歴史探偵女黄蓋ってちょっと聞いたことあるけどどんな人物なの?



黄蓋って具体的に何をした人なの?
この記事では、こんな疑問にお答えしますね。
- 黄蓋の詳細な生涯と三代に仕えた経歴
- 赤壁の戦いでの「苦肉の策」の真実
- 火攻めを成功させた具体的な作戦内容
- 統治者として9つの県を平定した実績
- 500人で反乱軍を鎮圧した戦術
- 正史と演義での黄蓋の描写の違い
- 韓当に救われた九死に一生のエピソード


- 歴史大好き女
- 今まで読んだ歴史書籍は日本史&世界史で200冊以上
- 日本史&中国史が得意
- 特に中国の春秋戦国時代や三国時代、日本の戦国時代が好き


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三国志の中でも、赤壁の戦いは最も有名な戦いの一つであり、あなたも知っていると思います。
その勝利の立役者が、今回ご紹介する黄蓋(こうがい)なんです。
彼は火攻めを進言し、自らを犠牲にして曹操を欺いた智将として知られていますよ。
しかし、黄蓋の魅力は赤壁での活躍だけではないんです。
黄蓋は、孫堅、孫策、孫権の三代に仕え、武勇と統治能力を兼ね備えた多才な人物でした。
そこで、この記事では、黄蓋の生涯と功績について詳しく解説していきますね。
黄蓋の生涯年表


まずは黄蓋の人生を時系列で一緒に確認してみましょう。
彼がどのような道を歩んできたのか、一目で分かると思いますよ。
| 時期 | 年齢 | 出来事 |
|---|---|---|
| 幼少期 | 不明 | 父を失い貧困の中で育つ。薪取りの合間に兵法を学ぶ |
| 青年期 | 不明 | 郡の役人から孝廉に推挙され、三公から招聘される |
| 190年頃 | 不明 | 孫堅の挙兵に従い、別部司馬に任命される |
| 192年 | 不明 | 孫堅戦死後、孫策に仕える。側近の一人となる |
| 200年 | 不明 | 孫策死後、孫権に仕える。呉の宿将として活躍 |
| 200年代前半 | 不明 | 9つの県令を歴任し、各地の反乱を鎮圧 |
| 208年 | 不明 | 赤壁の戦いで火攻めを進言し、大功を立てる |
| 208年以降 | 不明 | 武陵太守として武陵蛮の反乱を鎮圧。偏将軍に昇進 |
| 215年頃 | 不明 | 病により在官のまま死去(推定) |
このように、黄蓋は貧しい環境から身を起こし、三代にわたって孫家に仕えた忠臣でした。
特筆すべきは、武将としてだけでなく統治者としても優れた実績を残した点でなんです。



この一覧表からも分かる通り、黄蓋の生涯は、一代で成り上がった立志伝と言えますよね?貧困から這い上がり、孫呉の重臣として活躍した彼の人生は、たゆまぬ努力と持って生まれた才能が実を結んだ結果なんです。
苦労から這い上がった黄蓋の前半生
黄蓋の人生は、決して順風満帆ではありませんでした。
むしろ、逆境の中から這い上がった、努力の人生だったのです。
貧困の中で学び続けた青年時代
黄蓋は、字(あざな)を公覆(こうふく)といい、荊州(けいしゅう)の零陵郡(れいりょうぐん)泉陵県の出身です。
祖先は、南陽太守(なんようたいしゅ)という高い地位についた黄子廉(こうしれん)という人物で、実は、なかなかの名門になりますね。
しかし、黄蓋の祖父の代に零陵へ移住してから、その家運は傾いていきます。
さらに、黄蓋は幼い頃に父を失っており、これにより貧困の中で育つことになりました。
それでも、黄蓋は大きな志を持ち続け、日常生活を送っていました。
薪取りの合間には、上表文(じょうひょうぶん)の書き方を学び、兵法の研究に励んだのです。
そして、この努力こそが、後の黄蓋の成功につながっていきますよ。
その後、黄蓋は郡の役人になり、孝廉(こうれん)という優秀な人材として推挙されました。
その才能は朝廷にも認められ、三公(さんこう)という大臣の役所から招聘を受けるほどの存在になったのです。
これこそ、黄蓋が努力を惜しまず勉学や兵法を学んだ結果と言えますね。
孫堅・孫策・孫権の三代に仕える
黄蓋の人生において、転機が訪れたのは、孫堅(そんけん)が長沙で義兵を挙げた時でした。
黄蓋は、この挙兵に従い、新たに孫堅の配下として新たな人生を歩み始めます。


そして、孫堅が南方で山越(さんえつ)という異民族を討ち、北では董卓(とうたく)を敗走させると、黄蓋の功績も認められました。
その結果、別部司馬(べつぶしば)という別動隊長の官位を授かったのです。
その後、192年に孫堅が劉表(りゅうひょう)との戦いで戦死すると、黄蓋は孫策(そんさく)に仕えます。
『三国志』の記録によると、孫策が少人数で行動中に太史慈(たいしじ)と遭遇した際、付き従っていた者の中に黄蓋の名前が見られます。
このことから、黄蓋は孫策の側近の一人になっていたことが分かりますね。
つまり、孫策の江東制覇に従い、黄蓋はその武勇を発揮していったのです。
しかし、200年に孫策が暗殺者に襲われて早世すると、黄蓋は弟の孫権(そんけん)に仕えました。
ここから黄蓋は、呉の宿将として若き主君の孫権をを支えていくことになります。
武将として、統治者として
黄蓋は、自ら甲冑(かっちゅう)をつけて最前線に立つ武将でした。
刀剣を振るって敵と斬り合い、各地を転戦して城を攻略していったのです。
さらに、黄蓋には兵士を引きつける魅力がありました。
風貌には威厳があり、部下を思いやって優しく接したため、兵士たちは命をかけて戦ったと記録されていますよ。
その一方で、黄蓋は統治者としても優れた能力を持っていたようですね。
山越が服従しなかったり、群盗(ぐんとう)が荒らし回っているような問題の多い地域があると、いつも黄蓋がその県令(けんれい:長官)として派遣されたのです。
このように、黄蓋は武と文の両方に秀でた、まさに多才な人物だったと言えますね。



貧困から宿将へと成り上がった黄蓋の人生は、不屈の努力とあらかじめ持ち合わせていた多才さを物語っていますよね。彼の成功は、自分の置かれた環境に負けず学び続けた結果と言えるでしょう。
赤壁の戦いと「苦肉の策」の真実
黄蓋の名を後世に残したのが、208年の赤壁の戦いです。
ここで彼は、その智謀を発揮し孫権・劉備連合軍の勝利に大きく貢献しました。


火攻めを進言した黄蓋の智謀
建安12年(208年)、曹操(そうそう)が大軍を率いて江南に進軍して、赤壁の戦いが始まります。
この時、黄蓋は周瑜(しゅうゆ)の指揮下で従軍しましたが、曹操軍の数は圧倒的でした。
数十万とも言われる大軍を前に、呉軍はわずか数万だったのです。
しかし、黄蓋は艦船が密集しすぎて動きが取れなくなっているという、曹操軍の致命的な弱点を見抜きます。
そして、黄蓋はここぞとばかり周瑜に火攻めを進言します。
「艦船を焼き討ちすれば、曹操軍に大打撃を与えられる」と提案し、周瑜はこの策を採用しました。
ただし、火攻めを成功させるには一つ問題がありました。
それは、どうやって火をつけた船を、曹操軍の船団に近づけるかです。
そこで、黄蓋は自身が曹操軍に対して、偽りの投降をするという奇策を考え出します。
周瑜と演じた「苦肉の策」の詳細
『三国志演義』では、黄蓋と周瑜の間で事前に綿密な計画が練られたとされています。
それが、かの有名な「苦肉の策(くにくのさく)」です。
そして、演義では、黄蓋がまず諸将の前で周瑜の作戦を批判しました。
「このままでは曹操に勝てない。降伏すべきだ」と主張したのです。
すると、この発言に激怒した周瑜は、黄蓋を棒で打ち据えました。
その結果、血だらけになるまで打たれた黄蓋は、周瑜への不満を募らせているように見えたのです。
この様子を、曹操が送り込んだ間者(かんじゃ:スパイ)が見ていました。
蔣幹(しょうかん)という人物であり、彼は曹操に、「黄蓋が周瑜と不和になっている」と報告しました。
次に黄蓋は、闞沢(かんたく)という使者を通じて、曹操に偽りの書簡を送ります。
それは、「周瑜に不満があるので、先鋒として裏切りたい」という内容でした。
そこで、この間者の報告もあり、疑り深い曹操も黄蓋の投降を信じてしまいました。
自らを傷つけることで敵を欺く、この行為が「苦肉の策」の語源となったんですね。
ただし、注意すべきは、正史には黄蓋が周瑜に打たれた記述はありません。
正史では「偽りの投降を用いた」とのみ記されており、棒打ちは演義の創作と考えられていますよ。


流れ矢に倒れ、韓当に救われる
偽りの投降を行うべく準備が整うと、黄蓋は火攻めを実行しました。
枯草や薪、油を積んだ船を率いて、投降を装って曹操軍に近づいていったのです。
そして、曹操軍が油断したところで、黄蓋は船に火を放ちました。
火をつけた船は風に乗って曹操軍の船団に突入し、次々と艦船を焼き払っていきます。
この時、曹操軍の船は、龐統(ほうとう)の「連環の計(れんかんのけい)」によって鎖でつながれていたため、逃げることができませんでした。
その結果、船団には瞬く間に炎が広がり、岸辺の軍営まで焼き払われたのです。
このように、火攻めは大成功でしたが、黄蓋自身も無事ではありませんでした。
戦闘の最中、黄蓋は流れ矢に当たって長江(ちょうこう)に落ちてしまったのです。
もっとも、この時呉軍の兵士が黄蓋を救い上げましたが、誰だか分かりませんでした。
そのため、負傷したまま厠(かわや:トイレ)に放置されてしまい、このままでは命を落としていたかもしれません。
しかし、同僚の韓当(かんとう)が偶然通りかかり、黄蓋だと気づいて手当てをさせました。
そこで、この功績により、黄蓋は武鋒中郎将(ぶほうちゅうろうしょう)という官位を授かりました。



このように、黄蓋の智謀と犠牲的な精神が、結果として赤壁の戦いでの大勝利をもたらしました。この時、彼がいなければ、呉は曹操に降伏していたかもしれないのです。これは、まさに黄蓋が歴史を変えたと言っても過言ではありませんよ。
統治者としての黄蓋の実績


赤壁の戦い以降、黄蓋は統治者としての才能を発揮していきます。
彼は、武将としてだけでなく、行政官としてもかなり優れた人物だったのです。
不正役人を粛正した石城県での功績
黄蓋が統治した地域の一つに、石城県(せきじょうけん)がありました。
ここは、役人たちの綱紀(こうき)が乱れきっており、不正が横行して手がつけられない状態でした。
そこで、黄蓋はまず、不正を働いている役人たちの中から二人の掾(えん:属官)を任命し、それぞれに複数の部署を統括させました。
そして、彼らに対して次のような布告を出します。
「私は不徳にして、武功によって役目を果たしてきたが、文官として評価されたことはない。まだ反乱が平定されていないので、軍務から手を離せない。だから文書の処理はすべてこの二人の属官に任せる」と。
さらに黄蓋は続けます。「彼らに各部署を監察させ、過ちの糾弾や摘発を担当させる。彼らの所管で不正が見つかったら、鞭打ちではすまさない。おのおの心をつくし、見せしめとして刑罰を受けないようにせよ」
これによって、初めのうちは、二人の属官は黄蓋を恐れて職務に励んでいました。
しかし、ある程度時間が経つと、また元のように不正を働くようになったのです。
黄蓋が、文書に目を通さないのをいいことに、勝手に情実を働かせ、不公正な決済をするようになりました。
しかし、すでに黄蓋はそれに気づいており、密かに調査をさせて証拠をつかんでいました。
そして、それを隠して役人たちを全員、酒宴に招いて油断させたのです。
そこで、黄蓋はその宴席で二人の属官に証拠を突きつけ、問いつめました。
この問いに対して、属官たちは言い訳もできず、叩頭(こうとう)して謝罪します。
すると、黄蓋はこの二人に対して冷静に告げたのです。
「先に鞭打ちではすまないと言っておいたな。だから処刑をしても、おまえたちを欺いたことにはならない」
こうして、二人は処刑されました。
この様子を見ていた県の役人たちは震え上がり、黄蓋の目はごまかせないのだと悟ります。
そのため、以後は全く不正を働かなくなったのです。
500人で反乱軍を鎮圧した武陵太守時代
赤壁の戦いの後、武陵郡(ぶりょうぐん)で武陵蛮(ぶりょうばん)という異民族が反乱を起こし、城を攻め落として立て籠もったのです。
そこで、黄蓋が武陵太守(ぶりょうたいしゅ)に任命され、鎮圧の任にあたることになりました。
しかし、郡の兵士はわずか500人程度しかいなかったのです。
そのため、反乱軍と正面から戦うのは不可能であり、黄蓋は策を用いました。
その策とは、城門を開け放ち、反乱者たちを誘い込んだのです。
そして、反乱者たちの半分が城内に入ったところで、黄蓋は一斉に攻撃をかけました。
この予想外の攻撃に対して反乱者たちは混乱し、数百人の首を斬られて撃退されたのです。
また、残りの者たちは逃亡し、すべて元の部落に戻りました。
黄蓋は首謀者だけを処罰し、つき従っていた者たちの罪は問いませんでした。
さらに、これまで益州(えきしゅう)に服していた巴(は)・醴(れい)・由(ゆう)・誕(たん)の部族も、黄蓋に誼(よしみ)を通じてくるようになりました。
その結果、この功績により、黄蓋は偏将軍(へんしょうぐん)に昇進しています。
9つの県を平定した行政手腕
黄蓋は生涯で、石城県、春穀県(しゅんこくけん)、尋陽県(じんようけん)など、9つの県令を歴任しました。
どの地域も統治が困難な場所ばかりでしたが、黄蓋はすべて平定したのです。
そして、黄蓋の統治の特徴ですが、法令に厳格でありながらも、強きを抑えて弱きを助けることでした。
豪族たちの横暴を許さず、弱者を守ったため、山越のような異民族までもが黄蓋を慕って従うようになったのです。
また、黄蓋は決断力があり、事務を滞らせることがありませんでした。
この素早い対応が、人々の信頼を得た理由の一つなんですね。
こうした功績により、黄蓋は丹陽郡(たんようぐん)の都尉(とい:広域の統治者)にまで昇進しました。
この結果、人々は平穏に暮らすことができるようになり、黄蓋の統治を高く評価したのです。



武将でありながら優れた統治者でもあった黄蓋の多才さは驚くきますよね?
力だけでなく知恵と慈悲を兼ね備えた彼の統治は、今日のリーダーシップにも通じる教訓を含んでいます。
演義と正史での黄蓋の違い
黄蓋について語る際、小説『三国志演義』と正史『三国志』の違いを理解することが重要ですよ。
この両者では、黄蓋の描写に大きな違いがありますから。
正史での黄蓋の実像
正史『三国志』の呉書に記された黄蓋は、知勇兼備の名将として描かれており、最大の功績は赤壁の戦いですね。
正史によると、火攻めを進言したのは黄蓋自身でした。
曹操軍の艦船が密集している状況を見抜き、焼き討ちを提案したのです。
そして、偽りの投降を用いて、見事に火攻めを成功させました。
ただし、周瑜に打たれたという記述は正史にはありません。
ちなみに、火攻めの際に流れ矢に当たって長江に落ち、韓当に救われたという記録は正史にあります。
また正史では、統治者としての黄蓋の実績が詳しく記されています。
9つの県を歴任し、どの地も平定したこと、500人で反乱を鎮圧したことなどが記録されているのです。
しかし、その後黄蓋は病に伏せり、そのまま在官のまま病没しました。
孫瑜(そんゆ)が亡くなった215年頃には、黄蓋も既に死去していたと推定されます。
その後、孫権は黄蓋の決断力と功績を評価し、息子に関内侯(かんないこう)という爵位を授けました。
『呉書』によると、肖像画を描いて季節ごとに祭をした人々もいたそうですよ。
演義で描かれた黄蓋の活躍
『三国志演義』では、黄蓋は脚色されてより劇的な人物として描かれていますよ。
演義では、黄蓋は孫堅時代から登場する古参の武将です。
程普(ていふ)、韓当、祖茂(そも)と共に、孫堅軍の猛将の一人とされています。
孫堅が、伝国の玉璽(ぎょくじ)をめぐって袁紹と対立すると、黄蓋は程普、韓当と共に袁紹軍の顔良(がんりょう)、文醜(ぶんしゅう)と対峙します。
そして、孫堅が劉表との戦いで戦死すると、黄蓋は孫策を守って戦い、黄祖(こうそ)を生け捕って孫堅の遺体との交換材料にしたのです。
また、赤壁の戦いでは、張昭(ちょうしょう)ら降伏派の文官が諸葛亮をやり込めようとしている場に現れます。
そこで、文官らを一喝して諸葛亮を孫権の元に招くという印象的なシーンもありますね。
鉄鞭を使う武将としての設定
演義では、黄蓋の愛用武器は「鉄鞭(てつべん)」とされていますね。
これは、鉄製の多節鞭のことで、黄蓋はこれを自在に操る武将として描かれました。
しかし、正史には武器についての記載がありません。
正史では、「自ら甲冑をつけて刀剣を振るった」という記述があるだけなんです。
つまり、鉄鞭は演義の創作と考えられており、実際には一般的な武器を使用していたのでしょう。
ちなみに、この設定は、後のゲームや漫画などの創作作品にも受け継がれ、黄蓋のトレードマークとなりました。
「三国志無双」シリーズでは、鉄鞭を使った派手なアクションが人気ですよ。



黄蓋は、演義での姿がとても印象的ですが、正史の功績も十分に偉大なんです。むしろ、正史の黄蓋の方が、武と文を兼ね備えた人物として魅力的かも知れませんね。このように、史実と創作の違いを理解することで、黄蓋の真の姿が見えてきますよ。
よくある質問(FAQ)
- 黄蓋の最大の功績は何ですか?
-
赤壁の戦いでの火攻めの進言とその実行ですね。曹操の大軍を前に、艦船が密集している状況を見抜き火攻めを提案しました。そして、偽りの投降で曹操を欺き、火船を突入させて勝利を決定づけました。また、統治者として9つの県を平定し、武陵での反乱鎮圧など軍事・行政両面で卓越した功績も残っていますよ。
- 「苦肉の策」とは具体的にどんな作戦でしたか?
-
演義では、黄蓋が周瑜と事前に相談し、わざと周瑜の作戦を批判しました。怒った周瑜は黄蓋を棒で打ち据え、血だらけにします。そして、この様子を見た曹操の間者が報告し、曹操は黄蓋が本当に不満を持っていると信じ込んだのです。このように、自らを傷つけて敵を欺く行為が「苦肉の策」の語源なんです。
- 黄蓋は赤壁の戦いで死んだのですか?
-
いいえ、死んでいません。火攻めの際に流れ矢に当たって長江に落ち、救い上げられましたが黄蓋と分からず厠に放置されました。しかし、同僚の韓当が見つけて手当てさせ、九死に一生を得ました。その後は、武陵太守として反乱鎮圧に従事し、215年頃に病没したと推定されていますね。
- 黄蓋はどのような性格の人物でしたか?
-
風貌に威厳がありながら、兵士を思いやる優しさを持つ人物でした。配下の兵士たちが命をかけて戦ったのは黄蓋の人望の証ですね。また、決断力があり不正には厳しく対処する公正さも備えていました。武陵では首謀者のみを処罰し従った者は許すなど、力と慈悲のバランスが取れた良き指導者でした。
まとめ
黄蓋は孫堅、孫策、孫権の三代に仕えた呉の宿将ですね。
貧困の中から努力で身を起こし、武将として、また統治者として活躍しました。
そして、赤壁の戦いでは火攻めを進言し、偽りの投降で曹操を欺いて勝利に導いたのです。
流れ矢に当たって九死に一生を得るという劇的なエピソードも残していますよ。
その後も、武陵太守として反乱を鎮圧し、9つの県を平定するなど、生涯にわたって功績を積み重ねました。



黄蓋の生涯は、知勇兼備の名将の姿を示していますよ。武勇だけでなく智謀と統治能力を兼ね備え、さらに部下への思いやりも忘れない。もはや三拍子どころか四拍子揃っていますよね?彼のような多面的な能力を持つ人材こそ、組織にとって真に価値ある存在と言えますね。
