三国志の女性一覧|美人・悪女・最強は誰?史実と演義の全真実

当ページのリンクには広告が含まれています。
三国志の女性一覧|美人・悪女・最強は誰?史実と演義の全真実
歴史探偵女

三国志の女性一覧が知りたい!

歴史探偵男

三国志で最強の女性って誰なの?

この記事で分かること
  • 史実と演義における実在性の違いと創作の背景
  • 絶世の美女たちが辿った数奇で悲劇的な運命
  • 国を傾けた三大悪女のランキングとその恐るべき所業
  • 最強の武勇を誇る女性武将の真実とエピソード
  • 賢女たちの知略と乱世を生き抜いたサバイバル術
執筆者情報
歴女
歴女
  • 歴史大好き女
  • 今まで読んだ歴史書籍は日本史&世界史で200冊以上
  • 日本史&中国史が得意
  • 特に中国の春秋戦国時代や三国時代、日本の戦国時代が好き
執筆者情報
歴女
歴女
  • 歴史大好き女
  • 今まで読んだ歴史書籍は日本史&世界史で200冊以上
  • 日本史&中国史が得意
  • 特に中国の春秋戦国時代や三国時代、日本の戦国時代が好き

「三国志の女性一覧が見たい」「絶世の美人は誰?」「最強の悪女や女性武将は?」そんな疑問をお持ちではないでしょうか?

三国志といえば、曹操や劉備といった男性武将たちが覇権を争う物語というイメージが強いと思います。

ですが、実はその歴史の裏側で、彼らの運命を大きく左右した魅力的な女性たちが数多く存在するのです。

時には一人の美女が国家間の戦争の引き金となり、時には賢明な母や妻が一族を滅亡の危機から救うこともありました。

彼女たちの生き様は、現代の私たちにとっても非常にドラマチックで、知れば知るほど三国志の世界が深く鮮やかに見えてきます。

しかし、三国志には「正史(歴史書)」と「演義(小説)」という二つの側面があり、女性たちの描かれ方も全く異なります。

実在しないのに物語の中心にいたり、逆に史実では強烈な個性を放っているのに物語では控えめだったりと、そのギャップも大きな魅力の一つなんです。

そこで、この記事では、そんな三国志の女性たちを「美女」「悪女」「最強」「賢女」といった視点から網羅的に紹介し、その真実の姿に迫っていきますね。

目次

史実と演義で紐解く三国志の女性一覧

史実と演義で紐解く三国志女性一覧

三国志の世界には多くの魅力的な女性が登場しますが、実はその多くが小説『三国志演義』による創作だったり、史実とは異なる脚色がなされていたりします。

私たちが、普段ゲームやドラマで親しんでいるキャラクターが、歴史上ではどのような存在だったのか?

そこで、まずは、物語を彩る有名な女性たちが本当に実在したのか、その真実と虚構の狭間に迫ってみましょう。

貂蝉や二喬は実在?史実との違い

三国志に登場する女性の中で、おそらく最も知名度が高いのが貂蝉(ちょうせん)でしょう。

彼女は絶世の美女として描かれ、暴虐を極めた董卓と、その養子である最強の武将・呂布の仲を引き裂くために暗躍します。

しかし、驚くべきことに、この貂蝉という女性は正史『三国志』には一切名前が登場しない、完全な架空の人物なんです。

あわせて読みたい
三国志の正史とは?演義との違いを徹底解説!陳寿が著した歴史書の真実 正史三国志ってなに? 演義と正史って何が違うの? この記事では、こんな疑問にお答えしますね。 この記事で分かること 正史三国志が「正しい歴史」ではない衝撃的理由 ...

では、なぜこれほど有名なキャラクターが生まれたのでしょうか?

実は、正史の「呂布伝」に、呂布が董卓の侍婢(侍女)と密通しており、その発覚を恐れていたという短い記述があります。

この「名もなき侍女」とのスキャンダルが、後の講談や演劇の中で膨らませられ、「貂蝉」という一人の悲劇のヒロインとして造形されていったのです。

「貂蝉」という名前自体も、漢代の官僚がかぶる冠の装飾(貂の尾と蝉の羽)に由来すると言われており、実在の人名ではない可能性が高いとされていますよ。

その一方で、「江東の二喬」として知られる大喬(大橋)・小喬(小橋)姉妹は実在の人物ですよ。

彼女たちは揚州の名家・橋公の娘であり、孫策が皖城(かんじょう)を攻略した際に捕虜となりました。

その際、姉の大喬は孫策に、妹の小喬は周瑜に、それぞれ妻(あるいは側室)として引き取られたのです。

そして、史実では、孫策が周瑜に対して「橋公の娘たちは美しいが、我々のような英雄を婿にできたのだから、彼女たちも満足だろう」と語ったという、いささか強引なエピソードが残っていますよ。

また、『三国志演義』では、諸葛亮が周瑜を怒らせて開戦を決意させるために、「曹操が『銅雀台の賦』の中で、二喬を侍らせて晩年を楽しみたいと詠んでいる」と嘘をつく有名なシーンがありますが、これは完全なフィクションです。

史実の二喬は、政治的な駆け引きの道具というよりも、戦乱の中で英雄に見初められた(あるいは連れ去られた)儚い存在だったと言えるでしょう。

あわせて読みたい
三国志の正史とは?演義との違いを徹底解説!陳寿が著した歴史書の真実 正史三国志ってなに? 演義と正史って何が違うの? この記事では、こんな疑問にお答えしますね。 この記事で分かること 正史三国志が「正しい歴史」ではない衝撃的理由 ...

絶世の美女・美人の代名詞と運命

三国志の物語を語る上で欠かせないのが、英雄たちの運命を狂わせ、時には国の存亡に関わるほどの「美女」たちの存在です。

彼女たちは、単に美しいだけでなく、その美貌ゆえに過酷な運命を背負わされることが常でした。

まず、美人の代名詞として筆頭に挙がるのはやはり貂蝉ですね。

彼女は、楊貴妃や西施と並ぶ「中国四大美女」の一人に数えられ、その美しさは「閉月(月が恥じらって雲に隠れてしまうほど)」と形容されます。

そして、物語の中での彼女は、養父である王允の「漢王朝を救いたい」という悲願を叶えるため、自らの身を犠牲にして「連環の計(美女連環の計)」を実行します。

董卓にはしなだれかかり、呂布には涙を見せて助けを求める。その見事な演技力と魔性の魅力で、強固な父子の絆をズタズタに引き裂きました。

つまり、彼女は単なる美女ではなく、国を救うために戦った「義女」としての側面も持ち合わせているからこそ、時代を超えて愛されているのです。

そして、呉の大喬・小喬もまた、美しさの象徴として語り継がれています。

しかし、彼女たちの人生は決して幸福に満ちたものではありませんでした。

姉の大喬が嫁いだ孫策は、結婚からわずか数年後に26歳の若さで暗殺されてしまいます。

また、妹の小喬が嫁いだ周瑜もまた、赤壁の戦いなどの激務が祟ったのか、36歳という若さで病死してしまいます。

このように、絶世の美女姉妹は、共に若くして未亡人となる運命を辿ったのです。

そのため、後世の詩人たちは、彼女たちの美しさと、その背後にある「英雄の早世」という悲劇をセットにして多くの詩を残しました。

ちなみに、「美人は薄命」という言葉がありますが、二喬の人生はまさにその言葉を体現しているかのようですね。

彼女たちの存在は、血なまぐさい戦乱の歴史における、美しくも儚い一輪の花のような役割を果たしていると言えるでしょう。

曹操も愛した傾国の未亡人と逸話

「治世の能臣、乱世の姦雄」と評された魏の武帝・曹操。彼は政治家・軍人として超一流でしたが、私生活では無類の色好み、特に「人妻や未亡人」を好む傾向があったことで知られています。

そして、その好色が原因で、あわや命を落としかけるという大事件も起きているのです。

その代表例が、鄒氏(すうし)とのエピソードですね。

彼女は元々、武将・張済の妻でしたが、夫が戦死して未亡人となっていました。

その後、曹操が宛城を攻略し、その城主である張繍(張済の甥)を降伏させます。

その際、曹操は鄒氏の類まれな美貌に目を付け、なんと彼女を自分の陣営に連れ込んで夜伽をさせたのです。

この時、降伏したとはいえ、自分の叔母にあたる女性を弄ばれた張繍は激怒しました。

そこで、彼は賈詡 ( かく ) の策謀に従って曹操軍に奇襲(夜襲)をかけます。

美女に溺れて油断しきっていた曹操軍は大混乱に陥り、曹操自身も絶体絶命の危機に瀕しました。

この戦いで、曹操は愛馬を失い、自らの身代わりとなって戦った長男の曹昴(そうこう)と、忠実な護衛隊長であった典韋(てんい)を失うという、あまりにも大きな代償を払いました。

このように、たった一人の未亡人への執着が、将来有望な後継者と最強の戦士を死なせてしまったのです。

鄒氏はまさに「傾国の美女」の実例として、歴史にその名を刻むことになりました。

また、甄氏(しんし)も曹操一族との因縁が深い美女です。

彼女は当初、袁紹の次男・袁煕の妻でしたが、曹操が袁家の本拠地である鄴(ぎょう)を攻め落とした際、真っ先に屋敷に踏み込んだ曹操の息子・曹丕に見初められて妻となりました。

一説には、曹操自身も彼女の美貌を聞き及んで自分のものにしようと考えていたものの、息子に先を越されたため渋々諦めたとも言われていますよ。

それと、彼女の美しさは、曹操の三男である天才詩人・曹植の心をも捉え、彼が後に記した名文『洛神賦(らくしんふ)』のモデルになったという伝説も生まれました。

父と兄弟、三人の英雄に愛された彼女は、まさに魏の宮廷における華でしたが、その美しさが後に悲劇的な最期を招くことにもなるのです。

劉備を支えた妻や母たちの苦難

魏の曹操や呉の孫権が強固な地盤を持っていたのに対し、蜀の劉備は人生の大半を流浪の軍閥として過ごしました。

今日こっちの勢力に身を寄せ、明日はあっちの勢力に逃げ込む。そんな不安定な生活の中で、劉備の妻たちは常に命の危険に晒され、過酷な運命を強いられました。

そして、甘夫人(かんふじん)ですが、劉備が予州にいた頃に迎えられた側室です。

劉備は正室を何度も失ったり、戦場に置き去りにしたりしていたため、甘夫人が実質的な正室として奥向きの一切を取り仕切っていました。

彼女は、「玉(ヒスイ)」のように肌が白く美しかったと伝えられており、劉備が彼女に見惚れるあまり、昼間から部屋に閉じこもって政治を疎かにしそうになったという「玉人伝説」も残っていますね。

しかし、その生活は安穏とは程遠いものでした。有名な「長坂の戦い」では、曹操軍の急追を受けた劉備が妻子を捨てて逃走してしまいます。

甘夫人は幼い息子の阿斗(後の劉禅)を抱えて敵中に取り残されましたが、趙雲が決死の覚悟で敵陣を突破し、二人を救出したことで奇跡的に生還しました。

その一方で、より悲劇的な最期を迎えたのが麋夫人(びふじん)です。

彼女は劉備のスポンサーであった豪商・麋竺の妹で、劉備の正室として嫁ぎました。

ちなみに、『三国志演義』では、長坂の戦いの際、彼女は足に重傷を負って動けなくなってしまいます。

「このままでは趙雲将軍の足手まといになり、阿斗の命も危ない」と悟った彼女は、趙雲に阿斗を託すと、自ら枯れ井戸に身を投げて自害しました。

この時、趙雲は彼女の遺体が曹操軍に辱められないよう、泣く泣く井戸に土塀を倒して埋め、阿斗だけを抱いて戦場を駆け抜けました。

夫の劉備が「妻子は衣服のごとし(破れたら縫えばいい)」と語ったとされる時代において、自らの命を捨てて夫の血筋を守ろうとした麋夫人の貞節と覚悟は、涙なしには語れない名シーンとして読者の胸を打ちます。

あわせて読みたい
蜀の皇帝劉備玄徳とは?波乱万丈な生涯と人物像について迫ります 劉備の波乱万丈な人生ってどういうこと? 劉備の最期ってどうなったのか知りたい この記事では、こんな疑問にお答えしますね。 この記事で分かること 幼少期の劉備の生...
歴史探偵女

貂蝉が架空であるように脚色も多いですが、二喬や甄氏のように実在し時代に翻弄された悲劇も確かにありました。史実と演義のギャップを知ることで、歴史の影に隠れた彼女たちの儚さと、乱世を懸命に生きた真実の姿がより深く胸に迫りますね。

属性別で比較する三国志の女性一覧

属性別で比較する三国志女性一覧

ここからは、視点を変えて「悪女」「最強」「賢女」といった属性別に、個性豊かな女性たちを比較していきましょう。

歴史の表舞台にはあまり出ないものの、彼女たちの行動力や決断力は、時に男性武将たちを凌駕するほどでした。

そこで、あなたが気になるのはどのタイプの女性でしょうか?

国を動かした最強の悪女ランキング

三国志には、その権力欲や嫉妬深さ、あるいは残酷な振る舞いで国を傾けたとされる「悪女」たちが存在します。

彼女たちの行動は、単なる個人の感情を超えて、国家の命運すら左右しました。

そこで、ここでは私が歴史研究家の視点で選んだ、インパクトの強い悪女トップ3をご紹介しますね。

順位名前悪女とされる理由・詳細
1位孫魯班
(全公主)
孫権の娘でありながら、実の妹・孫魯育を謀反の罪を着せて殺害。さらに、皇太子・孫和を廃嫡に追い込むための讒言を繰り返し、呉の後継者争い(二宮の変)を泥沼化させました。晩年は愛人の孫峻と共に国政を私物化し、呉の滅亡を早めた「最恐」の悪女です。
2位郭女王
(文徳皇后)
曹丕の寵愛を受けるため、正室である甄氏を精神的に追い詰め、死に追いやったとされています。甄氏の死後、その霊が訴え出ないよう口に糠を詰めさせたエピソードはあまりに有名。一方で、曹丕に的確な政治的助言を行うなど、極めて有能な策士でもありました。
3位何太后元は肉屋の娘でしたが賄賂で入内。霊帝の寵愛を受けた王美人を嫉妬から毒殺しました。霊帝の死後は皇太后として権勢を振るい、兄の何進と共に外戚政治を専横。その結果、十常侍の乱や董卓の入京を招き、漢王朝崩壊の直接的な引き金を引いた人物です。

特に、1位の孫魯班(全公主)は、肉親への冷酷さ、不倫、政治介入と、悪女の要素を全て満たしており、三国志後半の呉がボロボロになっていく元凶とも言える存在ですね。

武勇に優れた女性武将と活躍

三国志は男たちの戦いですが、その中にあって自ら武器を取り、戦場を駆けた「戦う女性」たちも鮮烈な印象を残しています。

もっとも、フィクションの要素も強いですが、その武勇伝は痛快そのものです。

まず、『三国志演義』において最強の女性武将として描かれるのが、南蛮王・孟獲の妻である祝融夫人(しゅくゆうふじん)ですね。

彼女は、火の神・祝融の末裔を自称し、背中に5本の飛刀(投げナイフ)を装備して戦場に現れます。

そして、その実力は凄まじく、蜀の歴戦の将軍である張嶷(ちょうぎ)と馬忠を一騎打ちで生け捕りにするという大金星を挙げました。

演義全体を見渡しても、敵将を生け捕りにするほどの武功を立てた女性キャラクターは彼女以外におらず、まさに「南蛮のアマゾネス」と呼ぶにふさわしい強さです。

最終的には諸葛亮の策によって捕らえられますが、武力による真っ向勝負では誰も彼女を止められなかったのです。

また、実在した女性として特筆すべきなのが、魏の王異(おうい)ですね。

彼女は、涼州の趙昂の妻でしたが、馬超が攻めてきた際、夫と共に冀城(きじょう)に籠城しました。

驚くべきことに、彼女は弓籠手(ゆごて)をつけて自ら武装し、兵士たちと共に最前線で戦ったという記録が残っていますよ。

さらに、城が落ちた後も諦めず、馬超の妻に取り入って信用させ、馬超軍を内部から崩壊させるための9つの計略を案じました。

人質に取られていた息子が処刑されるという悲劇に見舞われながらも、最後まで夫を支えて戦い抜いた彼女の精神力と軍事的才能は、当時の男性武将たちをも凌駕するものでした。

それと、呉の孫尚香(孫夫人)も、「弓腰姫(きゅうようき)」と呼ばれ、武芸を好んだことで有名ですね。

彼女の部屋の前には常に武装した100人の侍女が控えており、夫となった劉備ですら、彼女の部屋に入るときは戦場のような緊張感を強いられたと言われています。

政略結婚で結ばれた夫婦でしたが、彼女の寝室での振る舞いは、劉備にとって最大のストレス源だったかもしれませんね。

才知で乱世を生き抜いた賢女たち

武力ではなく、その優れた洞察力と知恵で乱世を生き抜いた「賢女」たちも、三国志の隠れた主役です。

彼女たちの助言がなければ、歴史は大きく変わっていたかもしれませんよ。

まず、私が個人的に最も評価しているのは、魏の重臣・辛毗の娘である辛憲英(しんけんえい)です。

彼女は非常に聡明で、当時の政治情勢を的確に分析していました。

例えば、司馬懿がクーデター(高平陵の変)を起こした際、彼女の弟・辛敞は将軍・曹爽の部下として従軍すべきか迷っていました。

この時、憲英は「曹爽は必ず敗れるが、あなたは職務として従軍し、義理を果たしなさい」と助言。

結果、曹爽は処刑されましたが、辛敞は職務を全うした忠義を認められ、罪を免れました。

さらに、後に鍾会が蜀征伐に出陣する際も、その野心を見抜き、甥の羊祜に警戒するよう伝えました。

彼女の予見能力は、司馬懿や諸葛亮に匹敵するレベルであり、その知恵が一族を何度も滅亡の危機から救ったのです。

また、諸葛亮の妻である黄月英(こうげつえい)も有名です。

伝承では「赤毛で色黒の醜女」とされていますが、それは彼女に群がる凡百の男を避けるための噂だったとも言われていますよ。

そして、彼女は天才的な発明家であり、諸葛亮が開発したとされる輸送機器「木牛流馬」や、連射式クロスボウ「連弩」のアイデアは、実は彼女が考案したものだったという説もあります。

家庭内では、機械仕掛けの木人形に家事をさせていたという逸話もあり、まさに三国志時代のエンジニアでした。

そして、司馬懿の妻・張春華(ちょうしゅんか)も傑物ですよね。

若い頃、司馬懿が曹操への出仕を嫌がって「中風(麻痺)」の仮病を使っていた際、急な雨で書物を取り込みに走った姿を侍女に見られてしまいました。

この時、仮病がバレれば一族皆殺しですが、張春華は即座にその侍女を殺害して口封じをし、自ら料理をして秘密を守り抜きました。

この冷徹な判断力に、司馬懿は生涯頭が上がらなかったと言います。

それと、晩年に司馬懿が若い側室を寵愛し、張春華を「老いぼれ」と呼んで疎んじた際には、彼女はハンガーストライキを決行。

これに、息子たちもそれに同調して断食したため、司馬懿は慌てて謝罪しました。

後に司馬懿は、「老いぼれが死ぬのは構わんが、息子たちに迷惑がかかる」と陰口を叩いたそうですが、彼女の存在感は最後まで圧倒的だったのです。

悲劇的な最期を遂げたヒロイン

悲劇的な最期を遂げたヒロイン

乱世において、女性たちの最期はしばしば悲劇的であり、その死に様が物語に深い陰影を落としています。

まずは、前述の甄氏ですが、その最期はあまりにも残酷です。

曹操の死後、皇帝となった曹丕は、次第に郭女王などの新しい側室を寵愛するようになり、甄氏を顧みなくなりました。

そして、甄氏が不満を漏らしたことを知った曹丕は激怒し、彼女に自害を命じます。

さらに、「死後、冥界で閻魔大王に言いつけられないように」という呪術的な理由から、彼女の遺体は髪を振り乱して顔を覆わせ、口には糠(ぬか)を詰め込まれた状態で葬られました。

かつてあれほど愛された女性に対する仕打ちとしては、あまりに無残であり、権力者の愛の冷酷さを象徴するエピソードとなっていますね。

また、孫尚香の最期も『演義』では涙を誘いますよ。

呉に連れ戻され、劉備と離れ離れになっていた彼女のもとに、夷陵の戦いで「劉備が戦死した」という誤報が届きます。

この時、彼女は絶望し、長江に身を投じて後を追いました。

政略結婚として始まり、周囲からは不仲とも噂された二人でしたが、物語の中では真実の愛で結ばれていたことが、この悲劇的な最期によって証明されるのです。

ちなみに、現在でも長江のほとりには、彼女を祀った「梟姫祠(きょうきし)」があり、その貞節を伝えていますよ。

三国志で人気の女性キャラと能力

現代のゲーム(『真・三國無双』シリーズや『三国志大戦』など)や漫画では、史実の記述が少ない女性たちにも独自のキャラクター付けがなされ、人気を博しています。

例えば、関羽の娘とされる関銀屏(かんぎんぺい)。

「虎の娘を犬の子にはやれん」と関羽が孫権との縁談を断った逸話の「虎の娘」ですね。

正史には名前がありませんが、民間伝承では武芸を学び、南蛮征伐などで活躍する怪力無双の美少女として描かれます。

そして、ゲームでも巨大な武器を振り回すパワーファイターとして登場することが多く、そのギャップが人気なんです。

これと同様に、関羽の三男・関索の妻とされる鮑三娘(ほうさんじょう)も人気ですね。

『花関索伝』という物語に登場する彼女は、元々は山賊の頭領でしたが、関索との一騎打ちに敗れて彼に惚れ込み、妻となって共に戦います。

非常に現代的で活発なキャラクターとして描かれることが多く、若い世代のファンから支持されています。

また、馬超の妹で趙雲の妻になったとされる馬雲騄(ばうんりょく)も忘れてはいけません。

彼女は『反三国志』という清代の小説で創作された架空の人物ですが、兄譲りの武勇と趙雲への愛を貫く姿が魅力的で、現代のシミュレーションゲームではほぼ「準レギュラー」として登場します。

高い武力と統率力を持ち、戦場の花形としてプレイヤーに愛用される最強クラスの女性武将の一人ですよ。

歴史探偵男

国を傾けた孫魯班や武勇を誇る祝融夫人、知恵で一族を救った辛憲英。彼女たちは単なる「守られる存在」ではありません。このように、属性別に比較することで、それぞれの武器を活かし、男性中心の過酷な乱世を逞しくサバイバルしていた強烈な個性が浮き彫りになるのです。

現代視点で読み解く三国志の女性一覧

「三国志 女性 一覧」という視点で歴史を振り返ると、彼女たちが単なる「英雄の付属品」や「戦利品」ではなく、それぞれの意志と信念を持って、過酷な乱世を懸命に生きていたことがよく分かりますね。

史実という冷徹な記録の中では、彼女たちは政略結婚の道具として扱われ、名前さえ残らないことがほとんどでした。

しかし、後世の人々は『三国志演義』や民間伝承という物語の中で、彼女たちに「貂蝉」や「関銀屏」といった名前を与え、国を救うために命を懸けたり、愛する人を守るために戦ったりする「主役」としての魂を吹き込みました。

それは、歴史の陰に隠れてしまった女性たちの無念や悲しみに寄り添い、その存在を称えたいという、人々の優しい願いの表れだったのかもしれませんね。

貂蝉の自己犠牲、王異の勇気、辛憲英の聡明さ、そして甄氏の哀しみ。

彼女たちの生き様は、現代に生きる私たちにも通じる強さと儚さを感じさせてくれます。

歴史の事実は残酷な側面もありますが、そこから生まれた物語や伝説も含めて楽しむのが、三国志の醍醐味だと私は思いますよ。

ぜひ、この記事をきっかけに、あなたのお気に入りの女性キャラクターを見つけて、その生涯に思いを馳せてみてくださいね。

きっと、今までとは違った新しい三国志の魅力が見えてくるはずですから。

歴女

政略結婚の駒だった女性たちが、物語を経て「主役」へと進化した過程は圧巻です。私たちが惹かれるのは、不条理な運命に抗う彼女たちの強さに共感するからでしょう。三国志を彩る女性たちの凛とした生き様は、今を生きる私たちにも勇気を与えてくれますね。

※本記事で紹介した内容は、歴史書『三国志(正史)』および小説『三国志演義』、後世の民間伝承に基づいています。史実の解釈には諸説あり、ゲームや漫画などの創作作品によってキャラクターの設定が大きく異なる場合がありますのでご注意ください。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次