立たない場所には、「宮彊(きゅうきょう)」や「宮得(きゅうとく)」といった職人や工房の名前が刻まれていることがあります。
そして、これは「物勒工名(工名を物に勒す)」と呼ばれる品質管理制度で、もし製品に欠陥があれば、誰が作ったかすぐに特定され、厳しく処罰されました。
このように、職人たちはまさに命がけで、この精巧な軍団を作り上げたのです。
始皇帝の墓にまつわる怖い都市伝説
始皇帝の墓には、兵馬俑以外にも背筋が寒くなるような噂が数多く存在します。
これらは単なるインディ・ジョーンズ的な冒険譚や怪談として片付けられがちですが、実は歴史書『史記』には、これらの伝説の元となった記述がしっかりと残されています。
- 自動発射装置(機弩):墓に近づく者を自動的に射殺す機械仕掛けの弓が設置された。
- 水銀の毒ガス:大量の水銀を流し込むことで、致死性の有毒ガスを充満させた。
- 脱出不可能な閉鎖機構:一度入ったら二度と出られないよう、巨大な石門で封鎖された。
そして、司馬遷の記述によれば、「皇帝の眠りを妨げる者には死を与える」という強烈な殺意と防衛本能が、陵墓の設計に組み込まれていたことは間違いありません。
2000年以上経った今、そのバネや弦が機能するかは怪しいところですが、侵入者を拒むための徹底したトラップが用意されていたのは事実のようです。



兵馬俑は「生き埋め」の証拠ではなく、むしろそれを終わらせた文明の進歩でした。8000体の個性豊かな表情は、生きた人間を犠牲にする代わりに、職人の魂を吹き込むことで永遠の軍団を作ろうとした、始皇帝の合理的かつ芸術的な野心の表れと言えるでしょう。
始皇帝の墓で生き埋めされた人々の悲惨な実態


兵馬俑の調査によって、兵士たちの「生き埋め」は否定されました。
しかし、それで「始皇帝陵はクリーンな墓だった」と結論づけるのは早計なんです。
むしろ、兵馬俑という文明的な代用品のすぐ裏側で、皇帝の「私生活」や「秘密」に関わる領域では、想像を絶する規模の「本物の人間」の犠牲が払われていたことが、近年の発掘調査で次々と明らかになっていますよ。
史記にある側室たちの大量殉死
司馬遷の『史記』秦始皇本紀には、読んでいるだけで胸が苦しくなるような記述があります。
始皇帝が崩御した後、後を継いだ二世皇帝・胡亥(こがい)は、次のような冷酷な命令を下しました。
「先帝(始皇帝)の後宮にいる女性たちのうち、子を産んでいない者を宮殿から出して実家に帰すのは不適切である」
つまり、子供のいない側室たちは「用済み」として解放されるのではなく、全員始皇帝の後を追って死ぬように命じられたのです。
また、『史記』には「死ぬ者は甚だ多かった(死者甚衆)」と書かれていますが、これは決して誇張ではありません。
実際に、始皇帝陵の封土近くや内城の内部で発見された墓群からは、20代から30代と思われる若い女性の遺骨が多数出土しています。
さらに恐ろしいことに、一部の遺骨は脚が不自然に開いていたり、ねじれていたりしており、毒殺や絞殺の後に無造作に穴に放り込まれたか、あるいは生きたまま埋められ、苦悶の中で絶命した可能性すら示唆されています。
彼女たちは、皇帝があの世でも現世と同じ快楽を享受するための「道具」として、無残に命を奪われたのです。
秘密保持で閉じ込められた職人たち
陵墓建設には、延べ70万人以上の囚人や職人が動員されたと言われています。
その中でも、陵墓の核心部である「地宮(地下宮殿)」の設計や、宝物の配置、そして侵入者を嵌めるための罠(機弩)の設置に関わった高度な技術者たちは、最も悲惨な運命を辿りました。
これは、『史記』によれば、始皇帝の埋葬が終わり、宝物の封印も済んだタイミングで、ある家臣がこのように進言しました。
「職人たちは機械仕掛けや宝物のありかを知り尽くしている。彼らを生かしておけば、いずれ秘密が漏れて盗掘される恐れがある」と。
そして、これを受けた二世皇帝は、職人たちがまだ中にいる状態で、墓道の中門を閉ざし、さらに外門を下ろして出口を完全に塞いでしまったのです。
また、記述には「抜け出せる者は一人もいなかった(無復出者)」とあります。
つまり、彼らは漆黒の闇の中で、酸素が尽きるか、飢えと渇きに苦しむか、あるいは後述する水銀の蒸気によって中毒死するまで、絶望的な時間を過ごしたはずなんです。
技術者としての誇りを持って皇帝の墓を作り上げた彼らへの報酬は、あまりにも残酷だったと言えますね。
処刑された始皇帝の娘や息子の遺骨


このような悲劇は、他人事ではありませんでした。
始皇帝の血を引く実の子供たち、つまり公子(息子)や公主(娘)たちもまた、二世皇帝・胡亥と、彼を操る宦官・趙高(ちょうこう)による粛清の対象となったのです。
そして、始皇帝陵の東側にある「上焦村(じょうしょうそん)」で発見された17基の陪葬墓は、この粛清の凄まじさを今に伝えています。
この墓からは、「陽滋(ようじ)」などの文字が刻まれた私印が出土しており、被葬者が始皇帝の娘や息子たちであることはほぼ確実視されています。
しかし、そこにある遺骨の状態は、通常の病死や自然死とは明らかに異なっていました。
- 頭蓋骨に刺さる矢:一部の頭蓋骨には、後ろから青銅製の矢尻が突き刺さったままの状態で見つかりました。
- 四肢の切断:手足が胴体から切り離され、バラバラにされた状態で埋められている遺骨もありました。
- 無造作な埋葬:整然とした埋葬ではなく、処刑後に穴へ投げ込まれたような痕跡が確認されています。
これは、静かな「殉死」などではなく、激しい拷問や処刑を受けた末の「虐殺」であったことを如実に物語っていますね。
胡亥は、自分の地位を脅かす可能性のある兄弟姉妹を次々と処刑し、父の墓のそばに埋めさせたのです。
これは、権力のためなら肉親さえも惨殺する、当時の政治的狂気が垣間見えます。
地下宮殿の水銀と致死トラップ
始皇帝陵の地下には「水銀を使って川や海を再現し、ポンプで循環させている」という伝説がありました。
かつては「さすがにそれは大袈裟だろう」と思われていましたが、現代の科学調査がこれを事実として立証しつつあります。
また、2002年に行われた物理探査(地球物理学的調査)において、陵墓の封土上で行われた土壌分析の結果、中央部を中心とする約1万2000平方メートルの範囲から、周辺の土壌と比較して異常に高い濃度の水銀反応が検出されました。
その分布形状は、秦の時代の地図における黄河や長江の配置と概ね一致しているとも言われています。
そこで、始皇帝がこれほど大量の水銀を求めた理由は、水銀が当時「不老不死の霊薬」の原料と信じられていたこと(防腐効果への期待)、そしてもう一つは防衛システムとしての役割です。
密閉された地下空間で揮発した水銀蒸気は、極めて毒性が高い神経ガスとなります。
そして、侵入者が足を踏み入れれば、即座に呼吸器系や神経系を侵され、死に至るでしょう。これは物理的な矢の罠と並ぶ、恐るべき化学兵器(ケミカル・トラップ)でした。
(出典:学習院大学『衛星データを利用した秦始皇帝陵と自然景観の復元』)
| 項目 | 詳細データ |
|---|---|
| 水銀の推定埋蔵量 | 一説には100トン以上とも言われる |
| 主な目的 | 不老不死の象徴、遺体の防腐保存、毒ガスによる盗掘防止 |
| 現在の状況 | 現在も高濃度の反応があり、発掘を阻む最大の要因となっている |
近年の発掘で見つかった新たな生贄
始皇帝陵の調査は現在も続いており、新しい発見が次々と報告されています。
特に2010年代以降、陵の西側で発掘された「1号墓」からは、それまでの常識を覆すような発見がありました。
ちなみに、主な出土品や発見は以下の通りです。
- 金のラクダ(金駱駝):中国最古の金のラクダ像。シルクロード以前の西方との交流を示唆しています。
- 珍獣坑(ちんじゅうこう):鹿や鳥だけでなく、パンダの骨までが出土しており、皇帝の動物園が再現されていました。
- 高貴な身分の被葬者:副葬品の豪華さから、胡亥に消された公子の一人か、特に寵愛された側室の墓と推測されています。
このように、人間だけでなく、動物たちまでもが「生き埋め」にされていたことがわかっています。
これらは、皇帝が死後の世界で狩りを楽しんだり、鑑賞したりするために捧げられたものでしょう。
権力者が死後の安寧を求めるために、どれほどの命が消費されたのか、その規模を知れば知るほど、華やかな副葬品の輝きが悲しく見えてきますね。



兵馬俑という理性の裏で、側室や職人、我が子さえも容赦なく葬った始皇帝。発掘された遺骨と水銀の痕跡は、権力を守るためには手段を選ばない冷酷な独裁者の顔を浮き彫りにしました。また、黄金の輝きの下には、逃げ場のない絶望と無数の悲鳴が埋まっているのです。
よくある質問(FAQ)
始皇帝の墓や生き埋めについて、多くの人が疑問に思う点をまとめてみました。
私自身も歴史を学び始めた頃は、「場所がわかっているのになぜ掘らないの?」と不思議に思っていたことばかりです。
Q. 始皇帝陵はなぜ発掘されないのですか?
主な理由は「保存技術の未熟さ」と「危険性」です。過去の事例では、地下の密閉空間から出土した鮮やかな壁画や絹織物が、空気に触れた瞬間に酸化して色あせたり、崩壊してしまったりしたことがあります。そして、現在の技術では、この急激な劣化を完全に防ぐことができません。また、前述の通り高濃度の水銀蒸気が充満しているため、不用意に開ければ外部への環境汚染や、発掘作業員の健康被害を引き起こすリスクがあるため、中国政府は慎重な姿勢を崩していません。
Q. 兵馬俑のモデルは実在の人物ですか?
はい、その可能性が極めて高いです。8000体の像は顔の形、目の位置、表情、耳の形などがすべて異なります。もっとも、特定の個人を石膏で型取りしたわけではありませんが(型取りなら表情が硬くなります)、職人たちが実際の部隊の兵士たちを一人ひとり観察し、それぞれの特徴を反映させて作った芸術作品だと考えられています。これは「神は細部に宿る」を地で行くような、執念の作業だったと言えるでしょう。
Q. 始皇帝の遺体はどこにありますか?
陵墓の中心にある封土(盛り土)の下、地下深くにある「地宮」と呼ばれる場所に安置されていると考えられています。伝説では、水銀の川に浮かぶ銅の棺に入っているとも言われていますが、未発掘のため誰もその姿を見たことはありません。もし技術が進歩して発掘が行われれば、水銀の防腐効果によって、まるで眠っているかのような姿の始皇帝と対面できる日が来るかもしれません。
まとめ:始皇帝の墓と生き埋めの真相
今回は、始皇帝の墓にまつわる「生き埋め」の真相について、史料と考古学の両面から解説してきました。
調査の結果、世界的に有名な兵馬俑は、かつての残酷な殉葬を避けるために作られた「人道的な代用品」であり、生き埋めではありませんでした。
しかし、その一方で、後宮の女性たちや陵墓建設に関わった技術者、さらには始皇帝の実の子供たちまでもが、権力維持や秘密保持という政治的な理由から無残に命を奪われ、埋葬されていたことがわかりました。
このように、華やかで壮大な兵馬俑の影には、数知れない人々の血と涙、そして怨念にも似た悲しみが埋もれているのです。
そして、始皇帝陵はまだその全貌を現していません。
地下宮殿の扉が開かれるのは、おそらく数十年、あるいは数百年先になるでしょう。
しかし、今後の技術進歩によって新たな事実が明らかになれば、私たちは歴史の教科書には載っていない、秦という帝国のさらに深い闇と、そこで生きた人々のリアルな息遣いを知ることになるはずです。



兵馬俑は生き埋めを否定する文明の証ですが、その陰で側室や職人の命が無残に奪われたのも事実なんです。そのため、始皇帝陵は権力の光と闇が混在する巨大なタイムカプセルと言えるでしょう。未発掘の地宮には、我々の想像を超える真実と悲劇が今も眠っているに違いありません。
※本記事の情報は歴史学的・考古学的な諸説に基づいています。歴史の解釈には諸説あり、新たな発見によって定説が変わることもありますので、知的好奇心を満たす一つの視点としてお楽しみください。
