三国志の諸葛亮(孔明)とは?天才軍師の生涯と功績を徹底解説

三国志の諸葛亮(孔明)とは?天才軍師の生涯と功績を徹底解説
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諸葛亮は有名だけど、どんな功績があったの?

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諸葛亮が天才軍師と呼ばれている理由が知りたい

この記事では、こんな疑問にお答えしますね。

この記事で分かること
  • 諸葛亮(諸葛孔明)の生涯と主な功績
  • 三顧の礼、天下三分の計など有名エピソードの真実
  • 天才軍師と呼ばれる理由と戦略の特徴
  • 劉備との関係性と水魚の交わりの意味
  • 正史『三国志』と『三国志演義』の違い
  • 出師の表と北伝の真相
  • 諸葛亮の死と五丈原の戦い
執筆者情報
歴女
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  • 歴史大好き女
  • 今まで読んだ歴史書籍は日本史&世界史で200冊以上
  • 日本史&中国史が得意
  • 特に中国の春秋戦国時代や三国時代、日本の戦国時代が好き
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諸葛亮(しょかつりょう)、通称・孔明(こうめい)は、三国志で最も有名な軍師ですよね?

この諸葛亮は、「三顧の礼」で劉備に迎えられ、「天下三分の計」を献策したのです。

そして、赤壁の戦いや南征、五度の北伐など、生涯を通じて漢王朝復興に尽力しました。

しかし、『三国志演義』の超人的な描写と史実には大きな違いがあるのです。

そこで、この記事では、正史と演義を区別しながら、諸葛亮の真の姿に迫っていきますよ。

目次

諸葛亮(孔明)とは?三国志最高の軍師の基本情報

諸葛亮(孔明)とは?三国志最高の軍師の基本情報

諸葛亮は、三国志の時代を代表する名宰相です。

蜀漢(しょくかん)の劉備に仕え、その死後も息子の劉禅を支えました。

ちなみに、日本では「諸葛孔明(しょかつこうめい)」の名前で広く知られています。

彼は、1800年以上経った現在でも、その知略と忠義は多くの人々を魅了し続けているのです。

諸葛亮と諸葛孔明の違い

実は、諸葛亮と諸葛孔明は同じ人物を指しますが、なぜ二つの呼び方があるのでしょうか?

実は、古代中国では成人になると本名とは別に、「字(あざな)」という名前をつける習慣がありました。

諸葛亮の場合は、本名は「諸葛亮」、字が「孔明」になります。

ちなみに、当時の中国では、本名で呼ぶことは失礼とされていました。

そのため、親や非常に親しい人以外は、敬意を込めて字で呼んでいたのです。

つまり、「諸葛孔明」と呼ぶのは、彼への敬意を示す呼び方と言えます。

また、現代では両方の呼び方が使われており、どちらも正しい呼称ですよ。

出身と生い立ち

諸葛亮は181年、現在の中国・山東省(さんとうしょう)で生まれました。

そして、彼の家は代々官僚を輩出する名門でした。

しかし、諸葛亮は幼い頃に両親を相次いで亡くすという不幸に見舞われたのです。

父・諸葛珪(しょかつけい)は郡の副長官でしたが、諸葛亮が幼少期に病死しています。

その後、叔父の諸葛玄(しょかつげん)に引き取られ、南方の荊州(けいしゅう)へと移住します。

ちなみに、当時の中国北部は戦乱が続いており、安全な南方への避難だったと考えられていますよ。

また、兄には後に呉に仕えた諸葛瑾(しょかつきん)がいます。

さらに、弟には諸葛均(しょかつきん)がいて、後に蜀漢で兄を支えました。

「臥龍(がりょう)」と呼ばれた青年時代

荊州に移った後、叔父の諸葛玄も亡くなってしまいます。

そのため、諸葛亮は10代半ばで、弟とともに自給自足の生活を始めました。

そして、彼は農作業の傍ら、熱心に学問を学び続けています。

その結果、兵法や歴史、天文や地理など、幅広い知識を身につけていったのです。

その後、諸葛亮の才能は周囲に知られるようになります。

当時の名士で人物鑑定家として有名だった司馬徽(しばき)は、諸葛亮を「臥龍(がりょう)」と評しました。

ちなみに、「臥龍」とは、まだ飛び立っていない龍という意味です。

つまり、「今は隠れているが、いずれ天に昇る大人物になる」という司馬徽からの最高の評価だったのです。

もっとも、諸葛亮は自らを管仲(かんちゅう)や楽毅(がくき)といった歴史上の名宰相に例えていたことから、大きな志を持った青年だったんですね。

【諸葛亮の生涯年表】

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西暦(年齢)できごと
181年(0歳)山東省琅邪郡陽都県で誕生
190年代(10代)両親を失い、叔父・諸葛玄とともに荊州へ移住
197年頃(16歳)叔父の死後、弟とともに隆中で隠遁生活開始
207年(27歳)劉備に三顧の礼で迎えられ、軍師となる
208年(28歳)赤壁の戦いで孫権との同盟を実現
211年(31歳)劉備の益州侵攻に従軍
214年(34歳)益州平定、軍師将軍に就任
221年(41歳)劉備の蜀漢建国、丞相に就任
223年(43歳)劉備死去、後主・劉禅の補佐を開始
225年(45歳)南征で益州南部の反乱を平定
227年(47歳)第一次北伐開始、出師の表を奉る
228年(48歳)街亭の戦いで敗北、馬謖を処刑
234年(54歳)第五次北伐中、五丈原で病死
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諸葛亮は名門出身ながら若くして両親を失い、苦労して学問を積んだ努力の人でした。その経験が後の政治手腕と人間理解の深さにつながっているのです。

三顧の礼と劉備との出会い|水魚の交わりの始まり

207年、諸葛亮の人生を変える出会いが訪れます。

それは、後に蜀漢の皇帝となる劉備が、彼のもとを訪ねてきたのです。

ちなみに、この「三顧の礼」は、三国志で最も有名なエピソードの一つですね。

そして、諸葛亮と劉備の深い絆の始まりでもありました。

三顧の礼の真相

当時、劉備は46歳であり、諸葛亮はまだ27歳の若者です。

しかも、劉備は漢王朝の皇族の末裔(まつえい)という立場でした。

そのため、通常なら目上の者が目下の者を呼びつけるのが当然ですが、劉備は違ったのです。

そこで、劉備は義兄弟の関羽、張飛を連れて、自ら諸葛亮の草庵を訪ねました。

ところが、その時諸葛亮は留守でした。

そして数日後、吹雪の中を再び訪れましたが、またしても留守です。

その時、関羽と張飛は「もう諦めましょう」と言いました。

しかし劉備は諦めず、三度目の訪問でようやく諸葛亮に会えましたが、彼は昼寝をしていました。

普通であれば、起こすところですが、劉備は起こさず庭先で辛抱強く待ち続けました。

結果として、その熱意に心を動かされた諸葛亮は、ついに出仕を決意したのです。

ちなみに、この三顧の礼ですが、実は正史『三国志』にも記載されています。

つまり、基本的には史実なのですが、演義では色々と脚色されているんですね。

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天下三分の計を献策

劉備に迎えられた諸葛亮は、すぐに持論を展開しました。

これが有名な「天下三分の計(てんかさんぶんのけい)」、別名「隆中対(りゅうちゅうたい)」です。

当時の中国北部は、曹操がほぼ統一しており、長江下流域は孫権が支配しています。

そこで、諸葛亮は劉備に、次のような戦略を説きました。

「北の曹操には天の時があります。南の孫権には地の利があります。将軍(劉備)は人の和を得るべきです」

そして、諸葛亮は具体的な計画を示します。

【天下三分の計の内容】

  1. まず荊州を確保して根拠地とする
  2. 次に西の益州(えきしゅう)を手に入れる
  3. 魏・呉・蜀の三国が鼎立(ていりつ)する形を作る
  4. 時期を見て、北と南から魏に攻め込む
  5. 最終的に漢王朝を復興する

ちなみに、この戦略の素晴らしい点は、現実を見据えていることです。

この時、諸葛亮は劉備が今すぐ天下を取れるとは考えていませんでした。

そのため、まずは二つの州を確保して力をつけて、三国で勢力を均衡させる。

そして機会を待つという、段階的で現実的な戦略だったのです。

諸葛亮からこの計画を聞いた劉備は、深く感銘を受けました。

劉備は、諸葛亮を得たことで、ようやく明確な目標と道筋を持てたのです。

「水魚の交わり」の由来

諸葛亮を軍師として迎えた劉備は、毎日のように彼と語り合いました。

政治、軍事、人材登用など、あらゆることを相談したのです。

これに対し、古参の家臣たちは面白くありませんよね?

当然ながら、関羽や張飛も不満を漏らしました。

「殿は孔明とばかり話している。我々を軽んじているのではないか?」

そして、それを聞いた劉備は、こう答えました。

「私が孔明を得たのは、魚が水を得たようなものだ。どうか二人とも、これ以上不満を言わないでくれ」と。

ちなみに、この言葉から「水魚の交わり(すいぎょのまじわり)」という故事成語が生まれました。

魚が水なしでは生きられないように、切っても切れない親密な関係を表す言葉なんです。

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三顧の礼は単なる美談ではなく、劉備の人材登用の姿勢を示す重要な史実となっています。年齢や立場を超えた敬意が、諸葛亮との強固な信頼関係を生んだのです。

赤壁の戦いと蜀建国への道|軍師としての手腕

赤壁の戦いと蜀建国への道|軍師としての手腕

208年、諸葛亮が劉備に仕えて1年後、中国の歴史を変える大きな戦いが起こります。

それが、かの有名な「赤壁の戦い」です。

そして、この戦いで諸葛亮は軍師としての才能を発揮しました。

ただし、『三国志演義』の描写と史実には大きな違いがあったのです。

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赤壁の戦いでの外交戦略

華北を統一した曹操は、勢いに乗って南下を開始しました。

その軍勢は80万とも言われています。(実際は20万程度とされています)

対する劉備軍はわずか数千なので、とても太刀打ちできません。

そのため、劉備は荊州から追われ、逃げるしかありませんでした。

そしてこの時、諸葛亮は重要な提案をします。

「曹操に対抗するには、孫権と同盟を結ぶしかありません。私が呉に赴き、説得してまいります」

ちなみに、長江下流域を支配する孫権も、曹操の脅威を感じていました。

しかし、部下の多くは「降伏すべきだ」と主張していたのです。

そこで、諸葛亮は孫権のもとを訪れ、同盟の利点を説きました。

正史によれば、彼の論理的な説明が孫権を動かしたとされています。

この諸葛亮の働きによって劉備・孫権の同盟が成立し、208年、赤壁で曹操軍を迎え撃ったのです。

赤壁の戦いにおける演義と正史の違い

ここで重要なのは、演義と正史の違いです。

『三国志演義』では、諸葛亮が超人的な活躍をしています。

東南の風を呼び、10万本の矢を3日で集め、曹操の陣営を火攻めで焼き払ったと描かれますよね?

しかし、正史『三国志』を見ると、実際の戦闘を指揮したのは呉の周瑜です。

曹操陣営を火攻めするという計略も周瑜のアイデアでした。

それでは、諸葛亮は何もしなかったのでしょうか?

いえいえ、この赤壁の戦いにおいて、諸葛亮は重要な働きをしています。

それは、孫権との同盟を実現させたことです。

この2国同盟という外交戦略がなければ、赤壁の戦いそのものが成立しませんでした。

もっとも、演義の超人的な描写は創作ですが、同盟締結という外交手腕は史実なのです。

そして、それこそが諸葛亮の天才性を示していますね。

益州平定と内政手腕

赤壁の戦いの後、劉備は荊州の一部を手に入れました。

しかし、天下三分の計を実現するには、もう一つの州が必要だったのです。

そこで211年、劉備は西の益州(現在の四川省)侵攻を決意し、諸葛亮もこれに従軍しました。

その後214年、劉備軍は益州の首都・成都を攻略した結果、天下三分の計の第一段階が完了したのです。

そして、益州を手に入れた後、諸葛亮は軍師将軍に任命されます。

すると諸葛亮は、法律の専門家である法正、劉巴(りゅうは)らとともに、「蜀科(しょくか)」という法律を制定。

この法律はかなり厳格でしたが、非常に公平なものでした。

ちなみに、正史『三国志』には、次のように記されています。

「善行はわずかでも必ず褒賞し、悪行はわずかでも必ず罰した。刑罰は厳しかったが、人々は彼を畏れながらも愛した」

つまり、厳格さと公平さのバランスが取れていたからこそ、諸葛亮の統治は成功したのです。

また、諸葛亮は劉備が外征に出るときは、常に成都に残って後方を守りました。

兵站(へいたん)の確保、物資の補給、内政の維持など、地味ですが重要な仕事を担当したのです。

劉備の死と託された遺志

221年、劉備は蜀漢を建国し、皇帝に即位して、諸葛亮を丞相(じょうしょう)に任命します。

ちなみに、この丞相とは、皇帝を補佐する最高位の官職です。

しかし、この建国の喜びは長く続きませんでした。

何故なら、同じ年に劉備の義兄弟・関羽が呉の孫権に謀殺されるという事件が起こったからです。

すると、この事件に怒った劉備は、諸葛亮の反対を押し切って、呉への復讐戦を開始しました。

「今、戦うべき相手は魏の曹操です。孫権とは戦うべきではありません」

この時、諸葛亮は何度も諫めましたが、劉備は聞き入れなかったのです。

そして、222年の夷陵(いりょう)の戦いで、劉備軍は壊滅的な打撃を受けたのです。

その後、敗北した劉備は白帝城(はくていじょう)で病に倒れました。

そこで223年、自分の命が潰えることを悟った劉備は、諸葛亮を枕元に呼んで、こう言いました。

「君の才は曹丕の十倍だ。必ず国を安定させ、大業を成し遂げてくれ。もし後継者の劉禅に才がないと思ったら、君が帝位に就いてもよい」と。

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赤壁の戦いでの諸葛亮の真の才能は、外交戦略にありました。演義の超人的描写とは異なりますが、同盟締結という現実的な成果こそが天才の証明だったのです。

南征と北伐|漢王朝復興への執念

劉備の死後、諸葛亮は後主・劉禅を支える立場となりましたが、蜀漢の前途は多難でした。

南方では異民族の反乱が起き、北には強大な魏が控えています。

そこで、諸葛亮はこれらの問題に一つずつ対処していきました。

南征で基盤を固める

223年、劉備が亡くなると、益州南部で大規模な反乱が起きました。

雍闓(ようがい)、高定(こうてい)らが蜀漢からの独立を図ったのです。

そのため、諸葛亮はまずこの反乱を平定しなければ、北の魏と戦えないと判断しました。

225年、諸葛亮は自ら軍を率いて南征を行い、わずか数ヶ月で反乱を鎮圧したのです。

ちなみに、『三国志演義』には、この南征で有名なエピソード「七縦七禽」が登場します。

これは、反乱軍の首領・孟獲(もうかく)を七度捕らえ、七度逃がしたという話です。

最後に孟獲は心から降伏し、二度と反乱を起こさなかったとされていますね。

しかし、このエピソードは正史『三国志』には記載がありません。

つまり、演義による創作、または他の人物のエピソードを諸葛亮に当てはめた可能性が高いですね。

ただし、諸葛亮が南征で「懐柔策(かいじゅうさく)」を用いたことは確かです。

力で抑えつけるだけでなく、現地の有力者を官職に登用するなど、人心を掴む政策を取りました。

その結果、この南征によって蜀漢は安定した後方基盤を得ることが出来たのです。

出師の表と北伐の開始

南方を平定した諸葛亮は、ついに本来の目的でもある魏への北伐を行います。

そして227年、諸葛亮は劉禅に「出師の表(すいしのひょう)」を奉りました。

これは、北伐に出発するにあたって皇帝に提出する上奏文です。

ちなみに、この「出師の表」は、古来より名文として知られています。

後世の人々は「これを読んで泣かざる者は忠義の人にあらず」とまで評したのです。

そこで、出師の表ですが、諸葛亮の決意と劉禅への忠告が込められていたのです。

まず、諸葛亮は先帝・劉備の恩義を語っています。

「私は元々、農民に過ぎませんでした。しかし先帝は三度も草庵を訪ねてくださり、天下の大計を相談されました。この恩は決して忘れられません」

次に、劉禅に政治の心得を説いています。

「賢臣を親しみ、小人を遠ざけてください。宮中の者も府中の者も、善悪によって賞罰を明確にしてください」

最後に、自らの決意を述べています。

「今、北伐を行わなければ、いつ漢王朝を復興できるでしょうか。私は必ず、先帝の遺志を継ぎ、漢室を興します」

このように、出師の表には諸葛亮の忠義と決意が溢れていますよね?

だからこそ、千年以上経った今でも、多くの人々の心を打っているのです。

五度の北伐と司馬懿との攻防

227年から234年まで、諸葛亮は計5回の北伐を行いましたが、結果は厳しいものでした。

この北伐において、魏は名将・司馬懿(しばい)を派遣します。

そこで、司馬懿は短期決戦よりも持久戦を採用し、決戦を避け続けました。

もとより蜀は、人口も国力も魏より劣るため、長期戦になれば不利なのは明らかです。

さらに228年、第一次北伐では、重大な失敗も起きています。

街亭(がいてい)の戦いで、諸葛亮が信頼していた馬謖(ばしょく)が、命令を無視した結果敗北したのです。

これにより、諸葛亮は馬謖を処刑することになります。

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北伐は失敗の連続でしたが、国力差を考えれば善戦といえますね。諸葛亮の真の才能は軍略ではなく、内政と人材登用にあったことが分かります。

五丈原の戦いと諸葛亮の死|「死せる孔明、生ける仲達を走らす」

赤壁の戦いと蜀建国への道|軍師としての手腕

234年、諸葛亮は最後の北伐に出陣しましたが、この戦いで彼の人生は幕を閉じます。

54歳という若さでの死でしたが、その死後もなお、諸葛亮は敵を欺く知略を発揮したのです。

最後の北伐と病魔

234年2月、諸葛亮は目標を魏の要地・長安に定めて第五次北伐を開始します。

この北伐で蜀軍は、陝西省(せんせいしょう)の五丈原(ごじょうげん)に陣を敷きます。

これに対して魏軍を率いるのは、諸葛亮の宿敵・司馬懿です。

そして、この北伐でも、司馬懿はいつものように守りを固めて出てきません。

蜀軍がどれだけ挑発しても、戦おうとしないのです。

ちなみに、持久戦になれば、国力に勝る魏が有利であり、諸葛亮もそれを知っていました。

しかし、いくらやっても司馬懿を引きずり出すことが出来なかったのです。

そこで、長期の陣中生活と精神的ストレスが、諸葛亮の体をむしばんでいくことになります。

その結果、8月に諸葛亮は過労と心労が重なり病に倒れてしまったのです。

この時、部下たちは心配して食事の量を尋ねましたが、諸葛亮は「米を数升しか食べられない」と答えます。

これを聞いた司馬懿は、「孔明も長くはあるまい」と確信しました。

もっとも、諸葛亮自身も死期が近いことを悟っていたので、最後の策を部下に伝えます。

「私が死んだら、それを秘密にせよ。軍を整然と撤退させ、敵に追撃させるな」

死後も敵を欺いた知略

234年8月、諸葛亮は五丈原の陣中で息を引き取りました。享年54歳でした。

ただ、蜀軍は諸葛亮の遺言通り、彼の死を周りに知らせず秘密にしたのです。

そして、事前に作らせておいた木像を戦車に乗せて、ゆっくりと撤退を開始します。

これを見た司馬懿は、「孔明が死んだのだろう」と判断して追撃を命じます。

しかし、蜀軍の陣形を見て司馬懿はとても驚きました。

何故なら、蜀軍が撤退しているにも関わらず、陣形が一切乱れていないからです。

また、戦車の上には諸葛亮の姿が見えたようです。(実は木像)

「孔明はまだ生きている。これは罠だ」と。

この光景を見た司馬懿は、慌てて追撃を中止し、撤退したんですね。

その結果、蜀軍は司馬懿に追撃されることなく、無事に撤退することが出来ました。

諸葛亮は死してなお、司馬懿を欺き蜀軍を守ったのです。

諸葛亮の墓と後世の評価

諸葛亮は遺言で、自分を五丈原に簡素に埋葬するよう命じていました。

「私の墓は質素にしてくれ。副葬品も不要だ。国の財政を無駄にしてはならない」

このように、諸葛亮は最期まで国のことを考えていたのです。

そして、諸葛亮の死後、彼には「忠武侯(ちゅうぶこう)」という諡号(しごう)が贈られました。

諡号とは、死後に功績を称えて贈られる称号のことですね。

ちなみに、「忠武」は、忠義を尽くし武功があったことを意味しており、諸葛亮の生涯を見事に表していると言えます。

また、現在四川省成都には、「武侯祠(ぶこうし)」という諸葛亮を祀る廟があります。

この廟は、年間数百万人が訪れる観光名所となっており、1800年経った今でも諸葛亮への敬慕の念は衰えていませんね。

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諸葛亮は漢王朝復興という夢を果たせませんでしたが、劉備への忠義を最後まで貫きました。その生き様が後世の人々の心を打ち続けているんですね。

諸葛亮の有名なエピソード

泣いて馬謖を斬る

第一次北伐の際、諸葛亮は馬謖を先鋒に任命し、街亭の守備を命じました。

しかし、馬謖は諸葛亮の指示を無視して山頂に陣を敷きます。

これを見た魏軍はこれを包囲し、兵を維持するのに重要な水源を断ちました。

その結果、蜀軍はたちまちのうちに壊滅して、街亭は失われたのです。

そして、自陣に戻ってきた馬謖を、諸葛亮は涙ながらに処刑しました。

「軍律を保つためには、お前を斬るしかない。お前の家族の面倒は、必ず私が見よう」

その後、処刑の報告を受けた諸葛亮は、号泣したと言いわれています。

それでは、なぜ泣いたのか。部下が尋ねると、諸葛亮はこう答えたとされています。

「先帝(劉備)は、馬謖は実力のない人物だから重く用いてはいけない、と言われていた。それなのに私は、彼を重用してしまった。これは私の責任だ」

つまり、諸葛亮は「任命責任」を果たせなかったことを悔やんで泣いたのです。

ちなみに、この「泣いて馬謖を斬る」という故事は、現代でも使われていますね。

組織の規律を守るため、私情を挟まずに処分を下すことの重要性を示す言葉なのです。

死せる孔明、生ける仲達を走らす

第五次北伐の際、蜀軍の撤退において、諸葛亮が生きていると勘違いし司馬懿が追撃を中止しています。

そして、この出来事から、「死せる孔明、生ける仲達(ちゅうたつ)を走らす」という故事成語が生まれました。

ちなみに、仲達とは司馬懿の字(あざな)です。

そこで、この言葉は、死んだ人が生きている人に大きな影響を与えることのたとえとして使われていますね。

また、知略はもちろん事前準備の重要性を示す言葉でもあります。

つまり、諸葛亮は自分の死後まで計算に入れて、木像を用意していたのです。

その後、この話を聞いた司馬懿は、苦笑いしながらこう言ったと伝えられていますよ。

「私は生きている人間には勝てるが、死んだ孔明には勝てなかった」と。

天才軍師と呼ばれる理由|諸葛亮の真の才能とは

では、なぜ諸葛亮は「天才軍師」と呼ばれるのでしょうか?

それは、正史『三国志』を見ると、諸葛亮の真の才能が見えてきますよ。

内政手腕の高さ

諸葛亮の最大の才能は、実は内政にありました。

彼は、戦場での活躍より、国の統治において卓越した能力を発揮したのです。

ちなみに、正史『三国志』を著した陳寿は、諸葛亮をこう評価しています。

「諸葛亮は管仲(かんちゅう)や蕭何(しょうか)といった名宰相に匹敵する。しかし、連年のように軍を発動したのに成功できなかったのは、臨機応変の軍略は彼の得手ではなかったからだろう」

つまり、諸葛亮は優れた政治家だが、軍略家としては一流ではなかった、という評価です。

では、諸葛亮の内政手腕とは具体的にどのようなものだったのでしょうか。

【諸葛亮の主な功績】

  • 法律の整備:「蜀科」を制定し、法治国家の基礎を築いた
  • 農業の振興:灌漑工事を行い、農業生産力を向上させた
  • 特産品の開発:「蜀錦(しょくきん)」という高級絹織物の生産を奨励した
  • 公平な人事:能力主義で人材を登用し、身分や出身を問わなかった
  • 公正な賞罰制度:善行は必ず褒賞し、悪行は必ず罰した

また、正史にはこう記されています。

「領内の人々は皆、彼を畏れながらも愛した。刑罰や政治が厳しくても恨む者がいなかったのは、心を用いることが公平で賞罰が明らかだったからである」

厳しいが公平。これが諸葛亮の統治スタイルでした。

さらに、諸葛亮は非常に勤勉であり、大小の政務すべてに目を通し、自ら判断したと言います。

しかし、この過度な勤勉さが、最終的に彼の命を縮めたとも言われているのです。

正史と演義の違い

『三国志演義』では、諸葛亮はほぼ万能の天才として描かれます。

【演義での主な脚色】

  • 東南の風を呼ぶ:七星壇で祈祷し、赤壁の戦いで風向きを変えた→創作
  • 10万本の矢を3日で集める:藁人形を使って曹操軍から矢を奪った→創作
  • 空城の計:城に兵がいないのに、城門を開けて敵を欺いた→別人の逸話を転用
  • 七縦七禽:*孟獲を七度捕らえて七度逃がした→史書に記載なし
  • 木牛・流馬の発明:輸送用の特殊な車を発明した→実在性は不明

これらの多くは、演義による創作、または他の人物のエピソードを諸葛亮に当てはめたものです。

それでは、なぜこのような脚色が行われたのか?

それは、諸葛亮の人物像が、民衆にとって理想の忠臣だったからなんです。

劉備への忠義や清廉な人格、そして公正な統治。これらが人々の心を打ちました。

その後、時代が進むにつれて、諸葛亮の伝説は膨らんでいきます。

そして、14世紀に『三国志演義』が成立したとき、彼は超人的な天才軍師として完成したのです。

しかし、演義の脚色を除いても、諸葛亮が優れた政治家であったことは間違いありません。

史実での諸葛亮も、十分に尊敬に値する人物だったのです。

歴女

諸葛亮の真の才能は軍略ではなく内政にありました。演義の誇張を除いても、名宰相としての実績は確かです。彼の忠義と清廉さが千年を超えても愛されている理由ですね。


まとめ

諸葛亮(孔明)は、『三国志演義』で超人的な天才軍師として描かれますが、正史を見ても十分に偉大な人物でした。

ただ、彼の真の才能は軍略ではなく、法律整備や農業振興、公平な人事登用といった内政にあったのです。

これについては、史家・陳寿も「名宰相」と評価しています。

しかし、劉備への忠義を生涯貫き、不利な状況でも漢王朝復興のために戦い続けた姿勢が、後世の人々を感動させたのです。

また、「三顧の礼」「泣いて馬謖を斬る」「出師の表」「死せる孔明、生ける仲達を走らす」など、彼にまつわる故事成語は現代でも使われています。

つまり、諸葛亮は演義の脚色を除いても、その功績と生き様は色褪せることはありませんよ。

歴女

演義の脚色を除いても、諸葛亮は名宰相として確かな功績を残しました。忠義と清廉さ、そして最後まで諦めない姿勢こそが、千年以上も人々を魅了し続ける理由なのです。

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