
関羽の生い立ちってどうなの?



関羽の伝説が知りたい
この記事では、こんな疑問にお答えしますね。
- 関羽の生い立ちと劉備との出会い
- 関羽の数々の伝説
- 関羽の最期とそのきっかけ
- 現代において関羽が神格化されている理由


- 歴史大好き女
- 今まで読んだ歴史書籍は日本史&世界史で200冊以上
- 日本史&中国史が得意
- 特に中国の春秋戦国時代や三国時代、日本の戦国時代が好き


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関羽と言えば、三国志ファンはもちろん、それ以外の人でも知らない人はいないほど超有名な武将ですよね?
横浜の中華街に関帝廟があり、これは武勇はもちろん商売繁盛の神様として祭られています。
そんな関羽ですが、幼いころの生い立ちや曹操に捕らえられていたことなど、まだまだ知らないことが多いのではないでしょうか?
そこで、当記事では三国志の関羽、その生涯と英雄たる伝説について解説します。
関羽とは?その生い立ち


関羽(字は雲長)は、162年に司隷河東郡解県(現在の山西省運城市塩湖区解州鎮常平村)で生まれました。
その生い立ちは、はっきりしていない部分もあります。
ただ、一説によれば、幼い頃から学問や武芸に励む一方で、正義感が非常に強い青年だったと言われています。
また、若き日の関羽は、塩の密売人だったという説もあります。
そして、官吏に追われた末に故郷を離れて放浪の生活を送ったとされています。
当時の中華は、後漢王朝の腐敗と戦乱に揺れており、混乱に満ちた時代背景が関羽の人生を形成する基盤となったのです。
劉備との出会いと義兄弟の誓い
関羽が、その名前を後世に残すきっかけとなったのは、劉備や張飛との出会いです。
彼らが、義兄弟の契りを結んだ出来事は、後に「桃園の誓い」として語り継がれることになります。
この誓いは、彼らの信義や団結力の象徴であり、三国志の物語を語るうえで欠かせない重要なポイントとなりました。
この時、劉備は後漢の皇族を名乗り、天下の安定を取り戻す志を持った人物でした。
その一方、張飛と関羽は共に武勇に優れており、劉備を中心に義に生きる誓いを立てたのです。
そして、この出会いが、後に戦乱の三国時代を舞台にした壮大な運命を切り開くキッカケになったんですね。
その後、関羽は劉備に対して生涯にわたり忠誠を尽くし、その信念が彼を三国志の英雄としての地位を確立したのです。






関羽の「美髯公」としての風格
関羽といえば、その象徴的な存在感を際立たせる「美髯公(びぜんこう)」という異名でも知られています。
関羽の美しい髭を持つ堂々たる風貌は、数々の文学作品や芸術作品で描かれています。
これは、彼の威厳と気品を物語るものとして語られます。
そして、この異名はただ見た目の美しさだけでなく、関羽の人柄が備える堂々たる風格をも表していますね。
また、関羽は三国志武将の中でも、その魅力が際立っています。
三国志の物語では、その卓越した武勇が幾多の場面で描かれており、敵味方を問わず畏れられる存在でした。
特に、「青龍偃月刀」という大きな武器を操る姿には威圧感が漂い、見る者に畏敬の念を抱かるのには十分です。



関羽は、劉備との出会いがその後の運命を決めるきっかけになったのです。
関羽の数々の功績と伝説
関羽は、三国志の時代の中で、数々の伝説を残しています。
「過五関、斬六将」で曹操の元を去る
関羽が、三国志の中で刻んだ伝説のひとつに、「過五関、斬六将」と呼ばれる物語があります。
これは、かつて曹操に捕らえられた関羽が、劉備への忠誠を守るため、その元を脱していく過程での出来事です。
当時、関羽は曹操から高い評価を受けており、さまざまな名誉や贈り物を与えられました。
ただ、関羽の心は全く動じることなく、終始義兄弟である劉備に向いていました。
その後、曹操は観念して、関羽が劉備の元に向かうことを許可します。
しかし、曹操の領土を離れるにはいくつもの関所を通過する必要がありました。
そこで、関羽はそれぞれの関所で立ちはだかる敵将たちを一人で撃破していきます。
当時、この中で倒した六人の将軍は皆、武勇で知られる猛者たちでした。
それでも、関羽はその圧倒的な実力と義の心で乗り越えていったのです。
この「過五関、斬六将」の逸話は、関羽の武勇と劉備への揺るがぬ忠義を示す象徴的な出来事として、後世に伝えられています。
荊州の守護者としての役割
赤壁の戦いの後、荊州という戦略的重要地を劉備軍が握ることとなります。
この時、関羽はその守護者として荊州の統治を任されました。
この役割は、関羽の武将としての能力だけでなく、彼の義理堅さと知略をも証明するものです。
そして、関羽の統治下では、荊州は内部での秩序が保たれ、外敵の脅威にも屈することはありませんでした。
荊州の守護者として、関羽が見せた武勇と冷静な判断力は、劉備陣営の勢力拡大に大きく貢献したんですね。
青龍偃月刀にまつわる伝説
関羽の象徴とも言えるのが、彼が振るう「青龍偃月刀(せいりゅうえんげつとう)」です。
この武器は、総重量が数十キロにも及ぶとされる大刀で、敵を一振りでなぎ倒す破壊力を持っていました。
関羽がこの武器を華麗に操る様子は、三国志正史や三国志演義の中で幾度も描かれており、彼の武勇を輝かせています。
また、青龍偃月刀にまつわる数々の逸話も関羽の強さを際立たせているには十分です。
例えば、彼の愛刀が光を放つように輝き、敵に畏怖の念を抱かせたという伝説があります。
この武器は、関羽が自分の信念を貫き通す象徴として古くから語り継がれ、関羽自身の存在をさらに神格化する一助となっています。
そして、関羽の名前とともに、この青龍偃月刀は人々の心に刻まれ、三国志の象徴的なアイテムの一つとして有名です。



関羽の青龍偃月刀は有名ですよね?



青龍偃月刀はかなり大きかったようですが、関羽は竿のように振り回していたみたいですね。
関羽の最期とその敗因


どんなに優れた武将でも、最後は必ずやってきます。
それでゃ、関羽の最期はどのような感じだったのでしょうか?
樊城の戦いで苦しむ関羽
関羽は、三国時代の英雄として、その武勇と義理堅さが広く知られています。
ただ、彼の最期を語る上で避けて通れないのが「樊城の戦い」です。
この戦いは、建安24年(219年)に起こり、関羽の生涯最大の窮地ともいえる出来事となりました。
この戦いでは、関羽は魏に属する樊城を攻め、名将曹仁を追い詰めるなど一時は優位に立ちます。
その際、荊州の豊富な資源を武器に兵糧攻めを展開し、魏軍に対して劉備軍の勢いを見せつけました。
しかし、この戦いで最大の誤算となったのが、孫権との同盟関係の崩壊です。
元々は、劉備と孫権は協力関係にありましたが、孫権が荊州を狙うという政治的な事情から曹操と手を組んだのです。
この結果、魏軍と呉軍は関羽を挟撃する戦略を取ります。
こうなってしまうと、いくら関羽と言えども魏と呉の両軍に苦しめられ、戦局は急速に悪化していきました。
自身の傲慢さが招いた敗北
関羽の敗北には、戦術的な要因だけでなく、彼自身の強い性格面も影響したと言われています。
関羽には、かねてより身分や能力に応じた序列を非常に重んじる厳格な一面がありました。
それは、彼の部下からの尊敬を集める一因にもなっています。
その一方で、同盟国である呉の将軍たちを見下す発言や態度が度々問題視されていたのです。
特に、孫権との関係では融和を図ることなく、強硬な姿勢をとり続けたことが、同盟関係の崩壊に繋がったのです。
さらに、孫権軍との間で必要な外交努力を怠り、さらに魏と呉が協力して自分を攻める可能性を軽視していました。
この結果、関羽は味方の支援を受けられない孤立無援の状態に陥ってしまったんですね。
このような彼の傲慢さが、荊州という重要地域を呉に奪われる結果に繋がったのです。
麦城への撤退と最期
樊城の戦いの末、関羽は麦城(現在の湖北省当陽市)へと撤退を余儀なくされます。
ただ、その道中も魏と呉の軍に徹底的に追撃され、頼るべき味方からの補給も途絶えていきました。
そして、最終的に関羽と彼の息子関平は捕えられ、孫権により処刑される悲劇的な結末を迎えます。
しかし、関羽は命を落とすその瞬間まで義を大切にし、蜀漢への忠誠心を持ったまま散ったのです。
この出来事により、関羽はただの武将ではなく、義と忠義の象徴として後世まで語り継がれることになりました。
ちなみに、この時、息子の関興や他の家族は呂蒙に保護されています。



関羽は劉備への忠誠心を忘れず、最後まで戦い抜いたのです。
神格化された関羽の地位
関羽は、関帝廟に代表されるように、現在では神格化されています。
関帝廟の建立と関羽の地位
関羽は、その生涯における義と忠誠心が称えられ、広く神格化されました。
その象徴として建てられたのが「関帝廟」です。
関帝廟は、古代中国から現代に至るまで多くの都市や中華街に存在し、関羽を「関帝」や「関聖帝君」として祀っています。
特に関羽は、武神として現実世界の紛争や困難を打破する象徴とされ、広く信仰の対象となったのです。
また、関羽が商売繁盛の神としても信仰されている背景には、その忠義心や信頼性の高さが商人たちの理想像と結びついたという説があります。
このように関帝廟は、単なる祠を超え、忠義と信頼を象徴する存在として、現在でも信仰され続けているんですね。
関羽の義と忠誠心が現代社会に与える影響
関羽が体現した「義」と「忠誠心」は、現代社会においても道徳的な価値観の一つとして認識されています。
三国志の中で、関羽が劉備に対して変わらぬ忠誠を貫き通したエピソードは、リーダーシップや人間関係の中で大切な教訓となっています。
例えば、現代のビジネスにおいても、部下や同僚への忠誠心や約束を守る姿勢が重要視されています。
関羽を描いた文学や芸術
関羽は、三国志を題材とした文学作品や芸術作品の中で圧倒的な存在感を放っていますね。
古典文学「三国志演義」では、威風堂々たる猛将として描かれており、彼の義理堅い性格や忠誠心が強調されています。
また、美髯公としての風貌も人々の心を掴み、多くの芸術作品でも取り上げられてきました。
そして、関羽は絵画や彫刻、演劇の題材として数多く描かれています。
特に、京劇などの伝統芸能では赤い顔に豪華な鎧を纏った姿で描かれることが多いです。
現代においても、映画やドラマ、ゲームなどで関羽はしばしば登場し、三国志ファンのみならず多くの人々を魅了しているのです。



中華街の関帝廟は知っていたけど、そんな意味があったんですね。



関羽は武神としても商売繁盛の神としても祀られていますよ。
まとめ
関羽は、劉備や張飛とともに、黄巾の乱から行動を共にした武将です。
この3人の絆はとても強く、曹操から厚遇されていた時も、結局劉備の元に帰っていきました。
また、戦場では数々の武功を挙げたものの、最後は傲慢な性格が災いして孫権軍に敗れてしまったのです。
この関羽の訃報は、劉備をはじめ蜀漢に大きなダメージを与え、その後の衰退にもつながっていきます。
しかし、関羽の義理堅く忠誠心にあふれた生き様は、現在において神格化される要因となっています。



関羽は劉備への忠誠心にあふれており、最後まで敵に降ることなくその生涯を閉じたのです。