歴史探偵女三国志の桃園の誓いの詳細が知りたい!



桃園の誓いって実際にあったのかな?
この記事では、こんな疑問にお答えしますね。
- 桃園の誓いとは?
- 史実と演義との違い
- 劉備、関羽、張飛の人物像
- 桃園の誓いの時代背景
- 誓いの言葉に込められた意味


- 歴史大好き女
- 今まで読んだ歴史書籍は日本史&世界史で200冊以上
- 日本史&中国史が得意
- 特に中国の春秋戦国時代や三国時代、日本の戦国時代が好き


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- 日本史&中国史が得意
- 特に中国の春秋戦国時代や三国時代、日本の戦国時代が好き
三国志といえば、まず思い浮かぶのが「桃園の誓い」ではないでしょうか?
劉備、関羽、張飛の三人が、桃の花咲く庭で義兄弟の契りを交わす感動的な場面ですよね。
しかし、実はこの名シーンには、多くの方が知らない秘密があるのです。
そこで、当記事では三国志の桃園の誓いについて、その真実に迫ります。
史実と創作の違い、誓いの言葉に込められた意味、そして三人の絆の深さまで、余すことなく解説しますね。
桃園の誓いとは?三国志を象徴する義兄弟の契り


桃園の誓いの基本情報
桃園の誓いは、『三国志演義』の序盤に登場する名場面ですね。
三国志の物語は西暦184年、後漢王朝末期から始まります。
当時、中国は黄巾の乱と呼ばれる大規模な農民反乱で混乱していました。


そんな中、幽州涿県(ゆうしゅうたくけん、現在の河北省涿州市)で、運命的な出会いが起こります。
義勇軍募集の高札を見ていた劉備の前に、関羽と張飛が現れたのです。
そこで、この三人は意気投合し、張飛の屋敷の裏庭で宴会を開きました。
そこは桃の花が満開に咲き誇る美しい場所だったんですね。
義兄弟の順位は以下のとおりです。
- 長兄:劉備(玄徳/げんとく)
- 次兄:関羽(雲長/うんちょう)
- 弟:張飛(翼徳/よくとく)
この契りは、年齢ではなく徳と志の高さで兄弟の順番が決まったと言われています。
誓いの内容と意味
ところで、この三人はどんな誓いを立てたのでしょうか。
そこで、『三国志演義』に記された誓いの言葉を見ていきましょう。
実は、この誓いには三つの重要な要素が含まれています。
まず、「心を同じくして助け合い」という部分です。
これは、単なる友情ではなく、命をかけた協力関係を意味します。
次に、「上は国家に報い、下は民を安んずる」という誓いです。
これは、個人的な出世や利益ではなく、公のために尽くすという崇高な理想が語られています。
そして最後に、「同年同月同日に死せん」という強い覚悟です。
これは、生死を共にするという、究極の絆を表現しています。
三国志における位置づけ
桃園の誓いは、三国志という壮大な物語の始まりを飾る象徴的な場面ですね。
そして、この誓いがあったからこそ、その後の三人の行動に一貫性と説得力が生まれました。
劉備が何度も敗北しながらも諦めなかった理由、関羽が曹操の元を去ってでも劉備の元へ戻った理由、張飛が常に劉備を守り続けた理由。
すべては、この桃園の誓いという原点があったからこそなのです。
また、この場面は「忠義」という三国志全体を貫くテーマを象徴していますね。



桃園の誓いは、三国志全体を貫く「義」の精神を象徴しています。この誓いがあったからこそ、三人の絆の深さが物語に説得力を与えているのですよ。
史実と演義の違い:桃園の誓いは本当にあったのか?
正史『三国志』には記載なし
実は、あまり知られていないかもしれませんが、驚くべき事実があります。
桃園の誓いは、正史『三国志』には一切記載されていないのです。
正史『三国志』は、西晋の歴史家・陳寿(ちんじゅ)が280年代に編纂した歴史書です。
魏・蜀・呉の三国の歴史を客観的に記録した、最も信頼できる史料とされています。
そして、その『三国志』の蜀志(しょくし)には、三人の関係について次のように記されています。
「劉備は関羽と張飛に兄弟のような恩情をかけた(恩若兄弟/おんじゃくけいてい)。関羽と張飛は常に劉備の左右に侍して護衛した」
つまり、正史では「兄弟のような深い絆」があったことは認めています。
しかし、桃園で義兄弟の契りを結んだという具体的な儀式の記録はないのです。
それでは、なぜ記載がないのか?その理由はいくつか考えられます。
まず、正史は公式な出来事を記録するものです。
そのため、私的な義兄弟の契りは、歴史書に記すべき公的事項ではなかったのかもしれませんね。
また、陳寿自身が蜀漢の出身でありながら、魏の視点から歴史を書く必要がありました。
なぜなら、当時はすでに西晋、つまり魏後の国家だったため、魏の視点で執筆することは仕方なかったのです。
そこで、あえて劉備側に有利な描写を避けた可能性もあります。
『三国志演義』での描写
では、桃園の誓いはどこから生まれたのでしょうか。
答えは、14世紀の明代に羅貫中(らかんちゅう)が著した小説『三国志演義』です。
この作品は、正史をベースにしながらも、民間伝承や作者の創作を加えた歴史小説なんです。
実は、『三国志演義』以前にも元代の『三国志平話(へいわ)』という作品に、三人が義兄弟の契りを結ぶ場面が登場します。
そこで羅貫中は、こうした民間伝承を参考にしたと考えられています。
そして、『三国志演義』では、桃園の誓いの場面が非常に美しく描写されています。
桃の花が咲き誇る春の庭、天地神明に誓う三人の姿、厳粛な儀式の雰囲気。
これらはすべて羅貫中の創作であり、だからこそ読者の心を強く打つことが出来たのです。
羅貫中は、史実にある「兄弟のような絆」という記述を、視覚的で感動的な物語に昇華させました。
この創作の手法こそが、『三国志演義』が1400年以上も愛され続ける理由なんです。
史実における三人の関係
では、史実での三人の関係はどうだったのでしょうか。
正史『三国志』からは、三人の信頼関係の深さが随所に窺えますよ。
そして、関羽と張飛は、劉備が曹操に降伏した際も離れず、劉備が新野(しんや)で独立した時も最初から付き従いました。
その後、関羽が呉に捕らえられて処刑された時、劉備は復讐のために大軍を動かしています。
これは君主と臣下の関係を超えた、特別な絆があった証拠ですね。
また、『三国志』には「劉備は趙雲と床をともにして寝た」という記述もあります。
これは、単なる同衾(どうきん)ではなく、命を預け合える信頼関係を示す表現でした。
つまり、後漢末期の武将たちにとって、義兄弟のような深い絆を結ぶことは、決して珍しいことではなかったのです。
なので、この桃園の誓いという儀式は創作です。
しかし、三人が命をかけて支え合ったという事実は、まぎれもない史実なのです。



桃園の誓いは創作ですが、史実でも三人の絆は特別でした。演義は史実の精神を美しく昇華させた物語といえ、だからこそ1700年経った今も人々の心を打つのですから。
桃園の三兄弟:劉備・関羽・張飛の人物像


桃園の誓いを結んだ三人は、どんな人物だったのでしょうか?
ここでは、それぞれの魅力を見ていきましょう。
長兄・劉備(玄徳):仁徳の君主
劉備は、前漢の皇帝・劉勝(りゅうしょう)の末裔です。
しかし、桃園の誓いの頃は、母親とわらじやむしろを売って生計を立てる貧しい青年でした。
当時、父親は劉備が幼い頃に亡くなっており、苦労の多い少年時代を過ごしています。
身長は七尺五寸(約173cm)、手が膝まで届き、耳が大きかったと『三国志』に記されています。
そして、劉備の最大の特徴は、その仁徳(じんとく)ですね。
この仁徳とは、人を思いやる心と徳のある行いを意味します。
劉備は、高貴な血筋でありながら、それを鼻にかけることなく、常に民衆の幸せを第一に考えました。
この人柄が、関羽や張飛だけでなく、諸葛亮をはじめとする多くの人材を引き寄せたのです。
また、劉備は生存中に何度も敗北を経験しました。
しかし、決して志を曲げることなく、最終的には蜀漢を建国したのです。


次兄・関羽(雲長):武勇と忠義の象徴
関羽は、河東郡解県(かとうぐんかいけん)の出身です。
若い頃、郷里で人をあやめて逃亡したという伝承があります。
そして、桃園の誓いの時点では、各地を転々としながら悪人を倒して生きる流浪の武人でした。
身長は九尺(約207cm)と非常に長身で、美しい髭を持っていたと記されています。
また、関羽の武勇は、三人の中で最も優れていました。
愛用の武器は青龍偃月刀(せいりゅうえんげつとう)という大刀です。
ただし、これは『三国志演義』での設定で、史実では別の武器を使っていた可能性が高いです。
それと、関羽は忠義に厚く、一度曹操の元に留まった際も、恩義に報いた後は必ず劉備の元へ戻りました。
この生き方が、後世の人々に深く感銘を与えているんですね。
最終的に、関羽は「関帝(かんてい)」として神格化され、商売の神様、武の神様として中国全土で信仰されるようになりました。
弟・張飛(翼徳):豪傑の典型
張飛は、涿郡(たくぐん)の富裕な商人の家に生まれました。
商売で財を成した家系だったため、劉備や関羽が義勇軍を立ち上げる際の資金を提供できたんですね。
そして、身長は八尺(約184cm)で、声が大きく、虎のような勢いがあったと記されています。
武器は蛇矛(じゃぼう)という、刃が蛇のように波打った槍です。
また、張飛の性格は、一言でいえば豪快で短気です。
酒が大好きで、飲むと粗暴になることもありました。
しかし、その裏には強い正義感と純粋さがあったんですよね。
『三国志演義』では粗暴な印象ですが、史実の張飛は文武両道で、書画にも優れていたという記録があります。
ちなみに、劉備との出会いも張飛から声をかけたとされ、人を見る目があったことが分かりますね。
その最期は、部下に斬られるという悲劇的な死を遂げましたが、その豪傑ぶりは今も語り継がれています。



三人は出自も性格も異なりますが、「民を救う」という共通の志で結ばれました。この多様性こそが、困難な時代を生き抜く力となったのです。
後漢末期の時代背景:なぜ義兄弟の契りが必要だったのか
三人が桃園の誓いを結んだ背景には、混乱した時代背景がありました。
黄巾の乱と社会の混乱
184年、中国全土を揺るがす大事件が起こります。黄巾の乱です。
黄巾の乱は、太平道という宗教結社を率いる張角が起こした農民反乱になります。
「蒼天已死、黄天當立(そうてんすでにしす、こうてんまさにたつべし)」というスローガンのもと、数十万人が蜂起しました。
それでは、なぜこんな大規模な反乱が起きたのでしょうか。
その原因は、後漢王朝の腐敗にあったのです。
当時、宦官(かんがん)と呼ばれる官僚たちが政治を私物化し、賄賂が横行していました。
そのため、重税に苦しむ民衆は、もはや朝廷を信用していなかったのです。
そこで、この混乱を鎮めるため、朝廷は各地で義勇軍を募集しました。
劉備たちが見た高札も、この募集のためのものだったんですね。
当時の社会状況のまとめ
- 宦官政治による腐敗
- 重税と天災による民衆の困窮
- 地方豪族の台頭
- 中央政府の権威失墜
こうした時代だからこそ、志を同じくする仲間との絆が何よりも重要だったのです。
義兄弟制度の意味
では、なぜ「義兄弟」という形式が選ばれたのでしょうか。
中国には古来、義兄弟(結義/けつぎ)という慣習がありました。
これは、血縁関係がない者同士が、儀式を通じて擬制的な兄弟関係を結ぶ制度ですね。
義兄弟の特徴は以下のとおりです。
- 血縁以上に強い絆で結ばれる
- 互いの命と財産を守り合う義務が生じる
- 裏切りは最大の罪とされる
- 年齢ではなく徳や能力で序列を決める
乱世では、血縁だけでは生き残れません。
能力と信頼で結ばれた仲間こそが、最強のチームになるのです。
そして、三国志には、他にも義兄弟の例があります。
孫策と周瑜は「断金の交わり」と呼ばれる深い絆で結ばれていました。
また、張遼と関羽も兄弟のような関係だったという記録がありますね。
このように、義兄弟の契りは特別ではありましたが、決して珍しいものではなかったのです。
ただし、桃園の誓いのように「同年同月同日に死せん」まで誓う例は稀でした。
これは、三人の覚悟が、いかに並外れていたかが分かりますよね。



血縁が頼れない乱世では、志を同じくする者同士の絆が何よりも重要でした。そのため、桃園の誓いは、混乱の時代を生き抜くための知恵でもあったのです。
誓いの言葉に込められた意味と精神


桃園の誓いの言葉を、もう一度深く見ていきましょう。
誓詞の詳細分析
誓いの言葉ですが、四つの部分に分けることができます。
これは、三人の協力体制と目的を明確にしています。
単なる仲良しグループではなく、困っている人々を救うという具体的な目標があるのです。
そして、ここに含まれる「救困扶危(きゅうこんふき)」という言葉は、儒教の重要な徳目になります。
弱者を助け、危機を救うことは、君子のあるべき姿とされていました。
この部分は、公的責任を誓っています。
「上」は国家や皇帝への忠誠を、「下」は民衆への奉仕を意味します。
後漢末期には、多くの群雄が私利私欲のために戦いました。
しかし、劉備たちは違い、国家の安定と民衆の幸福という、公の利益のために戦うと宣言したのです。
これは、血縁関係ではないことを認めています。
ただし、次の言葉で、それ以上の絆を宣言しているのです。
これが、桃園の誓いで最も有名な部分であり、生死を共にする覚悟を示したのです。
実際、関羽が220年に処刑された後、張飛も221年に斬られ、劉備も223年に病死していますね。
このように、わずか3年の間に、三人とも世を去ったのです。
もっとも、「同年同月同日」ではありませんでした。
ですが、ほぼ同時期に死を迎えたことは、誓いが何らかの形で成就したとも言えるでしょう。
「義」の精神
桃園の誓いの根底にあるのは、「義」の精神になります。
「義」とは、儒教における五つの徳目(仁・義・礼・智・信)の一つですね。
これは、利益や損得を超えた、正しい道を選ぶことを意味します。
そして、三国志の世界では、この「義」が最高の価値とされました。
曹操は、能力と実利を重視し、孫権は土地と家族を守ることを優先しました。
しかし、劉備は生涯において「義」を貫きました。
だからこそ、多くの人材が集まり、最終的には蜀漢を建国することが出来たのです。
そこで、桃園の誓いは、この「義」の精神を象徴する場面になります。
三人は利益のためではなく、正しいことのために結束したのです。
この精神こそが、三国志という物語を、単なる戦記以上のものにしていますよね。



誓いの言葉には、個人の利益より公の利益を優先する儒教精神が凝縮されていますね。この崇高な理想が、三国志を単なる戦記物語以上のものにしているのですよ。
現代に残る桃園の誓いの影響
桃園の誓いは、1800年の時を経て、今も人々を魅了し続けていますよ。
横山光輝『三国志』での描写
日本で三国志ブームを起こしたのが、横山光輝(よこやまみつてる)の漫画『三国志』です。
私もこの作品は全て読破しましたが、今からして思えば三国志演義を楽しく漫画化していますよ。
この作品は、1971年から1987年まで連載されており、全60巻という大作です。
そして、桃園の誓いの場面は、第1巻の冒頭を飾っています。
ちなみに、横山版の誓いの言葉は、原作とは少しアレンジされています。
「我ら天に誓う。我ら生まれた日は違えど、死すときは同じ日・同じ時を願わん」
この簡潔で力強い表現こそが、多くの日本人の心に刻まれました。
そのため、横山光輝の作品は、三国志を日本の大衆文化に根付かせる大きな役割を果たしたのです。
中国における桃園の誓い
中国では、桃園の誓いは文化的アイコンとして定着していますよ。
河北省涿州市には、「三義宮(さんぎきゅう)」という廟があります。
これは、三人が義兄弟の契りを結んだとされる場所に建てられた記念施設です。
また、「三義広場」という記念館もあり、多くの観光客が訪れます。
さらに、関羽を祀る関帝廟(かんていびょう)は、中国全土に存在しているのです。
その数は数万とも言われ、関羽への信仰の深さが分かりますよね。
このように、桃園の誓いは、友情や忠義の象徴として、現代中国でも重要な意味を持っているのです。
ビジネスの世界でも、信頼できるパートナーとの関係を「結義」と呼ぶことがありますよ。



桃園の誓いは創作でありながら、日中両国で文化的アイコンとなりました。友情や忠義という普遍的テーマが、時代と国境を超えて共感を呼んでいるのです。
まとめ
桃園の誓いは、史実ではなく『三国志演義』による創作でした。
しかし、その根底には確かな史実があります。
そして、劉備、関羽、張飛の三人が、兄弟のような深い絆で結ばれていたことは事実です。
その絆は、個人的な利益を超えた崇高な理想に支えられていました。
また、「国家に報い、民を安んずる」という誓いの言葉は、今も私たちに大切なことを教えてくれますよね?
それは、真の友情とは何か、志を同じくするとはどういうことか、という問いです。
劉備、関羽、張飛の三人は決して完璧な人間ではありませんでした。
劉備は何度も敗北し、関羽は慢心から命を落とし、張飛は短気が災いして斬られました。
しかし、その人間臭さこそが、私たちに勇気を与えてくれています。
人間、完璧でなくても、志さえあれば人は偉大なことを成し遂げられる。
桃園の誓いは、そんなメッセージを1800年の時を超えて伝え続けているんですね。



三国において桃園の誓いは創作です。しかし、現在では日中においてとても重要な出来事として語り継がれているのです。
