三国志の魯粛とは?赤壁の戦いを実現した天才戦略家の真実に迫る

三国志の魯粛とは?赤壁の戦いを実現した天才戦略家の真実に迫る
歴史探偵女

魯粛ってあまり目立たないイメージだけどなにをしたの?

歴史探偵男

魯粛が赤壁の功労者って本当?

この記事では、こんな疑問にお答えしますね。

この記事で分かること
  • 魯粛の生涯と人物像
  • 演義と正史での描かれ方の違い
  • 天下二分の計と諸葛亮の天下三分の計
  • 赤壁の戦いで果たした真の役割
  • 周瑜との友情エピソード
  • 関羽との交渉(単刀会)の真相
  • 周瑜の後継者としての活躍
執筆者情報
歴女
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  • 歴史大好き女
  • 今まで読んだ歴史書籍は日本史&世界史で200冊以上
  • 日本史&中国史が得意
  • 特に中国の春秋戦国時代や三国時代、日本の戦国時代が好き
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三国志の魯粛(ろしゅく)といえば、演義では諸葛亮にあしらわれる気の弱い文官というイメージが強いですよね。

しかし、正史を読むと全く違う人物像が浮かび上がってきますよ。

実はこの魯粛、赤壁(せきへき)の戦いで劉備・孫権連合を実現した真の立役者であり、諸葛亮の天下三分の計に先駆けて天下二分の計を献策した天才戦略家だったのです。

そこで、この記事では、米倉を丸ごと周瑜に与えた豪快なエピソードや、関羽と対等に渡り合った外交手腕まで、魯粛の真の実力を徹底的に解説しますね。

目次

魯粛とは?呉の天才戦略家の基本情報

魯粛とは?呉の天才戦略家の基本情報

徐州出身の富豪が孫権に仕えるまで

魯粛は172年、徐州(じょしゅう)の下邳国(かひこく)東城県に生まれました。

字(あざな)は子敬(しけい)といいます。

彼は、豪族の家柄に生まれましたが、生まれてすぐに父が死去したため、祖母と二人で生活しました。

そして、裕福な家に育った魯粛でしたが、その行動は常識外れでした。

困窮している人々を助けるため、惜しみなく自分の財産を施したのです。

普通の人間であれば、他人よりも自分や家族を優先すると思いますが、この魯粛という人物はそうではなかったようですね。

その後は、家業を放り出し、財産を投げ打ってまで地方の名士と交わりを結びました。

これは、まさに型破りな生き方と言えますよね。

【魯粛の生涯年表】

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年代年齢出来事
172年1歳徐州下邳国東城県に生まれる
190年前後10代後半私兵を集めて軍事訓練を開始
195年頃23歳周瑜に米倉を丸ごと与え友情を結ぶ
196年頃24歳袁術配下となるがすぐ見限る
198年頃26歳孫策に仕える
200年28歳孫策死後、孫権に天下二分の計を献策
208年36歳赤壁の戦い、劉備・孫権連合を実現
210年38歳周瑜の死後、後継者として軍を統括
215年43歳関羽と単刀会で交渉、領地を割譲させる
217年46歳陸口で病死

魯粛は若い頃から豪族の家に生まれながら、家業には全く興味を示しませんでした。

それよりも、困っている人を助け、名士たちと交流することに情熱を注いだのです。

そして、この施しの精神が、後に多くの人脈を築く基礎となっていきますよ。

「魯家に気違いの子が生まれた」と言われた若き日

魯粛の体躯(たいく)は雄々しく立派で、若い頃から壮士の節義を持っていました。

彼は、奇計を考えることを好み、天下が乱れると見るや、剣術・馬術・弓術などを熱心に習ったのです。

さらに、私兵を集めて狩猟を行い、兵法の習得や軍事の訓練に力を入れました。

しかし、このような破天荒な行動は郷里の人々には理解されませんでした。

村の長老たちは「魯家に、気違いの子が生まれた」とまで言ったそうです。

確かに、裕福な家の跡取りが家業を放り出して軍事訓練に明け暮れる姿は、常識的には理解しがたいものだったでしょう。

ところが、魯粛には確かな先見の明がありました。

それは、天下が乱れることを予見し、乱世に備えて準備していたのです。

「剣術や騎射の技術、兵法の知識、そして私兵の訓練」これらすべてが、後の活躍につながる基礎となりました。

また、魯粛は財産を惜しみなく施したことで、徐々に評判が高まっていきます。

救民による名声獲得は当時の豪族の常とう手段でしたが、魯粛は中でも思い切りがよかったのです。

この気前の良さが、結果的に運命を変える出会いを引き寄せることになります。

字は子敬、性格は豪胆で度胸がある

魯粛の性格は、一言でいえば豪胆でした。

大胆不敵な企みを持ち、常人には思いつかないような奇策を好んだのです。

その一方で、『呉書(ごしょ)』によれば、自分を飾らず質素で、日々書物に親しんだといいます。

これは、豪放な面と知性的な面を併せ持つ、魅力的な人物だったのですね。

また、魯粛は「談論と文章にも長けていた」つまり、弁舌が立ち、文章も上手だったということです。

この能力が、後の外交交渉で大いに役立つことになります。

武力と知力、そして弁舌の才。魯粛はまさに文武両道の人物だったのです。

さらに注目すべきは、魯粛という人物の人柄です。

彼は、自己顕示欲が強いタイプではなく、むしろ質素で控えめでした。

しかし、いざという時には大胆な行動を取る度胸がありました。

この「普段は控えめだが、肝心な時には大胆」という性格が、多くの人々を魅了したんですね。

後に諸葛亮は、魯粛の死を聞いて喪に服したといいます。

このように、敵対関係にあった蜀の軍師が喪に服するほど、魯粛の人格は尊敬されていたのです。

これも、魯粛の人間的な魅力を示すエピソードと言えますね。

歴史探偵女

魯粛は裕福な家に生まれながら、家業を放り出して困窮者を助け、軍事訓練に明け暮れました。このような常識外れの行動が周囲から理解されなかったのも当然と言えます。しかし、この型破りな生き方こそが、後の大胆な戦略を生み出す土台となったんですね。

演義と正史で全く違う魯粛の姿

演義では諸葛亮にあしらわれる道化役

『三国志演義』における魯粛は、はっきり言って損な役回りという体で描かれています。

知略に優れた人物として扱われつつも、温厚でお人好しな性格のため、諸葛亮にいいようにやられてしまうのです。

周瑜からは「無能」と叱られ、劉備には利用され、関羽には脅されるという散々な扱いを受けていますよ。

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【演義での主な場面】

  • 荊州(けいしゅう)返還交渉で関羽に追い返される
  • 諸葛亮の計略に翻弄される
  • 周瑜から能力不足を批判される
  • 劉備に荊州を貸して騙される
  • 関羽との単刀会で人質にされる

演義では、魯粛は呉の都督である周瑜の部下として、劉備陣営と呉の間を奔走します。

しかし、その度に劉備からはいいようにあしらわれ、関羽には脅された挙げ句、人質にされるなど散々な扱いを受けるのです。

この場面の魯粛を読んだ者としては、かなり気の毒に感じる描写になっています。

ただし、この扱いの悪さと人柄の良さが人々の共感を呼び、魯粛は隠れた人気キャラクターとなっています。

誠実で優しい性格が、逆に魅力となっているようですね。

ピエロ的な役割ながらも、劉備と孫権の間を取り持ったという大きな功績は忘れてはなりませんよ。

また、演義では魯粛が気弱で優柔不断な性格として描かれます。

これは、諸葛亮や劉備を英雄として際立たせるための演出にすぎません。

しかし、この描写は、魯粛の歴史的事実とは大きくかけ離れているのです。

正史での魯粛は豪胆で知略に優れた大物

一方、正史『三国志』における魯粛は、全く違う人物像で描かれていますよ。

豪放で気前が良く、度胸もある大物として、さっそうと登場するのです。

そして、赤壁の戦いでは降伏派が多い中、主戦論を唱えて周瑜・孫権とともに開戦を主張しました。

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【正史での主な業績】

  • 天下二分の計を孫権に献策
  • 赤壁の戦いの劉備・孫権連合を実現
  • 劉備との同盟を主導し維持
  • 荊州問題を外交手腕で解決
  • 周瑜の後継者として呉の国力を回復

正史の魯粛は、戦略家として非常に優秀だったのです。

孫権に初めて謁見した時、「漢室再興は無理。曹操も簡単には倒せない。江東(こうとう)をしっかり固めて帝王を号するべき」という大胆な提案をしています。

ちなみに、これは「天下二分の計」と呼ばれる壮大な戦略でした。

また、赤壁の戦いでは、劉備との会見から孫権の説得、諸葛亮との連携まで、すべてを仕組んだのが魯粛なんです。

まさに、「赤壁の戦いの黒幕」と呼ぶにふさわしい大活躍と言えますよね。

もっとも、赤壁の戦いの総指揮官は周瑜でしたが、連合を実現したのは魯粛の功績が大きかったのです。

さらに、関羽との単刀会では、演義とは正反対に毅然とした態度で交渉に臨んでいますよ。

関羽に反論の余地を与えず、領地を割譲させることに成功しました。

これは、魯粛の外交手腕の高さを示すエピソードと言えますね。

なぜ演義では貶められたのか

では、なぜ演義では魯粛がこれほど貶められたのでしょうか?

その理由は、蜀漢正統論(しょくかんせいとうろん)という考え方にあります。

演義は、蜀を正統とする立場で書かれており、劉備と諸葛亮を英雄として描く必要があったのです。

そのためには、呉の人物を相対的に低く評価する必要があるのです。

そして、赤壁の戦いにおいて魯粛を無能化することで、諸葛亮の知略がかなり際立ちます。

また、劉備の善良さを強調するためにも、魯粛には「騙される役」になる必要があったのです。

しかし、これは歴史的事実とは大きくかけ離れていますよ。

正史を読めば、魯粛がいかに優秀な戦略家であったかが分かります。

なので、演義のイメージだけで魯粛を評価するのは、大きな間違いなんです。

歴史探偵男

演義が魯粛を貶めたのは、諸葛亮と劉備を英雄として描くためだったのです。魯粛を無能にすることで、諸葛亮の知略が際立ち、劉備の善良さが強調されます。しかし、これは歴史的事実とはかけ離れた描写なので注意が必要ですよ。

周瑜との運命的な出会いと友情

米倉を丸ごと与えた豪快なエピソード

魯粛の人生を変えたのは、何といっても周瑜との出会いになりますね。

周瑜が、居巣県(きょそうけん)の長だった頃、わざわざ魯粛の元に挨拶に来て、同時に資金や食糧の援助を求めたのです。

当時、袁術(えんじゅつ)が帝位を僭称して政治が乱れており、さらに日照りもあったため、救民のための援助が必要だったのでしょう。

そして、この時の魯粛の行動が後々に伝説となります。

なんと、持っている2つの米倉のうち、片方を指差して丸ごと与えたのです。

米倉を丸ごと与えるなんて、気でも違ったのか?と思えるくらいの行動なんですから。

そして、当然ながら魯粛のこの行動に、周瑜も大いに驚いたとされています。

普通なら少しずつ分けて与えるところを、倉一つを丸ごと贈るという太っ腹ぶり。

このことによって周瑜は魯粛の非凡さを認め、これをきっかけに深い親交を結んだのです。

周瑜の説得で孫権に仕える決断

やがて、魯粛の祖母が死去すると、彼は柩(ひつぎ)を持って郷里の東城に戻り、葬儀を営みました。

その時、旧友の劉曄(りゅうよう)から手紙が届きます。

母親を迎えに帰った時、巣湖(そうこ)で1万の兵士を集めていたという鄭宝(ていほう)の下に行くことを勧められたのです。

魯粛は、手紙を劉曄に送ってそれに賛同し、曲阿(きょくあ)に居た母親を迎えに行こうとしました。

しかし、その頃には孫策が没し、弟の孫権が跡を継いでいました。

そのため、周瑜は先を見越して、魯粛を孫権に紹介すべく母親の身柄を呉に移していたのです。

そこで、魯粛が事情を周瑜に説明すると、周瑜は逆に魯粛を説得し始めます。

「孫権様こそ王者になる御仁。こういっちゃなんだが、劉曄や鄭宝とは格が違うぞ」と熱心に語ったのです。

孫権の王者としての資質と江南の天運の存在を挙げ、孫権に仕えるべきだと力説したんですね。

そして、この周瑜の説得に心を動かされた魯粛は、北へ戻ることを思いとどまります。

その後、周瑜の推挙により、改めて孫権に仕官することを決めたのです。

周瑜推挙で孫権と初対面

周瑜の推挙を受けて、初めて魯粛は孫権に謁見しました。

孫権の下には何十人という仕官目当ての人がいましたが、孫権は魯粛の非凡な様子を一目で見抜きます。

そして、他の客が帰った後、密かに魯粛だけを呼び戻したのです。

そこで、二人は酒を酌み交わし、天下を論じました。

孫権は、「漢王朝のために、ワシに何ができるだろうか」と尋ねます。

これに対して魯粛は、初対面の君主に対して大胆な提案を行ったのです。

「漢室の再興は無理です。そして北方の曹操も簡単には倒せません。そのため、江東(こうとう)をしっかり固めて帝王を号するべきです」と。

このように、孫権と魯粛の関係は、この初対面から非常に良好でした。

孫権は、魯粛を大いに気に入り、特別な信頼を寄せることになります。

その後、重臣の張昭(ちょうしょう)が魯粛の不遜さを咎めて何度か非難したことがありました。

しかし、孫権は全く意に介さず、ますます魯粛を尊重し厚く持て成したのです。

歴女

米倉を丸ごと与えるという太っ腹ぶりは、魯粛の人物像を象徴していますよね。目先の損得にとらわれず、大局を見据える。この姿勢が周瑜の心を捉え、孫権への仕官へとつながりました。器の大きさが人を動かす良い例ですね。

天下二分の計:諸葛亮に先駆けた壮大な戦略

天下二分の計:諸葛亮に先駆けた壮大な戦略

「帝王を号せ」孫権への衝撃的な提案

孫権と初めて謁見した時、魯粛は驚くべき提案をしました。

「漢を復興するなどという事は無理な事であり、曹操もそう簡単には取り除く事が出来ません」

これは、当時としては、かなり大胆不敵な発言でした。

何故なら、多くの武将が「漢室再興」を大義名分にしていた時代に、それを真っ向から否定したのですから。

しかし、そんなことは意に介さず、さらに魯粛は続けます。

「故に将軍にとって最善の計は、江東地方をしっかりと割拠し、天下の変をじっくりと見守る事です。具体的に曹操が北方問題に取りかかっている間に黄祖(こうそ)、劉表(りゅうひょう)を討伐し長江を極めた後に帝王を号するのです」

つまりはこうです。「漢を助けるのではなく、自ら帝王になれと」と。これは破格の提案でした。

そしてこの提案は、まだ兄の孫策の跡を継いで間もない孫権にとって、あまりにも大きすぎる目標です。

そのため、孫権は「今は地方が手一杯。漢室をお救いできればと願うばかりで、そのような事は及びもつかないな」と答えるのみでした。

【天下二分の計の内容】

  1. 漢の復興は不可能:献帝(けんてい)は曹操の傀儡(かいらい)であり、救出は困難
  2. 曹操も短期的に倒せない:圧倒的な戦力差があり、正面対決は無謀
  3. 江東を基盤として固める:まずは自分の勢力圏を確立する
  4. 北方の混乱に乗じて荊州を奪う:曹操が北方に気を取られている隙に南下
  5. 長江を天然の国境とする:長江を利用した防衛ラインを構築
  6. 自ら帝王を名乗る:漢に代わって新王朝を建てる

この戦略は、後年における諸葛亮の天下三分の計に先んじるものでした。

しかも、「自ら帝王になれ」という非常に野心的で大胆過ぎる提案だったのです。

当時、多くの武将が「漢室再興」という建前を掲げていたので、これほど率直に自立を勧めた人物は珍しかったでしょう。

諸葛亮の天下三分の計との違い

魯粛の天下二分の計と、諸葛亮の天下三分の計。この二つの戦略には、どのような違いがあるのでしょうか?

比較表

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項目魯粛の天下二分の計諸葛亮の天下三分の計
提案時期200年頃207年頃
基本構想魏と呉で天下を二分魏・呉・蜀で三分
劉備の扱い想定外の存在主役として組み込む
実現性襄陽陥落で瓦解赤壁後に実現へ
目標孫権が帝王になる劉備が漢を復興
江東の役割独立王朝の中心蜀を支える同盟国

魯粛の天下二分の計は、呉が単独で曹操に対抗するという構想でした。

したがって、劉備という存在は想定されていません。

その一方、諸葛亮の天下三分の計は、劉備を主役として、呉と同盟しながら魏に対抗するという構想です。

そして、時期的には魯粛の方が7年ほど早く、より先見性がありました。

ただし、忠や孝を重んじた当時の風潮で、魯粛の策は型破りだったのです。

確かに、当時の曹操から献帝を救い出すのは至難の業です。

それであれば、天下を二分して対抗しようという、ある意味まっとうな提案と言えます。

二分から三分へ

208年、にわかに北方が騒がしくなり始めたため、魯粛は北荊州の襄陽(じょうよう)へ視察に向かきます。

これは、劉備などを支援し、曹操を南下させないための対策を打とうと考えたと思われます。

ところが、魯粛が北へ向かうと、すでに襄陽は曹操に制圧され、劉備は命からがら逃走していました。

魯粛にとって、これは想定外の事態であり、襄陽が落ちたことで、天下二分の計は事実上瓦解したのです。

ただし、魯粛はここで諦めまず、戦略を柔軟に転換しました。

襄陽が曹操の手に落ちた以上、呉単独で対抗するのは困難だったからです。

「それならば、劉備を活用しよう」と。こうして、天下二分の計から天下三分の計へと方針が変わりました。

そこで魯粛は、今後の見通しを立てるために劉備と会見します。

敗戦軍とはいえ、まだ1万の兵が残っており、さらに諸葛亮など多くの人材を連れていたのですから。

それと、劉備には曹操との実戦経験という、とても貴重な体験もありました。

そのため、劉備を味方にすれば十分に戦える、そう判断した魯粛は、同盟のお膳立てを整えたのです。

ちなみに、「天下三分」といえば、諸葛亮が劉備に提案していたことで有名ですよね。

しかし、おそらく魯粛は劉備・諸葛亮と話し合って、そう決めたと思われます。

その理由は、最終的にはどうあれ、三分した後は「曹操を倒す」という目的で一致していたのですから。

歴史探偵女

魯粛の天下二分の計は、諸葛亮の天下三分の計に先駆ける壮大な戦略でした。しかし、現実は理想通りにはいきません。襄陽陥落という想定外の事態に、劉備を組み込んだ三分の計へと柔軟に転換した点に、戦略家としての真価が見て取れますね。

赤壁の戦いの真の立役者

荊州視察から劉備との会見へ

建安13年(208年)、劉表の死後、魯粛は荊州の視察を進言し、自ら弔問使者となります。

しかし、夏口に到着すると、曹操が既に荊州征伐を開始していることを知りました。

そのため、魯粛は急いで南郡へ向かい、劉琮が曹操に降伏し、劉備が敗走中であることを確認します。

そして、これを好機と見た魯粛は、当陽の長坂で劉備と会見しました。

そこで、孫権の意向を伝え、同盟を結んで曹操と対峙することを提案したのです。

その後、劉備が夏口に着くと、魯粛は孫権の元に復命するため帰還しますが、このとき諸葛亮を魯粛に使者として同行させました。

この劉備の決断こそが、歴史を変える結果に繋がったのです。

諸葛亮を江東へ連れて行くことで、同盟の実現可能性が高まりました。

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一人黙り込む魯粛

魯粛が孫権の元に戻ると、呉の陣営は大混乱であり、曹操への降伏論に傾きつつあったのです。

20万とも言われる曹操の大軍に対し、孫権軍は5万程度。

この圧倒的な戦力差だけを見れば、降伏派が勢いを増すことはある意味仕方ありません。

そのため、孫権の陣営では降伏か抗戦かで揺れており、まとまらない家臣の主張に孫権も頭を悩ませていました。

そんな、周りが降伏論を唱える中、魯粛は一人じっと機会を待っていました。

そして、孫権が厠(かわや=トイレ)に立った時、これを追いかけたのです。

伝説の便所説得

孫権がトイレに立った時、魯粛は追いかけて誰もいない場所で説得を始めました。

まず、「曹操は強敵で、孫呉は敗北するかもしれません」と語ります。

これを聞いた孫権は、降伏論かと思ったでしょう。

しかし、魯粛は続けて孫権にこう言ったのです。

「私たち家臣は曹操に降伏してもそれなりの地位が保証されます。ですがあなたは違う。降伏すれば命の保証すらなく、囚われの身として屈辱的な扱いを受けるのです」。

これはつまり、「私は降伏できるがあなたは無理」という論理なんです。

そして、結果的にこの言葉が孫権の闘志に火をつけました。

内心では戦いたいと思っていた孫権は、魯粛の進言に従い劉備との同盟を決断。

そこで、周瑜を大都督として召喚し、赤壁開戦へと踏み切ったのです。

「赤壁の戦いの黒幕」としての評価

赤壁の勝利後、孫権は魯粛を大歓待し、「私が馬丁となって魯粛の下馬を助けたら、この功に報いたといえるか」と尋ねました。

しかし、魯粛の答えは「不十分です。あなたが天下統一をして初めて私は報いられます」というものでした。

これは、赤壁の勝利に満足せず、さらに先を見ていた魯粛らしい発言と言えますね。

また、同盟のために奔走した魯粛がいなければ、孫権は曹操に降伏し、劉備は滅亡していたことでしょう。

つまり、三国時代の礎をつくったのは魯粛と言っても過言ではないのです。

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赤壁の戦いといえば周瑜や諸葛亮が注目されますが、真の立役者は魯粛でした。劉備との会見から孫権の説得、諸葛亮との連携まで、すべてを仕組んだのです。表舞台に立たない黒幕こそ、実は歴史を動かす存在なんですよね。

周瑜の後継者として荊州問題に挑む

周瑜の遺言で後継者に指名

建安15年(210年)、呉の大都督周瑜が急死しました。

これについては、南郡攻略の際に負った傷が悪化したとも言われています。

そして、周瑜はわずか36歳という若さでこの世を去りましたが、その遺言で魯粛を後継者として推挙したのです。

そこで、魯粛は奮武校尉(ふんぶこうい)に任命され、軍隊を取りまとめることになりました。

程普が南郡太守に任命される一方で、魯粛は江陵(こうりょう)に軍を置き、やがて陸口(りくこう)に駐屯地を移しています。

また、地方でも魯粛の仁徳は行き渡り、兵士は1万人ほどに増強されました。

その後、漢昌太守(かんしょうたいしゅ)・偏将軍(へんしょうぐん)となった魯粛は、赤壁の戦いで疲弊していた呉の国力を回復させることに尽力します。

このように、周瑜の後継者として、魯粛は見事にその責務を果たしたのです。

劉備に荊州を貸す大胆な決断

周瑜が死去すると、荊州の土地問題が浮上してきました。

赤壁の戦いの直後、孫権軍は荊州南部の南郡・武陵(ぶりょう)・長沙・桂陽(けいよう)・零陵(れいりょう)を曹操より奪い取っていました。

しかし、劉備もまたこの地域を狙っていたのです。

そこで、武陵の公安に駐屯した劉備は呉の京城を訪問し、荊州南部の督にしてほしいと孫権に求めました。

これには、周瑜や呂範(りょはん)といった人物が反対し、劉備をこのまま引き止めておくよう孫権に求めます。

この理由としては、劉備を野放しにすれば、いずれ強大な勢力になると警戒したからです。

しかし、魯粛は他とは異なる考えを持っていました。

曹操という大敵に対抗するためには、劉備に力を与えておくべきだと考えたのです。

つまり、劉備は魯粛にとって、曹操を牽制するための第三勢力として必要な存在でした。

そして、魯粛の提案を受けた孫権は、劉備に荊州を貸し与えます。

この知らせを聞いた曹操はショックを受け、持っていた筆を落としたと言われています。

魯粛は劉備を生かすことで、三国鼎立(ていりつ)の基礎を築いたのです。

逆に言えば、劉備は魯粛がいなければいつ滅ぼされてもおかしくない状況だったと言えます。

そのため、劉備は魯粛に逆らうことが出来ませんでした。

劉備が、益州(えきしゅう)を手に入れて独立できたのは、劉備を生かした魯粛の尽力があったからなんです。

関羽との単刀会

関羽と魯粛の間では、荊州を巡ってしばしば紛争が起こっていました。

215年、曹操が漢中(かんちゅう)へ侵入すると、劉備は荊州南部の東半分を孫権に返還します。

これは、孫権(魯粛)の機嫌を損ね、挟み撃ちされてはたまらないから譲歩したのです。

ちなみに、このときの交渉役は、もちろん魯粛でした。

後世に「単刀会(たんとうかい)」と呼ばれる会見に臨み、関羽との交渉で割譲を取りつけたのです。

ただ、魯粛としても無条件に荊州を貸していたのではありません。

劉備が新たな土地を得たなら、うまくやって少しずつでも取り戻すつもりだったんですね。

【単刀会の真実】

演義での単刀会

  • 魯粛が荊州返還を要求
  • 関羽は「劉備様が益州を取ったら返す」と約束を破る
  • 魯粛は何も言い返せず
  • 関羽に脅され、人質にされる
  • けんもほろろに追い返される

正史での単刀会

  • 魯粛が領地の割譲を要求
  • 関羽は反論しようとする
  • 魯粛は劉備と孫権に与える影響の大きさを武器に反論
  • 関羽に反論の余地を与えず
  • 兵を用いずして荊州南部の三郡を取り返す
  • 外交手腕の勝利

このように、演義と正史では、全く逆の描写になっています。

演義では魯粛が散々な扱いを受けるのに対して、正史では魯粛が毅然とした態度で関羽を圧倒しているのです。

これは魯粛の外交手腕の高さを示すエピソードと言えますね。

魯粛は劉備と同盟し、曹操に当たることが呉の将来のためであることを信じ、常に友好的な態度で接して事を荒立てないようにしました。

しかし、こちらから要求を行う時は常に毅然とした態度で臨んだのです。

この外交センスこそ、魯粛の真骨頂と言えるのです。

歴女

魯粛が劉備に荊州を貸したのは、甘やかしではなく高度な戦略でした。劉備を育てて曹操に対抗させ、時期を見て少しずつ取り戻す。この構想は、やがて魯粛の死後に実現します。長期的視野に立った外交の勝利と言えますね。

魯粛の死と後世への影響

46歳での早すぎる死

建安22年(217年)、魯粛はわずか46歳という若さで病死しました。

もし魯粛があと10年生きていれば、三国志の歴史は大きく変わっていたかもしれません。

周瑜も36歳、魯粛も46歳。呉の優秀な人材が相次いで早世したのは、呉にとって大きな痛手でした。

また、魯粛の葬儀には孫権が参加して大声で泣いたといいます。

さらに、敵対関係にあった蜀の諸葛亮も喪に服したそうです。

これは、魯粛の人格がいかに尊敬されていたかを示すエピソードですね。

そして、魯粛の死により、呉の対劉備政策は大きく転換します。

後任の呂蒙(りょもう)は、劉備に対して魯粛とは逆の「強硬派」でした。

そこで、魯粛の死から2年後(219年)に、呂蒙は曹操と組んで関羽を背後から襲います。

その後、孫堅と劉備の抗争は激化し、共に国力を落としていきました。

このことからも分かるように、魯粛の存在が時代に与えた影響は極めて大きかったのです。

魯粛という緩衝材がいなくなったことで、呉と蜀の同盟は破綻へと向かっていくのでした。

孫権との特別な関係

魯粛と孫権の関係は、終始非常に良好だったようです。

孫権は、魯粛を特別に信頼し、彼が亡くなるまで重用し続けました。

重臣の張昭が何度も魯粛を批判しても、孫権は意に介さなかったのです。

また、魯粛の死後も、孫権は何度か魯粛に関して言及しています。

孫権は、魯粛・周瑜・諸葛瑾(しょかつきん)あたりととても仲が良かったんですね。

外様を優遇するのは張昭がうるさいからかもしれませんが、それでも魯粛への信頼は特別でした。

魯粛がいなければ三国志は存在しなかった

「魯粛なくして三国志なし」。この言葉は決して誇張ではありません。

もし、魯粛がいなければ、赤壁で孫権は曹操に降伏していた可能性が高いと言われているのです。

そうなれば、劉備は滅亡し、早々に曹操の天下統一が実現していました。

つまり、魯粛が三国志の歴史を変えたといっても過言ではありません。

天下二分の計を献策し、劉備・孫権連合を実現し、赤壁の勝利を導いた。

さらに、劉備に荊州を貸して育て、三国鼎立の基礎を築きました。

これらは、すべて魯粛の戦略と外交手腕によるものです。

また、後世の評価も高く、陳寿(ちんじゅ)は周瑜と魯粛をまとめて称賛しています。

「周りの意見に流されず、曹操への抗戦を決めた」と。

降伏派が99%という状況で、主戦論を貫き通した勇気。これが三国志を生み出したんですね。

歴史探偵女

魯粛なくして三国志なし。この言葉は決して誇張ではありませんよ。赤壁で孫権が降伏していれば、曹操の天下統一は確実だったと言えます。つまり、魯粛が歴史を変えたのです。そして、彼の死により呉の対劉備政策は強硬路線へと転換していくことになります。

まとめ

魯粛は演義と正史で全く異なる評価を受ける人物です。

演義では、諸葛亮にあしらわれる気弱な文官として描かれますが、正史では赤壁の戦いを実現した天才戦略家として高く評価されています。

米倉を丸ごと周瑜に与えた豪快さ、孫権に「帝王を号せ」と提案した大胆さ、便所で孫権を説得した機転、関羽と対等に交渉した外交手腕。

これらすべてが、魯粛の真の実力を示していますよね?

そして、天下二分の計は、諸葛亮の天下三分の計に先駆け、劉備・孫権連合という奇跡を実現しました。

つまり、魯粛は表舞台に立たず黒幕として暗躍しながら、確実に歴史を動かしていったのです。

46歳という若さでこの世を去りましたが、孫権が大声で泣き、諸葛亮が喪に服したことが、魯粛への深い敬意を物語っていますね。

歴女

魯粛は三国鼎立を実現した真の立役者です。表舞台に立たず黒幕として歴史を動かした、稀代の戦略家でした。演義のイメージは間違いです。豪胆で知略に優れ、外交手腕に長け、大局を見据える視点を持つ。これが本当の魯粛なのです。


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