歴史探偵女三国志って最終的に誰が勝ったの?



その後魏・呉・蜀がどうなったのか?が知りたい
この記事では、こんな疑問にお答えしますね。
- 三国志で最終的に勝った国と人物
- 魏・呉・蜀が滅亡した順番と具体的な年代
- 司馬懿から司馬炎へ続く権力奪取の全過程
- 多くの作品が途中で終わる理由
- 晋による統一後わずか30年で崩壊した真相
- 三国の国力差と勝敗を分けた本当の要因


- 歴史大好き女
- 今まで読んだ歴史書籍は日本史&世界史で200冊以上
- 日本史&中国史が得意
- 特に中国の春秋戦国時代や三国時代、日本の戦国時代が好き


- 歴史大好き女
- 今まで読んだ歴史書籍は日本史&世界史で200冊以上
- 日本史&中国史が得意
- 特に中国の春秋戦国時代や三国時代、日本の戦国時代が好き
「結局、三国志って誰が勝ったの?」
この素朴な疑問、実は意外な答えが待っているんですよね。
多くの漫画やドラマは五丈原や蜀の滅亡で終わるため、本当の結末を知らない人は少なくありません。
ただし、実は魏・呉・蜀の三国すべてが滅んでおり、最終的に勝ったのは晋という別の国でした。
そこで今回は、三国志の知られざる真の結末から、司馬一族の台頭、そして統一後のあっけない崩壊まで、歴史の真実を分かりやすく解説しますね。
三国志で誰が勝ったのか?それは司馬氏の晋


これは、あまり知られていない事実ですが、三国志で有名な魏・呉・蜀は勝っていません。
というか、最後に勝ったのは晋という、全く別の国だったのです。
魏・呉・蜀のどれも天下統一できなかった
まず結論からお伝えしますね。
先ほども書きましたが、三国志で最終的に中国を統一したのは、魏でも呉でも蜀でもありません。
その答えは「晋(しん)」という国なんです。
これを聞いて「え、そんな国あったっけ?」と思った方も多いはず。
そうなんです、三国志の物語で主役を張る魏・呉・蜀の三国は、実はどれも天下統一を果たせずに滅亡してしまったのです。
ちなみに、晋を建国したのは司馬炎(しばえん)という人物で、彼は魏の重臣だった司馬懿(しばい)の孫にあたります。
そして、司馬炎は265年に魏から皇帝の位を譲り受けて晋を建国しました。
その後、280年に最後まで残っていた呉を滅ぼして、ついに中国統一を達成したのです。
つまり、約百年にわたる三国時代の争いは、当事者である三国のどれも勝者になれなかった。
結局のところ、漁夫の利を得た第三者が最終的な勝利者となったわけなんです。
三国が滅んだ順番と年代【一目で分かる表】
では、三国はどの順番で滅んでいったのでしょうか?
まずは、以下の表で整理してみたので、確認しましょう。
| 順位 | 国名 | 滅亡年 | 最後の君主 | 滅ぼした国 |
|---|---|---|---|---|
| 1位 | 蜀 | 263年 | 劉禅 | 魏 |
| 2位 | 魏 | 265年 | 曹奐 | 晋へ禅譲 |
| 3位 | 呉 | 280年 | 孫晧 | 晋 |
意外なことに、物語で主役級の扱いを受ける蜀が一番最初に滅んでいます。
その蜀を滅ぼした魏も、わずか2年後には司馬一族に乗っ取られる形で消滅。
そして、最後まで生き残った呉が、280年に晋の総攻撃を受けて降伏し、ここに三国時代が完全に終焉を迎えたのです。
なぜ「晋」という答えが意外なのか
それにしても、なぜ多くの人が三国志の結末を知らないのでしょうか?
その理由は、思いのほかシンプルになります。
ほとんどの三国志作品が、蜀の滅亡か、あるいはその前の諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)が亡くなる五丈原(ごじょうげん)の戦いで物語を終えてしまうからです。
日本で最も有名な横山光輝(よこやまみつてる)さんの漫画『三国志』も、蜀の滅亡で完結していますね。
また、吉川英治(よしかわえいじ)さんの小説『三国志』に至っては、諸葛亮の死で物語が終わっているのです。
そして、演義では蜀の劉備(りゅうび)や諸葛亮が主人公格として描かれるため、彼らが活躍する時代を過ぎると物語としての魅力が薄れてしまいます。
さらに、最終的な勝者である司馬一族は、どちらかといえば「主君を裏切った権臣」というネガティブなイメージ。
数々の陰謀で権力を奪った彼らの物語は、義に生きた劉備たちの物語ほど感動的ではないのかもしれませんね。
こうした理由から、「三国志」という名前は知っていても、その本当の結末を知らない人が多いわけなんです。



三国の競争が、結局は第三者の司馬一族に漁夫の利を与えた歴史は、まさに青天のへきれきと言えますよね?目先の争いに夢中になる間、じっくり力を蓄えた者が最後に勝つという厳しい現実を突きつけています。
三国が滅亡した詳しい経緯と理由
では、それぞれの国がどのように滅んでいったのか、詳しく見ていきましょう。
【263年】最初に滅んだ蜀
三国の中で最初に滅亡したのは、皮肉なことに物語の主役格である蜀でした。
この転機となったのは、そう、あの有名な234年の五丈原の戦いです。
この戦いで諸葛亮が病死すると、蜀は一気に衰退の道を辿ります。
孔明という天才軍師を失った蜀には、もはや魏と対等に戦える人材が残っていなかったのです。
その後、諸葛亮の後継者である姜維(きょうい)が何度も北伐(ほくばつ)を繰り返しますが、これが逆効果でした。
もともと、国力で魏の6分の1しかない蜀にとって、度重なる遠征は国庫を圧迫し、民を疲弊させただけだったのです。
そして263年、魏の将軍・鄧艾(とうがい)が蜀に対して奇襲作戦を敢行します。
鄧艾は険しい山道を越えて蜀の首都・成都(せいと)の近くに突如として現れたのです。
この大胆な作戦に蜀軍は対応できず、二代目皇帝の劉禅はあっさりと降伏してしまいます。
そこで、劉禅は降伏後、魏の都・洛陽(らくよう)に移住させられました。
この時、宴席に招かれた際に、「蜀のことは思い出しませんか?」と聞かれた劉禅は「ここが楽しくて蜀のことなど思い出しません」と答えたといいます。
これが、「楽不思蜀(がくふししょく)」という故事の由来ですね。


【265年】司馬氏に乗っ取られた魏
蜀を滅ぼした魏は、一見すると最も有力な勝者に見えました。
ただ、この時すでに魏の実権は皇帝の曹氏(そうし)ではなく、司馬氏の手に完全に移っていたのです。
何故、司馬氏に実権が移っていたのか?事の発端は249年の「正始(せいし)の変」というクーデターです。
当時、魏の実権を握っていた曹爽(そうそう)という人物に対し、司馬懿が電光石火のクーデターを起こして政敵を一掃しました。
この時、司馬懿はすでに70歳。しかし老いてなお、その手腕は衰えていなかったんですね。
そして、司馬懿の死後、息子の司馬師(しばし)と司馬昭(しばしょう)が後を継ぎ、さらに権力を固めていきます。
これを受けて260年、皇帝の曹髦(そうぼう)が「司馬昭の野心は誰の目にも明らかだ」と叫んで司馬昭討伐の兵を挙げます。
しかし、あえなく返り討ちに遭い、なんと皇帝自らが殺されてしまうという事態になってしまったのです。
そこで265年、司馬昭の息子である司馬炎が、ついに最後の一手を打ちます。
それは、魏の皇帝・曹奐に「禅譲(ぜんじょう)」を迫り、皇帝の位を譲り受けたのです。
もっとも、形式上は平和的な権力移譲でしたが、実質的には乗っ取りで間違いありません。
こうして、曹操が築き上げた魏王朝は、わずか45年で幕を閉じました。
【280年】最後まで残った呉
三国の中で最も長く生き残ったのが呉でした。
しかし、それは呉が強かったからではなく、たまたま最後になっただけというのが実情なんです。
そして、呉の衰退は、名君として知られた孫権(そんけん)の晩年から始まっていました。
じつは、孫権が後継者問題で大失敗をしてしまうのです。
長男の孫登(そんとう)が早くに亡くなると、次男の孫和(そんか)を太子にしましたが、三男の孫覇(そんは)との後継者争いが勃発。
結局、孫和は廃され、孫覇は自害に追い込まれてしまいます。
これが、呉では有名な「二宮(にきゅう)の変」と呼ばれる事件です。
さらに、追い打ちをかけたのが、最後の皇帝となった孫晧(そんこう)の暴政です。
孫晧は即位当初こそ期待されましたが、すぐに本性を現します。
酒色に溺れ、わずかなことで臣下を処刑し、重税で民を苦しめたんですね。
こうして、内部から腐っていった呉に対し、279年、晋の武帝・司馬炎は総攻撃を命じます。
晋軍は六方面から同時に攻め込むという大規模作戦を展開。
特に、杜預(とよ)という将軍の活躍が目覚ましく、呉軍はほとんど抵抗らしい抵抗もできませんでした。
その結果、280年3月に孫晧は降伏します。
こうして、孫堅(そんけん)・孫策(そんさく)・孫権と三代にわたって築き上げた呉王朝も、ついに滅亡したのです。



興味深いのは、三国とも「内部崩壊」が滅亡の主因だった点ですね。蜀は人材不足、魏は権臣の専横、呉は暴君の失政。外敵よりも内なる弱さこそが、強大な国家を滅ぼす最大の要因であることを歴史が証明していますよ。
司馬一族はどうやって天下を奪ったのか
では、司馬一族はどのようにして魏を乗っ取り、天下を統一したのでしょうか?
祖父・司馬懿の時代から孫・司馬炎の時代まで、三世代にわたる壮大な権力奪取の物語を見ていきましょう。
曹操の遺言「司馬懿に気をつけろ」の意味
司馬懿は若い頃から優秀な人物として知られていましたが、曹操に仕えることには消極的でした。
というのも、曹操という人物は猜疑心(さいぎしん)が強く、有能すぎる部下をしばしば粛清していたからです。
ただ、曹操は司馬懿の才能を見抜いており、強引に自分の陣営に引き入れます。
そして、曹操は死の間際、息子の曹丕(そうひ)に言い残しました。
「司馬懿という男には気をつけろ。あいつは大志を抱いている。いずれ我が一族を脅かすかもしれん」
この遺言は、まさに予言となったのです。
曹丕の時代、そして次の曹叡(そうえい)の時代、司馬懿は忠実な臣下として振る舞います。
諸葛亮との五丈原での対決では、持久戦に徹して孔明を病死に追い込むという功績も上げました。
しかし、曹叡が亡くなり、幼い曹芳(そうほう)が即位すると、状況が変わります。
実権を握ったのは曹爽という人物でしたが、彼は司馬懿を名誉職に祭り上げて権力から遠ざけようとしました。
そのため、司馬懿は病気を装い、無能を演じて油断を誘います。
そして249年、曹爽が皇帝に従って洛陽を離れた隙を突いて、司馬懿は一気に行動を起こします。
わずか一日で宮殿を占拠し、曹爽一族を全員処刑という、70歳の老将が見せた電光石火のクーデターでした。
これが「正始の変」であり、ここから司馬一族による魏の実権掌握が始まりました。
皇帝さえ自由に操る司馬氏の権力
司馬懿の死後、長男の司馬師が後を継ぎますが、彼は父以上に冷酷でした。
254年、気に入らないという理由だけで皇帝・曹芳を廃位し、別の皇族である曹髦を擁立します。
司馬師は、皇帝をまるで人形のように取り替えてしまったのです。
しかし、司馬師が若くして病死すると、次に権力を握ったのが弟の司馬昭です。
そして、司馬昭の時代には、司馬一族の権力は絶頂に達します。
263年には蜀を滅ぼすという大きな戦果も上げました。
ところが260年、前述の通り皇帝・曹髦が「もう耐えられない」と司馬昭討伐の兵を挙げます。
ただ、皇帝軍は簡単に鎮圧され、曹髦は殺されてしまいました。
ちなみに、この事件は表向きは部下の暴走とされましたが、誰もが司馬昭の指示だと分かっていたのです。
「司馬昭の心は路人皆知(ろじんかいち)」とは、この事件を指す言葉になります。
ついに司馬炎が皇帝の座へ
司馬昭の長男・司馬炎は、父の死後わずか数ヶ月で行動を起こします。
265年12月、司馬炎は皇帝・曹奐に「禅譲」を迫りました。
形式上は「天命が移った」という理由で、平和的に皇帝の位を譲り受ける形ですが、曹奐に選択肢はありませんでした。
こうして司馬炎は皇帝に即位し、国号を「晋」と改めます。
祖父・司馬懿が権力の基盤を作ってから16年、三世代にわたる悲願がついに達成された瞬間でした。
そして、司馬炎は即位後、呉の征服に向けて全力を注ぎます。
279年、六方面から約20万という大軍を呉に向けて進軍させました。
そこで、この進軍の翌年、280年3月に呉の首都・建業(けんぎょう)が陥落します。
その結果、孫晧が降伏し、ここに約百年続いた三国時代が完全に終わりを告げたのです。



司馬一族の成功は「三世代戦略」の典型例ですね。祖父が基盤を作り、息子世代が実権を握り、孫が最終目標を達成。このように、個人ではなく一族全体で長期的なビジョンを共有した点が、性急な他の武将たちとの決定的な違いとなったのです。
なぜ多くの作品は三国志が途中で終わるのか?


三国志の本当の結末を知って、こう思った方もいるのではないでしょうか?
「なぜこんな重要な部分が、多くの作品で描かれていないの?」実は、これには明確な理由があります。
主役の不在 – 諸葛亮の死で物語の魅力が半減
三国志という物語には、明確な主役がいます。
前半の主役は魏の曹操、そして後半の主役は蜀の諸葛亮孔明です。
孔明の天才軍師として、弱小の蜀を支えながら魏に立ち向かう姿は、まさにヒーローそのもの。
ところが、諸葛亮は234年に五丈原で病死してしまいます。
この孔明の死から、晋による統一(280年)までは、なんと46年もあります。
ちなみに、黄巾(こうきん)の乱が起きたのが184年ですから、三国志全体の期間は約96年。
つまり、物語の後半のほぼ半分が、主役不在の時代となっているんですね。
もちろん、この間にも司馬懿や司馬昭、鄧艾、杜預といった優秀な人物は登場します。
しかし、彼らは主に「主君を裏切った権臣」や「実務的な将軍」として描かれ、劉備や諸葛亮のような「義に生きるヒーロー」ではありません。
つまり、物語としての盛り上がりと歴史的な完結性は、必ずしも一致しないのです。
蜀びいきの「三国志演義」の影響
もう一つの大きな理由は、日本に最も影響を与えた『三国志演義』という小説の構成です。
この演義は、14世紀に羅貫中(らかんちゅう)という人物がまとめた歴史小説で、その最大の特徴が「蜀びいき」です。


そして、演義では劉備は仁徳の君主、諸葛亮は完璧な軍師として描かれます。
その一方、曹操は残虐な悪役、司馬懿は陰険な野心家という扱いなんです。
この演義の影響で、三国志といえば「劉備・関羽・張飛の義兄弟と諸葛亮の物語」というイメージが定着しました。
また、日本でも、吉川英治の小説や横山光輝の漫画は、基本的にこの演義をベースにしています。
そのため、主人公格である劉備一族や諸葛亮が退場すると、物語も終わりという構成になるのです。
さらに、日本人には「判官贔屓(はんがんびいき)」という文化があります。
これは、強者よりも、不遇な立場で頑張る弱者を応援したくなる心理のことですね。
「国力で圧倒的に不利な蜀が、知恵と勇気で魏に立ち向かう」これは日本人の心を強く掴む構図なのですから。



物語は「感情移入できる主人公」が不可欠ですよね?義に生きる劉備や天才軍師・孔明の物語は感動的ですが、陰謀で権力を奪った司馬一族では共感が難しいです。つまり、エンタメと史実の温度差がここに表れていますよ。
統一後の晋はわずか30年で崩壊
さて、ここまで読んで「結局、司馬炎が天下統一を成し遂げたんだから良かったね」と思った方もいるかもしれません。
しかし、三国志の歴史はそう甘くありませんでした。
百年の戦乱を経てようやく実現した中国統一は、信じられないほど短命に終わったのです。
司馬炎の失政
司馬炎は、統一を達成するまでは有能な皇帝でしたが、統一後はまるで別人のように堕落していきます。
まず、彼は後宮に3000人もの女性を集めたのです。驚きですよね?
あまりに人数が多すぎて、誰のもとを訪れるか決められず、羊の引く車に乗って「羊が止まった場所の女性のもとに行く」という逸話まで残っています。
そして、酒色に溺れた司馬炎は、政治にも無関心になっていきました。
さらに致命的だったのが、いつの時代にもありますが、後継者の選択です。
司馬炎の長男・司馬衷(しばちゅう)は、はっきり言って知的に問題がありました。
ある年、飢饉(ききん)で民が餓死していると報告を受けた司馬衷は、こう言ったと伝えられています。
「米がないなら、なぜ肉を食べないのですか?」
これは有名な「何不食肉糜(なんぷしょくにくび)」という故事の元になったエピソードなんです。
これを受けて多くの臣下が、「司馬衷を太子にするのは危険です」と諫めましたが、司馬炎は聞き入れませんでした。
さらに、司馬炎は諸王(しょおう)、つまり一族の王たちに強大な権力と軍隊を与えます。
これが、後に大惨事を招くことになったのです。
司馬氏内部で起こった八王の乱
290年、司馬炎が死去すると、予想通りの悲劇が始まりました。
次に皇帝となった司馬衷は、予想通り政治能力が皆無だったのです。
そのため、実権を握ったのは、彼の妻である賈南風(かなんぷう)という女性になります。
この賈南風ですが、とても権力欲が強く、自分に反対する者を次々と粛清していきます。
これに反発した司馬一族の諸王たちが、次々と兵を挙げた結果、始まったのが「八王の乱」です。
この内乱には、主に八人の王が関わったためこの名がついています。
しかし、実際には司馬一族のほぼ全員が入り乱れての権力争いだったのです。
そして、この内乱は291年から306年まで、実に16年間も続きました。
これにより、中国全土が戦場となり、民衆は再び戦乱の苦しみを味わうことになります。
せっかく統一されて訪れたはずの平和は、わずか10年で終わってしまったのです。
皮肉なことに、百年の戦乱を終わらせた司馬一族が、今度は自分たち同士で中国を再び戦乱に陥れました。
異民族の侵入と西晋の滅亡
八王の乱で弱体化した晋に、さらなる災難が襲いかかります。
それは、北方の異民族が、混乱に乗じて中原に侵入してきたのです。
特に、匈奴(きょうど)の劉淵(りゅうえん)という人物が「漢」という国を建て、晋に攻め込んできました。
しかし、八王の乱で疲弊しきった晋には、もはや抵抗する力が残っていなかったのです。
そして311年、異民族の軍勢が首都・洛陽を陥落させます。
その結果、皇帝・司馬熾(しばし)は捕虜となり、のちに殺されました。
また、316年には次の皇帝・司馬鄴(しばぎょう)も長安で捕らえられ、同じく殺害されて西晋は完全に滅亡しました。
これは、統一からわずか36年であり、司馬炎の死からは26年しか経っていません。
百年にわたる戦乱を経て、無数の英雄たちの犠牲の上に築かれた統一王朝は、あまりにあっけなく崩壊してしまったのです。



百年にわたる戦乱を経て築いた統一が、わずか一世代で崩壊した事実は衝撃的ですね。司馬炎は天下を取ることには成功しましたが、治めることには失敗しました。これは、獲得と維持は全く別の能力が必要という教訓なんですね。
よくある質問(FAQ)
- 三国志で一番強かった国はどこ?
-
国力では魏が他国を圧倒していました。領土・人口・経済力の比率は魏6:呉2:蜀1程度とされていますよ。魏は中原の穀倉地帯を支配し、人口も最大だったのです。それでも統一できなかったのは、蜀の険しい地形と呉の長江という天然の要塞、そして諸葛亮や周瑜といった天才軍師の存在が大きかったためですね。
- 司馬懿は本当に悪者だったのか?
-
史実の司馬懿は有能な政治家・軍人で、必ずしも悪人ではありません。ただし、権力を握るためのクーデターや政敵の粛清など、冷徹な一面も持っていました。演義では諸葛亮を引き立てるために悪役的に描かれがちですが、正史では「忍耐強く慎重な戦略家」として評価されていますよ。
- もし諸葛亮が長生きしていたら蜀は勝てたのか?
-
残念ながら困難だったでしょう。蜀の国力は魏の6分の1程度で、人材も枯渇していました。諸葛亮自身も北伐を続けましたが大きな戦果は上げられず、むしろ蜀の国力を消耗させた面もあります。孔明の才能は確かに卓越していましたが、国力差という現実は天才一人では覆せなかったのが歴史の真実ですね。
- 晋の司馬炎はどんな皇帝だったのか?
-
統一までは有能でしたが、統一後は堕落しました。3000人もの後宮を持ち、酒色に溺れて政治を顧みなくなります。また愚かな息子・司馬衷を後継者にしたことや、諸王に強大な権力を与えた失策が後の八王の乱を招きました。「統一は達成できても、平和を維持できなかった皇帝」というのが歴史の評価ですね。
- 三国志の本当の結末を描いた作品はあるのか?
-
完全に描いた作品は少数ですね。ちなみに、中国の正史ドラマ『三国演義』(2010年版)はエンディングで統一まで触れていますよ。漫画では李學仁・王欣太『蒼天航路』が魏視点で晋の建国まで描写。近年は三国志後半に注目した作品も増えていますが、大半は依然として蜀滅亡か五丈原で終わっていますね。
まとめ
三国志の最終的な勝者は魏・呉・蜀ではなく、司馬一族が建てた「晋」でした。
蜀は263年、魏は265年、呉は280年にそれぞれ滅び、三国すべてが天下統一を果たせなかったのです。
司馬懿から始まる三世代の忍耐強い戦略が最終的に実を結びましたが、統一を成し遂げた晋もわずか36年で崩壊します。
百年の戦乱が第三者に漁夫の利を与え、その統一さえ短命に終わった歴史は、権力の儚さを物語っていますね。



三国志が現代まで愛される理由は、このむなしい結末にこそあるのかもしれませんね。英雄たちの熱い戦いも、天才の策略も、最後は権力の争奪戦に消えていく。その無常さが、勝敗を超えた人間ドラマとして私たちの心を打つんですね。
