歴史探偵女三国志は知っているけど魏書ってなに?



魏書には何が書かれているのか?
この記事では、こんな疑問にお答えしますね。
- 正史『三国志』魏書の基本情報と構成
- 編纂者・陳寿の生涯と執筆背景
- 王沈の『魏書』との違いと特徴
- 魏書に登場する主要人物と内容
- 魏志倭人伝(邪馬台国・卑弥呼)について
- 裴松之の注が果たした役割
- 三国志演義との違いと関係性


- 歴史大好き女
- 今まで読んだ歴史書籍は日本史&世界史で200冊以上
- 日本史&中国史が得意
- 特に中国の春秋戦国時代や三国時代、日本の戦国時代が好き


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三国志の魏書(ぎしょ)をご存知ですか?
正史『三国志』の中で魏の歴史を記した部分で、曹操から曹奐まで、魏王朝の興亡を詳細に記録した歴史書なんです。
西晋の陳寿(ちんじゅ)が編纂したこの魏書は、全30巻から成り、本紀4巻と列伝26巻で構成されています。
また、日本でも有名な魏志倭人伝(ぎしわじんでん)を含み、邪馬台国や卑弥呼に関する貴重な記録も残されていますよ。
そこで、この記事では、魏書の構成から編纂者の陳寿の生涯、演義との違いまで、分かりやすく解説していきますね。
三国志の魏書とは?基本情報を徹底解説


陳寿が編纂した正史『三国志』の一部
三国志の魏書は、正史『三国志』全65巻のうち、魏の歴史を記した30巻のことです。
この正史とは、中国の王朝が公式に認めた歴史書のことですね。
陳寿によって280年以降に編纂され、魏・蜀・呉の三国時代を記録しています。


そして、『三国志』は魏書30巻、蜀書(しょくしょ)15巻、呉書(ごしょ)20巻の計65巻で構成されています。
つまり、魏書は三国志全体の約半分を占める重要な部分なんですね。
また、三国志が編纂された時期は、西晋による中国統一直後でした。
そのため、陳寿は西晋の立場から歴史を記述する必要があったのです。
ちなみに、この魏書は『史記』『漢書』『後漢書』と並んで「四史(しし)」と呼ばれ、中国の代表的な歴史書として高く評価されています。
その簡潔で生き生きとした文章は、多くの歴史家から称賛されてきたのです。
魏書の構成と巻数
魏書は全30巻から成り、本紀(ほんぎ)4巻と列伝(れつでん)26巻で構成されています。
この本紀とは、皇帝の事績を記す部分で、列伝は個人の伝記を主として描く部分です。
なお、通常の正史に含まれる表(年表)や志(制度などの記録)は存在しません。
魏書の構成(主要巻)
| 巻数 | 内容 | 主な人物 |
|---|---|---|
| 巻1 | 武帝紀 | 曹操 |
| 巻2 | 文帝紀 | 曹丕 |
| 巻3 | 明帝紀 | 曹叡 |
| 巻4 | 三少帝紀 | 曹芳・曹髦・曹奐 |
| 巻5 | 后妃伝 | 歴代皇后 |
| 巻6 | 董二袁劉伝 | 董卓・袁紹・袁術・劉表 |
| 巻10 | 荀彧荀攸賈詡伝 | 荀彧・荀攸・賈詡 |
| 巻17 | 張楽于張徐伝 | 張遼・楽進・于禁・張郃・徐晃 |
| 巻30 | 烏丸鮮卑東夷伝 | 魏志倭人伝を含む |
魏書の各巻には、三書通しの巻数と各書それぞれの巻数が併記されています。
たとえば、「諸葛亮伝第五 蜀書 国志三十五」のように記されているのです。
これは、各書が独立性を持ちながらも全体として統一されることを示す工夫でした。
また、魏書が30巻と最も多いのは、魏に関する史料が豊富だったためです。
魏には、史官(しかん)が置かれ記録が整っており、また王沈(おうちん)の『魏書』や魚豢(ぎょかん)の『魏略』など先行文献も存在しました。
したがって、陳寿はこれらの史料を取捨選択して編纂することが出来たのです。
魏を正統とする歴史観
三国志の魏書において、魏の支配者曹氏のみが皇帝の称号のもとに「紀」として記されています。
一方、蜀の劉氏は先主伝・後主伝、呉の孫氏は呉主伝・三嗣主伝とすべて「主」の名称のもとに「伝」として記されているのです。
そして、魏・蜀・呉それぞれの扱いの違いには、明確な理由があります。
それは、魏は後漢から禅譲を受けて正式に成立した王朝であり、魏から西晋へと禅譲が行われています。
そのため、西晋に仕える陳寿にとって、魏を正統とすることは自然な選択だったのです。
ただし、陳寿の歴史観には微妙なバランスがありました。
魏を正統としながらも、蜀や呉の独立性も尊重されています。
たとえば、敬語の使い方などから蜀漢を比較的よく扱おうとする姿勢が見えるのです。
これは、陳寿自身が蜀の出身だったことも影響している可能性が高いでしょう。



陳寿は魏を正統とする立場を取りましたが、これは単なる政治的配慮ではありません。魏が後漢から禅譲を受け、さらに晋へと継承された歴史的正統性を重視した結果なんです。また、三国を並列に扱う構成は、客観性への配慮も示していますね。
編纂者・陳寿の生涯と執筆の背景
蜀出身の歴史家が魏を記す
陳寿は233年、蜀の巴西郡(はせいぐん)安漢県に生まれました。
字(あざな)は承祚(しょうそ)といいます。
また、彼の出自は「巴西陳氏」という地域の名門で、「安漢四姓」の一つに数えられる家柄でした。
陳寿の生涯年表
| 年代 | 年齢 | 出来事 |
|---|---|---|
| 233年 | 1歳 | 蜀の巴西郡安漢県に生まれる |
| 250年代 | 20代 | 譙周のもとで儒学と史学を修める |
| 260年前後 | 20代後半 | 蜀に仕官、東観秘書郎などを歴任 |
| 263年 | 31歳 | 蜀滅亡、西晋に仕える |
| 270年代 | 40代 | 佐著作郎、著作郎を歴任 |
| 280年以降 | 40代後半 | 『三国志』を完成させる |
| 297年 | 65歳 | 病死 |
若き陳寿は、譙周(しょうしゅう)という学者のもとで学問を修めました。
譙周は優れた儒学者であり、陳寿に深い影響を与えています。
ちなみに、譙周は陳寿に「学問の才能で名を挙げるが、きっと評判を損なわれることになる」と予言したそうです。
そこで、蜀に仕官した陳寿は、衛将軍諸葛瞻(しょかつせん)の主簿や、宮中文庫の管理者である東観秘書郎を歴任しました。
しかし、宦官(かんがん)の黄皓(こうこう)に意見したため、何度も左遷されています。
このように、陳寿は正直で曲げない性格だったんですね。
その後263年、蜀が滅亡すると陳寿は西晋に仕えました。
同郷の羅憲(らけん)の推挙により孝廉(こうれん)に挙げられ、佐著作郎から著作郎へと昇進していきます。
これは、亡国の出身者としては、まずまずの出世だったといえるでしょう。
『三国志』編纂の経緯
陳寿が『三国志』の編纂を始めたのは、280年の西晋による中国統一後とされています。
彼はすでに著作郎として、歴史編纂の任務を担っていました。
張華(ちょうか)や杜預(とよ)といった高官の推挙を受け、治書侍御史・兼中書侍郎・領著作郎と官を進めています。
そして、三国志の編纂にあたって、陳寿は多くの史料を収集しました。
魏については、王沈の『魏書』と魚豢の『魏略』を、呉については韋昭(いしょう)の『呉書』を参考にしています。
ただし、蜀については先行のまとまった史書を欠いていたため、自身の見聞や蜀の遺臣からの情報をもとに執筆したのです。
また、陳寿の記述は簡約を主としていました。
それは、信憑性の薄い史料を排除し、確実な情報のみを記録したためです。
その結果、『三国志』本文は約35万字という簡潔なものになりました。
この簡潔さが、かえって後世の裴松之(はいしょうし)に詳細な注を作らせるきっかけとなります。
そこで、『三国志』完成後に、張華は「『晋書』を君に託したい」と称賛しました。
荀勗(じゅんきょく)は「陳寿は過去の歴史家である班固や司馬遷にも勝る」と激賞したそうです。
こうした評価が、『三国志』を正史として後世に伝える原動力となったのですね。
諸葛亮への評価
陳寿と諸葛亮(しょかつりょう)の関係には、興味深い逸話があります。
『晋書』によれば、陳寿の父が諸葛亮に処罰されたため、陳寿は諸葛亮の悪口を書いたという説があるのです。
しかし、実際の諸葛亮伝を読むと、むしろ高く評価していることが分かりますよ。
陳寿は、諸葛亮を「治民の幹優れたり」と評価しました。
つまり、民を治める才能に優れていたというのです。
その一方で、「奇謀を為すに短し」とも記し、軍略については若干の批判も加えています。
これは、諸葛陽に関して客観的な評価といえるでしょう。
また、陳寿は諸葛亮伝の中に「諸葛氏集目録」を皇帝に上奏した際の上奏文を掲載しています。
列伝体では珍しいこの措置は、諸葛亮への敬意を示すものでした。
したがって、晋書による私怨説は疑わしいとされているんですよね。
そして、この姿勢こそが歴史家としての陳寿の真価を示していますね。
個人的な感情を超えて、史実を公正に記録する。これが良史(りょうし)の条件だったのです。





陳寿自身が蜀の出身でありながら魏を正統として記したことは、歴史家としての客観性を示しています。個人的感情や出身地への思い入れを超え、史実を重んじた姿勢が高く評価されたのです。
王沈の『魏書』との違いを知ろう
同時代に存在した二つの魏書
実は「魏書」という名前の歴史書は、陳寿のものだけではありません。
曹魏時代に、王沈らによって編纂された『魏書』全44巻も存在したのです。
しかし、この王沈の『魏書』は現存せず、『三国志』の注釈の中などに断片的に残されているのみです。
そして、王沈の『魏書』が編纂されたのは、司馬氏による簒奪(さんだつ)が企図されていた曹魏末期でした。
劉知幾(りゅうちき)の『史通』によれば、黄初・太和年間(220年代)に尚書の衛覬(えいき)らが草創を始め、その後何度も編纂者が変わっています。
その後、最終的に王沈が一人で編纂に従事し、全44巻の『魏書』として完成させました。
しかし、時勢に配慮して曹氏と司馬氏の双方に対して曲筆(きょくひつ)が行われており、劉知幾は「殊に実録にあらず」と評しています。
つまり、王沈の魏書は真実の記録ではないということですね。
また、興味深いことに、編者の王沈は甘露の変において、曹髦(そうぼう)の司馬氏への逆クーデターを密告した人物でした。
そのため、魏書での司馬氏に配慮した記述は、ある意味当然だったのです。
このような政治的背景が、王沈の『魏書』の信頼性を損ねる要因となりました。
陳寿の魏書が生き残った理由
王沈の『魏書』が消滅したのに対し、陳寿の魏書は現代まで伝わりました。
この違いはどこにあったのでしょうか?
その最大の理由は、陳寿の文章と歴史観の優秀さにあります。
ちなみに、夏侯湛(かこうたん)という人物も、自ら『魏書』を執筆していました。
しかし、陳寿の『三国志』を見て、自らが執筆中だった『魏書』を破り捨ててしまったという話が残っています。
これは、陳寿の作品がいかに優れていたかを示す逸話ですね。
また、南斉の劉勰(りゅうきょう)は、陳寿の『三国志』を高く評価しました。
「文章に洞察と知識とが行き渡っていて、荀勗と張華が司馬遷と班固に比したのも、妄りに称誉したものではない」と。
その一方で、孫盛(そんせい)の『晋陽秋』などは「もったいぶっていて検証しがたい」と非難したのです。
そして、陳寿の魏書は、簡潔でありながら要点を押さえた記述が特徴でした。
「余計な修飾を排除し、史実のみを的確に伝える」この文体が、多くの読者と後世の歴史家に支持されたのです。
史料としての信頼性の違い
王沈の『魏書』と陳寿の魏書では、史料としての信頼性に大きな違いがありました。
王沈は曹魏の官僚として、当時の政治情勢に配慮せざるを得なかったのです。
そのため、曹氏や司馬氏に不都合な事実は隠蔽されました。
その一方で、陳寿は西晋統一後に執筆しています。
したがって、魏の時代を客観的に振り返ることが出来たのです。
もちろん、西晋の立場から魏を正統とする必要はありましたが、事実の歪曲は最小限に抑えられています。
また、陳寿は当時あった多様な史料を参照しました。
王沈の『魏書』や魚豢の『魏略』など、複数の文献を比較検討して記述したのです。
この姿勢が、より客観的で信頼性の高い歴史書を生み出しました。
ちなみに、陳寿の魏書の底本として王沈の『魏書』が利用されたと考えられています。
さらに、陳寿は信憑性の薄い史料を排除し、確実な情報のみを記したのです。
この慎重さが、後世の歴史家から「良史の才」と評価される理由となりました。



同じ「魏書」という名前でも、王沈版は政治的配慮が強く信頼性に欠けました。その一方、陳寿版は客観的で簡潔な記述が評価され、唯一現代まで伝わる魏の正史となりました。歴史書の価値は、真実への誠実さで決まるのです。
魏書の主要内容と登場人物


本紀に記される曹氏の歴史
魏書の本紀4巻には、曹氏三代と三少帝の事績が記されています。
これは、魏王朝の通史ともいえる重要な部分ですね。
それでは、それぞれの皇帝がどのような治世を行ったか、一緒に見ていきましょう。
列伝に登場する名将・謀臣たち
魏書の列伝26巻には、魏を支えた多くの人物が登場します。
その中でも、特に重要な人物を紹介していきますね。
主要謀臣
- 荀彧(じゅんいく): 曹操の首席参謀で「王佐の才」と評されました。内政や戦略立案に優れ、曹操の覇業を支えました。
- 荀攸(じゅんゆう): 荀彧の甥で、軍事作戦の立案に長けていました。官渡の戦いでは決定的な献策を行っていますね。
- 賈詡(かく): 冷静沈着な策略家で、曹操に仕えてから重用されました。潼関の戦いでの離間の計が有名ですね。
- 郭嘉(かくか): 若くして亡くなった天才軍師です。曹操は郭嘉の死を深く悼み、「奉孝がいれば」と何度も嘆いたといいます。
主要武将
- 張遼(ちょうりょう): 「五子良将」の筆頭で、合肥の戦いでの活躍が有名です。少数の兵で呉の大軍を撃退しました。
- 于禁(うきん): 長年曹操に仕えた武将ですが、晩年の樊城の戦いで降伏し、不名誉な最期を遂げます。
- 徐晃(じょこう): 冷静な判断力を持つ武将で、関羽が包囲した樊城を救援しました。
- 張郃(ちょうこう): もとは袁紹配下でしたが、官渡の戦い後に曹操に降りました。諸葛亮の北伐を何度も退けています。
その他の重要人物
- 司馬懿: 後の晋の創始者の祖父で、魏の実権を握った人物です。諸葛亮のライバルとして知られていますね。
- 曹植(そうしょく): 曹操の子で、優れた詩人でした。「七歩の才」の逸話で有名ですね。
- 陳群(ちんぐん): 九品中正法(きゅうひんちゅうせいほう)を制定し、魏の官吏登用制度を整備しました。
魏志倭人伝(東夷伝)
魏書の巻30「烏丸鮮卑東夷伝(うがんせんぴとういでん)」には、魏の周辺異民族に関する記述があります。
その最終部分が「倭人条」、いわゆる魏志倭人伝になっています。
これは、約2000字という短い記述ですが、古代日本を知る唯一の同時代史料として極めて重要なんです。
そして、魏志倭人伝には、邪馬台国(やまたいこく)と女王卑弥呼(ひみこ)の記録が残されています。
239年、卑弥呼は魏に使者を送り、「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号と金印を賜りました。
そこで、記述によれば、卑弥呼は鬼道(きどう)という呪術を用いて人々を統率していました。
弟が政治を補佐し、卑弥呼自身はあまり人前に出なかったと言われていますね。
また、邪馬台国への道程や、当時の倭人の風俗なども詳しく記されています。
それと、卑弥呼の死後には大きな墓が造られ、殉葬者は百余人に及んだとあります。
その後、男王が立てられましたが国中が服従せず、13歳の壱与(いよ/とよ)という女性を王として国が治まったそうです。
こうした記録は、弥生時代の日本を理解する上で貴重な手がかりとなっていますよ。





魏書には魏の支配層だけでなく、周辺異民族の記録も含まれています。特に魏志倭人伝は、古代日本を知る唯一の同時代史料として、日本史研究に欠かせない存在ですね。中国の視点から見た日本の姿が、ここに記録されています。
裴松之の注が果たした重要な役割
簡潔すぎる陳寿の記述
陳寿の『三国志』本文は、約35万字という簡潔なものでした。
これは、陳寿が信憑性の薄い史料を排除し、確実な情報のみを記録する方針を取ったためです。
しかし、この簡潔さが逆に問題となりました。あまりにも情報が少なく、多くのことが分からなかったのです。
たとえば、重要な戦いでも数行で終わっていることがあります。
また、人物の性格や逸話などもほとんど記されていません。
歴史の骨組みは分かっても、血肉が感じられないという批判もあったのです。
さらに、陳寿は異説や伝説的要素を積極的に排除しました。
これは歴史家としては正しい姿勢ですが、当時の人々の関心に応えるものではなかったのです。
そのため、陳寿の死後、その記述を補う必要性が認識されるようになりました。
そこで、南朝宋の文帝は、この問題を解決するため裴松之に注を作ることを命じました。
これを受けて、裴松之は元嘉6年(429年)、詳細な注を完成させて上表とともに提出します。
これが、現在私たちが読む『三国志』の形となったのです。
200種類以上の史料を引用
裴松之(372年-451年)は、南朝宋の歴史家です。
彼は、陳寿の簡潔な記述を補うため、200種類以上の史料を精査して注釈を作成しました。
この作業は、実に膨大なものだったと言えますよね?
ちなみに、裴松之が引用した主な史料には、以下のようなものがあります:
主要引用史料
- 『魏略』: 魚豢が著した魏の歴史書で、陳寿も参照した重要史料です。
- 『世語』: 郭頒(かくはん)撰の『魏晋世語』のことで、変わった逸話が多く含まれています。
- 『曹瞞伝』: 作者不明ですが、曹操の悪行を記した書です。『三国志演義』にも多く取り入れられました。
- 『趙雲別伝』: 趙雲(ちょううん)の伝記で、『三国志演義』での趙雲の活躍はこれに拠っています。
- 『呉録』: 呉の歴史を記した書で、呉の視点からの記述が含まれます。
- 『江表伝』: 呉に関する逸話集です。
裴松之の注は、本文とほぼ同じ字数に達したとされています。
つまり、注釈が約35万字、本文と合わせて約70万字になったのです。
古くは本文の数倍と見られていましたが、近年の研究で同量であることが判明しました。
そして、裴松之は単に史料を引用するだけでなく、異説を併記したり、自らの見解を述べたりもしています。
また、史料の信憑性についても慎重に評価しました。
こうした姿勢が、裴松之の注を単なる補足以上のものにしているのです。
演義の源泉となった注
裴松之の注は、後世の文学作品に大きな影響を与えました。
特に、明代の羅貫中が著した『三国志演義』は、裴松之の注から多くの材料を得ています。
陳寿の本文だけでは、面白い物語は作れなかったでしょう。


たとえば、曹操が呂伯奢(りょはくしゃ)の家族たちを誤って殺した後、「寧ろ我れ人に負くも、人をして我れに負くこと毋からしめん」と言った台詞があります。
これは、演義でもかなり有名ですが、実は孫盛の『異同雑語』という史料に初めて現れた記述なのです。
また、趙雲が長坂坡(ちょうはんは)で劉備の子・阿斗(あと/劉禅)を救出する活躍も、『趙雲別伝』に基づいています。
陳寿の本文では、趙雲の記述は極めて簡潔でしたが、裴松之が『趙雲別伝』を引用したことで、趙雲の英雄的イメージが形成されたのです。
そのため、裴松之の注がなければ、『三国志演義』は全く違った作品になっていたことでしょう。
つまり、現在私たちが知る三国志の物語の多くは、裴松之の注に基づいているのです。
このように、歴史書の注釈が文学作品の源泉となる、これはとても興味深い現象ですね。



裴松之の注がなければ、現在私たちが知る三国志の物語の多くは存在しませんでした。陳寿の簡潔な記述を補完した注は、歴史と文学の架け橋となったのです。
三国志演義との違いを理解する
魏書で描かれる史実
正史の魏書と『三国志演義』では、同じ人物や出来事の描写が大きく異なります。
ここでは、特に顕著な違いをいくつか見てみましょう。


演義が生まれた背景
では、なぜ『三国志演義』のような小説が生まれたのでしょうか?
その背景には、いくつかの要因があります。
まず、唐代以降、三国時代の物語は講談や説話として民間で語り継がれていました。
講釈師(こうしゃくし)たちが、街頭で三国志の物語を語っていたのです。
こうした口承文学が、徐々に文字化されていきました。
次に、宋代には「三国志平話(へいわ)」という話本(はなしぼん)が成立しました。
これは講談をもとにした読み物で、すでに多くの創作が加えられています。
羅貫中は、この平話をもとに『三国志演義』を著したのです。
また、蜀漢正統論の影響も大きかったと言えますね。
宋の朱熹は蜀を正統としましたし、民間でも劉備への同情が強かったのです。
このような、判官贔屓(はんがんびいき)の心理が、演義の方向性を決めたと言えるでしょう。
さらに、当時の中国におけるエンターテインメントとしての需要もありました。
つまり、人々は単なる歴史よりも面白い物語を求めていたのです。
そのため、羅貫中は史実を基礎としつつ、大胆な創作を加えて読者を楽しませました。



正史である魏書は史実を淡々と記録し、演義は娯楽性を重視して脚色しました。どちらも価値ある作品ですが、歴史を学ぶなら魏書、物語を楽しむなら演義がおすすめです。そして、両者を比較することで、より深く三国志の世界を理解することが出来ますよ。
まとめ
三国志の魏書は、西晋の陳寿が編纂した正史『三国志』の中核をなす歴史書です。
全30巻から成り、魏王朝の興亡を客観的に記録しています。
また、編纂者の陳寿は蜀の出身でありながら、歴史家として魏を正統とする立場を貫きました。
個人的な感情を超えて史実を重んじる姿勢は、真の歴史学の精神を示していますよね。
そして、魏書には曹操から曹奐までの本紀4巻と、荀彧・郭嘉・張遼などの名将謀臣の列伝26巻が含まれています。
さらに、魏志倭人伝として邪馬台国や卑弥呼の記録も残され、古代日本研究の貴重な史料となっているのです。
陳寿の簡潔な記述は、後に裴松之の詳細な注で補完され、これが『三国志演義』の源泉となりました。
さらに、同時代の王沈の『魏書』が消滅した中、陳寿の魏書だけが現代まで伝わったのは、その優れた文章と客観性が評価された証です。
正史として、また三国時代を知る貴重な史料として、魏書の価値は今も色褪せることがありません。



魏書は単なる歴史記録ではなく、歴史家の良心と客観性の結晶なんです。蜀出身の陳寿が魏を記した事実こそ、真の歴史学の精神を示していますよね。史実への誠実さが、1700年以上を経た今もなお輝き続けるのです。
