歴史探偵女魏志倭人伝って何が書かれているの?



卑弥呼って実在した人物なのか知りたい
この記事では、こんな疑問にお答えしますね。
- 魏志倭人伝と三国志の関係がわかる
- 3世紀の日本(邪馬台国)の様子がわかる
- 卑弥呼という女王の実像がわかる
- 邪馬台国論争の争点がわかる
- 史料としての価値と限界がわかる
- 三国志演義との違いがわかる


- 歴史大好き女
- 今まで読んだ歴史書籍は日本史&世界史で200冊以上
- 日本史&中国史が得意
- 特に中国の春秋戦国時代や三国時代、日本の戦国時代が好き


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- 日本史&中国史が得意
- 特に中国の春秋戦国時代や三国時代、日本の戦国時代が好き
「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」をご存知ですか?
これは、卑弥呼(ひみこ)や邪馬台国(やまたいこく)が記された、3世紀の日本を知る貴重な史料のことです。
しかし、実はこの魏志倭人伝、あの有名な「三国志」の一部なんですよ。
それでは、なぜ中国の歴史書に日本の記述があるのか?
そこで、この記事では、魏志倭人伝と三国志の関係、そして謎に包まれた古代日本の姿をわかりやすく解説しますね。
魏志倭人伝とは?三国志との深い関係


まずは、魏志倭人伝の基本情報から見ていきましょう。
三国志との関係を理解することで、この史料の位置づけが明確になりますよ。
正式名称は「魏書東夷伝倭人条」
実は「魏志倭人伝」というのは通称なんです。
正式には、「魏書東夷伝倭人条(ぎしょとういでんわじんじょう)」といいます。
つまり、『三国志』という歴史書の中の『魏書』という部分に含まれる、東夷伝(とういでん)の倭人(わじん)に関する条項ということですね。
ちなみに、三国志は大きく分けて3つの部分から構成されています。
- 魏書(ぎしょ):魏の歴史を記した部分(30巻)
- 呉書(ごしょ):呉の歴史を記した部分
- 蜀書(しょくしょ):蜀の歴史を記した部分
この魏書の第30巻に「烏丸鮮卑東夷伝(うがんせんぴとういでん)」があり、その最後の部分に倭人についての記述があるのです。
そして、東夷伝というのは、中国から見て東方に住む異民族について記録した部分を指しますよ。
陳寿が書いた正史としての三国志
当辞典で何度も出てきますが、三国志を書いたのは、陳寿(ちんじゅ)という人物です。
彼は、西晋という王朝に仕えた官僚で、233年から297年まで生きていました。
そして、三国志は280年代、つまり3世紀末に完成したと考えられています。


そこで重要なのは、陳寿が書いた三国志は「正史(せいし)」だということです。
正史とは、国家が公式に認めた歴史書のこと。
つまり、娯楽作品ではなく、当時の記録として書かれた信頼性の高い史料なんです。
その一方で、私たちがよく知っている『三国志演義(さんごくしえんぎ)』は、14世紀に書かれた小説です。
という事は、陳寿の三国志と三国志演義は、1000年以上も時代が離れており、まったく別の書物なんですね。
ちなみに、魏志倭人伝が含まれるのは、陳寿が書いた正史のほうになりますよ。


なぜ中国の史書に日本が登場するのか
では、なぜ中国の歴史書に日本のことが書かれているのでしょうか?
その答えは、当時の外交関係にあります。
3世紀の日本(当時は倭国と呼ばれていました)は、中国の魏という国と外交を行っていたのです。
239年、倭国の女王・卑弥呼は魏の皇帝に使者を送りました。
これに対して、魏の皇帝は卑弥呼に「親魏倭王(しんぎわおう)」という称号を与え、金印や銅鏡百枚などの品々を贈っています。
ちなみに、これは中国の「冊封体制(さくほうたいせい)」と呼ばれる外交システムの一環です。
当時の中国は魏・呉・蜀の三国に分かれて争っていました。
そこで、魏は呉に対抗するため、東方の倭国と友好関係を結ぶことで、呉を牽制しようとしたと考えられています。
つまり、倭国との外交は魏にとって重要な外交戦略だったんですね。
そのため、陳寿は魏書の中に倭国についての詳しい記録を残しました。



魏志倭人伝は日本の古代史を知る第一級の史料です。しかし、陳寿は日本を訪れておらず、伝聞に基づく記述であることを理解する必要がありますね。
魏志倭人伝に記された3世紀の日本
それでは、魏志倭人伝には具体的にどんなことが書かれているのでしょうか?
今から約1800年ほど前、3世紀の日本の様子を見ていきましょう。
邪馬台国への道のり
魏志倭人伝の最も有名な部分が、邪馬台国への道程記述です。
朝鮮半島にあった帯方郡(たいほうぐん)から邪馬台国までの道のりが、詳細に記されていますよ。
ちなみに、帯方郡は現在のソウル付近にあった中国の出先機関ですね。
そこで、記述によれば、まず帯方郡から海を渡って狗邪韓国(くやかんこく)へ。
そこから、南へ海を渡ること千里で対馬国(つしまこく)に到着します。
この対馬は、現在の長崎県に属している対馬ですね。
さらに、南へ千里で一支国(いきこく)、これは壱岐(いき)のことになります。
そこから東南へ進み、末盧国(まつろこく)、伊都国(いとこく)、奴国(なこく)、不弥国(ふみこく)などを経て、邪馬台国に至るとされています。
ただし、この距離や方角の記述には矛盾があり、邪馬台国の場所が特定できない原因となっているのです。
倭人の風俗と生活
魏志倭人伝には、当時の日本人の生活が生き生きと描かれています。
気候については「温暖で、冬も夏も生野菜を食べている」と記されていますよ。
確かに日本は、今でも温暖な気候に恵まれていますね。
そして、服装については「貫頭衣(かんとうい)を着ている」とあります。
ちなみに、貫頭衣とは布の中央に穴を開けて頭を通す簡単な衣服のこと。
また、倭人は体に入れ墨(いれずみ)をする習慣があったことも記録されています。
これは、海に潜って魚を取る際、大魚や水禽(すいきん)を避けるためだったということです。
それと、食生活については、魚介類を好んで食べていたことが記されています。
一方で、牛・馬・虎・豹・羊などはいないが、猿や雉(きじ)がいると書かれています。
これは、当時の日本の動物の状況についてよく表していますね。
当時の政治・社会制度
魏志倭人伝によれば、当時の倭国には約30の小国がありました。
各国は独自の王を持ちながらも、邪馬台国の女王・卑弥呼を中心とした連合体制を形成していたようです。
この体制は、一種の連合国家と言えるでしょう。
そして、社会には明確な身分制度が存在していました。
- 大人(たいじん):支配階級
- 下戸(げこ):一般民衆
- 生口(せいこう):奴隷
この大人と下戸の間には厳格な上下関係がありました。
下戸が大人と道で出会うと、道の脇に下がって敬意を示さなければならなかったようです。
また、言葉をかける時は、地面にひざまずき、両手を地につけて敬意を表したといいます。
さらに、既に租税制度も確立されており、税を収める倉庫が存在していました。
それと、各国には市場があり、交易が行われていたことも記されています。
一大率(いちだいそつ)という監督官が置かれ、諸国を監視していたともあるんですね。



魏志倭人伝の記述から、3世紀の日本には既に階層社会が成立し、税制や市場など組織的な統治システムが存在したことが分かりますね。
女王卑弥呼の実像に迫る


魏志倭人伝で最も注目されるのが、女王・卑弥呼の存在です。
それでは、彼女はどのような人物だったのでしょうか?
鬼道を操る巫女女王
卑弥呼が女王に即位する前、倭国は長期間にわたる混乱状態にありました。
もともと、男性の王が70〜80年間統治していましたが、2世紀後半に倭国は大いに乱れていたんですよね。
これを「倭国大乱(わこくたいらん)」と呼びます。
そこで、この混乱を収めるため、人々は卑弥呼という一人の女性を王にたてました。
ちなみに、魏志倭人伝には、卑弥呼について「鬼道(きどう)に事(つか)え、よく衆を惑わす」と記されています。
この鬼道とは、占いや呪術のことなので、卑弥呼は宗教的権威によって人々を統率したシャーマン(巫女)だったんですね。
そして、卑弥呼には夫はおらず、弟が政治を補佐していました。
彼女は、女王となってからは、めったに人と会わなかったといいます。
また、女王には1000人もの従者が仕えていたようです。
しかし、居所である宮殿には、ただ一人の男子だけが出入りして、飲食の給仕や伝言の取次ぎをしていました。
宮殿には、楼観(ろうかん)や城柵(じょうさく)が厳重に設けられ、常に兵士が守衛していたといいます。
魏への朝貢と親魏倭王の称号
239年(景初3年)、卑弥呼は魏の皇帝に使者を派遣しました。
使者として派遣されたのは、大夫(たいふ)の難升米(なんしょうまい)という人物です。
この時、彼らは生口(奴隷)や布などを貢物として持参しました。
そこで、魏の皇帝は卑弥呼の朝貢を大いに喜んだとされ、卑弥呼に「親魏倭王(しんぎわおう)」という称号を与えたのです。
ちなみに、この称号は「魏と親しい倭の王」という意味ですね。
それと同時に、金印と紫綬(しじゅ=紫色の組紐)、そして銅鏡百枚などが下賜されました。
また、親魏倭王という称号は、当時の外交体制において非常に高い地位を示すものでした。
遠く離れた東方の国の女王が、魏の徳を慕って朝貢してきたことは、魏の権威を示す重要な出来事だったのです。
なお、卑弥呼に贈られた金印は現在も発見されていません。
卑弥呼の死と台与の即位
247年頃、卑弥呼は死去しました。
魏志倭人伝には「大きな塚を作り、径は百余歩」と記されており、塚の大きさから相当大規模な墓が造られたことが分かりますね。
また、この時奴隷百余人が殉葬されたとも書かれています。
そして、卑弥呼の死後、男性の王が立てられましたが、国は治まりませんでした。
人々の間で争いが起こり、千人余りが殺されたといいます。
つまり、結局のところ男性の王では国をまとめることが出来なかったのです。
そこで、卑弥呼の宗女(親族の娘)である台与(とよ)という13歳の少女を女王に立てました。
すると、国はようやく安定を取り戻したといいます。
その後、彼女は266年に晋(魏の後継王朝)の武帝に使者を派遣し、朝貢を続けました。
しかし、魏志倭人伝の記述はここで終わっており、その後の邪馬台国がどうなったのかは謎のままです。



卑弥呼は宗教的権威と外交手腕を兼ね備えた指導者でした。女王でなければ国がまとまらないという状況は、当時は特殊な政治体制だったことを表していますね。
終わらない邪馬台国論争
魏志倭人伝の最大の謎、それが邪馬台国の場所です。
これは、江戸時代から300年以上続いており、今なおこの論争が続いています。
九州説の根拠
邪馬台国が九州にあったとする説は、古くから有力な説の一つです。
江戸時代の新井白石(あらいはくせき)や本居宣長(もとおりのりなが)も九州説を唱えました。
ちなみに、九州説の主な根拠は、魏志倭人伝の距離の記述です。
帯方郡から女王国までの総距離は12000里とされており、福岡県内の伊都国までで既に10500里を使っています。
つまり、残りの1500里は、邪馬台国の位置が九州地方北部に限られるという計算になるのです。
また、福岡県久留米市には祇園山古墳(ぎおんやまこふん)があります。
この古墳は、魏志倭人伝に記載される「卑弥呼の塚」の規模や特徴とよく一致しているのです。
さらに、石棺に朱が塗られていることなど、主体部の形式も合致するという指摘があります。
畿内説の根拠
一方、邪馬台国が畿内(きない)、特に奈良県にあったとする説も有力です。
この説は、明治時代の東洋学者・内藤湖南(ないとうこなん)が提唱しました。
そこで、畿内説の主な根拠ですが、魏志倭人伝の方角の記述に誤りがあったという解釈のためです。
魏志倭人伝では、邪馬台国は「南」にあるとされていますが、これを「東」の誤りと読み替えれば、畿内に到達するというのです。
そして、近年では畿内説を強く支持する考古学的発見があり、それは奈良県桜井市の纒向遺跡(まきむくいせき)です。
この遺跡では、邪馬台国時代の土器や巨大な祭殿の跡が見つかっています。
さらに、祭殿跡の寸法が魏で用いられていた単位と合致することも明らかになりました。
また、大量の桃の種が発掘され、その年代が卑弥呼が生存していた時期のものと判明したのです。
ちなみに、纒向遺跡の近くには箸墓古墳(はしはかこふん)があり、これが卑弥呼の墓ではないかという説もあります。
なぜ場所が特定できないのか
それでは、なぜ邪馬台国の場所が特定できないのでしょうか?
その最大の理由は、魏志倭人伝の距離と方角の記述に矛盾があることです。
記述通りに進むと、日本列島を越えて太平洋上に出てしまうんですよね。
そして、距離の解釈には「短里説(たんりせつ)」と呼ばれるものがあります。
これは、魏志倭人伝で使われている「里」が、通常の里(約434m)ではなく、短里(約76m)だったという説ですね。
この解釈により、距離の矛盾を説明しようとしています。
また、道程の解釈についても「連続説」と「放射説」があります。
連続説は、記述された国々を順番に通過したという解釈であり、放射説は伊都国を基点として各国への距離が記されているとする解釈になります。
このように、解釈の違いにより、導き出される場所が大きく変わってしまうのです。
さらに、魏志倭人伝は1800年もの間、何度も書き写されてきました。
その過程で誤記や思い違いが生じた可能性も否定できないんです。
実際、現存する版本では「邪馬臺国」と「邪馬壹国」の表記の違いもありますから。



邪馬台国論争は江戸時代から300年以上続いています。魏志倭人伝の記述だけで場所を特定することの困難さを物語っていますよね?
史料としての価値と限界


魏志倭人伝は貴重な史料ですが、その限界も理解する必要がありますよ。
日本古代史の第一級史料
魏志倭人伝の最大の価値は、3世紀の日本を知る唯一の同時代史料であることです。
日本では3世紀にはまだ文字が普及しておらず、当時の文書は一切残っていません。
そのため、中国側の記録である魏志倭人伝は、極めて貴重な情報源となっているのです。
そして、弥生時代後期の実態を知る上で、魏志倭人伝は欠かせない史料となっています。
それは、倭人の風俗、社会制度、政治体制など、考古学だけでは知ることができない詳細な情報が記されているからです。
これらの記述は、出土品などの考古学的発見と照らし合わせることで、より正確な歴史像を構築することが出来ます。
また、『後漢書(ごかんじょ)』という別の中国史書にも倭国の記述があります。
この後漢書ですが、5世紀に書かれたものであり、魏志倭人伝より後になりますね。
しかし、扱っている時代は後漢時代(1〜2世紀)と、魏志倭人伝より古いのです。
そのため、両者を比較することで、日本古代史の変遷をたどることが出来ますよ。
信頼性への疑問
一方で、魏志倭人伝の信頼性には疑問点も指摘されています。
最大の問題は、著者の陳寿が日本を訪れていないことなんです。
この書における彼の記述は、魏の使者や外交官からの伝聞情報に基づいています。
つまり、本人以外の伝聞情報である以上、誤解や誇張が含まれている可能性は否定できません。
そして、魏志倭人伝の編纂には、編纂者の意図が反映されている可能性も指摘されています。
陳寿は晋王朝に仕えており、晋の礎を築いた司馬懿(しばい)の功績を強調する必要がありました。
また、司馬懿のライバルである曹爽(そうそう)は西方の大月氏国(だいげっしこく)と外交を結んだ実績があります。
これに対抗するため、司馬懿の功績である倭国との外交を、大月氏国に匹敵する規模と距離の国家として記述した可能性があるというのです。
さらに、魏志倭人伝には当時の南方の国々に対する一般的なイメージが投影されている可能性も指摘されています。
入れ墨の習慣や貫頭衣などの記述は、中国人が南方民族に対して持っていた先入観に基づいて潤色された可能性があるのです。



魏志倭人伝は貴重な史料ですが、限界も理解すべきですね。考古学など他の研究成果と組み合わせることで、より正確な歴史像が浮かび上がりますよ。
三国志演義との違いを理解する
最後に、三国志と三国志演義との違いについて解説しますね。
正史と演義の違い
まず、三国志は歴史書、三国志演義は歴史を題材にした小説という違いがあります。
また、魏志倭人伝が含まれるのは、正史のほう、つまり陳寿の三国志です。
ちなみに、三国志演義には、日本(倭国)に関する記述は基本的にありませんよ。
これは重要なポイントなので、しっかり覚えておきましょう。
魏志倭人伝に三国志の英雄は登場しない
「卑弥呼は曹操に会ったの?」「諸葛亮は倭国を知っていたの?」
これらの疑問を持つ人がいると思いますが、答えはノーです。時代が合わないからです。
曹操は220年に、諸葛亮は234年に、劉備は223年に亡くなっています。
一方、卑弥呼が魏に使者を派遣したのは239年です。
つまり、三国志演義で活躍する主な英雄たちは、卑弥呼の遣使の時にはすでに亡くなっているのです。
ただし、司馬懿は卑弥呼の時代にまだ生きていました。
司馬懿は、238年に公孫淵(こうそんえん)を討伐し、遼東地方を平定しました。
これにより、魏は朝鮮半島の帯方郡を確保し、倭国との外交ルートが開かれたのです。
そして、卑弥呼が使者を派遣した239年に魏の皇帝だったのは、曹叡(そうえい)です。
景初3年の記述が正しければ、曹叡の死後、少帝の曹芳(そうほう)の時代ということになりますね。
ただ、いずれにしても、曹操や劉備、諸葛亮とは直接の接点はありません。



三国志演義の知名度が高いため混同されがちですが、魏志倭人伝が含まれるのは正史の三国志です。そのため、両者の違いを理解することが重要になりますよ。
まとめ
魏志倭人伝は、3世紀末に陳寿が編纂した正史『三国志』の一部で、3世紀の日本を記した唯一の同時代史料です。
そして、この史料には女王・卑弥呼が統治する邪馬台国、倭人の風俗や社会制度が詳しく記されています。
239年に卑弥呼が魏に使者を派遣し、「親魏倭王」の称号を授与された外交記録が、この史料が残された背景です。
また、邪馬台国の場所は九州説と畿内説があり、300年以上論争が続いていますね。
ただし、陳寿は日本を訪れておらず伝聞情報に基づくため、限界も理解する必要がありますよ。
さらに、娯楽小説の『三国志演義』とは別物であることも重要なポイントです。



魏志倭人伝は3世紀の日本を知る唯一の同時代史料として、今なお研究が続いています。そして、この史料の限界を理解しつつ活用することで、謎多き古代日本の実像に迫れますよ。
