歴史探偵女三国志とキングダムはどっちが先なの?



三国志とキングダムはそれぞれどんな時代?
この記事では、こんな疑問にお答えしますね。
- キングダムの方が三国志より約400年昔の物語である
- 二つの「魏」は名前が同じだけの全く別の国である
- 当時の日本はまだ稲作が広まる弥生時代だった
- 戦い方が「戦車」から「騎馬」へ劇的に進化した
- 信と三国志の武将には意外な血縁の繋がりがある


- 歴史大好き女
- 今まで読んだ歴史書籍は日本史&世界史で200冊以上
- 日本史&中国史が得意
- 特に中国の春秋戦国時代や三国時代、日本の戦国時代が好き


- 歴史大好き女
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- 日本史&中国史が得意
- 特に中国の春秋戦国時代や三国時代、日本の戦国時代が好き
漫画やアニメ、実写映画と大人気の『キングダム』と『三国志』ですが、ふと「歴史的にはどっちが先の時代の話なんだろう?」と疑問に思うことってありますよね?
同じ「魏」という国が出てきたり、どちらも中華統一を目指していたりと、似たようなキーワードが飛び交うので、頭の中でごちゃ混ぜになってしまうのも無理はありません。
そして、実はこの二つの作品の間には、私たちが想像する以上に長い、約400年もの巨大な空白期間が存在するのです。
そこで、今回は歴史初心者の方でもスッキリ分かるように、二つの時代の順序や、意外な歴史的繋がり、そしてその頃の日本がどうなっていたのかについて、私の知見を交えてじっくりと紐解いていきたいと思います。
三国志とキングダムはどっちが先?その時代と年表の違い


まずは、結論からズバリ言ってしまうと、キングダムの時代の方が三国志よりもずっと「先(昔)」の出来事なんです。
二つの物語の間には決定的な時間の壁がありますが、その流れを知ることで、大河ドラマのような壮大な歴史の繋がりを楽しめるようになりますよ。
キングダムと三国志の時代背景
この二つの名作は、中国史における「統一」と「分裂」という、まるで呼吸のようなサイクルの両極端を描いています。
まず、『キングダム』の舞台は紀元前3世紀の「春秋戦国時代」の末期なんです。
500年以上も諸国が争い続けた血なまぐさい戦乱の世を、若き秦王・嬴政(後の始皇帝)と主人公の信が、「法」という新しいルールで初めて一つにまとめ上げようとする。
これは、いわば「建設と上昇」のエネルギーに満ちた物語となっています。


その一方で『三国志』の舞台は、それから約400年以上が経過した紀元後2世紀末の「後漢末期から三国時代」ですね。
キングダムの時代に始皇帝が作り上げ、その後漢王朝が継承した「統一帝国」というシステムが、長い年月を経て制度疲労を起こし、腐敗してボロボロになり、再びバラバラに「分裂」していく滅びと混乱の時代になります。
つまり、「キングダムで苦労して作った国が、長い時を経て壊れていくのが三国志」と捉えると、歴史の大きな流れが非常に分かりやすくなると思います。


ちなみに、『三国志演義』の冒頭には「天下の大勢は、分かれて久しければ必ず合し、合して久しければ必ず分かれる」という言葉があります。
これは、キングダムは「分→合」、三国志は「合→分」の時代を描いているんですね。
歴史年表で見る約400年の差
「400年」や「500年」と言われても、ちょっとピンとこないかもしれません。
そこで、歴史の全体像を掴むために、両作品の間にどのような出来事があったのかを年表形式で整理してみました。
この空白の期間に存在した「ある巨大な王朝」こそが、二つの時代を繋ぐ鍵となります。
| 時代区分 | 年代(約) | 関連作品・歴史的意義 |
|---|---|---|
| 戦国時代 | 前403年 – 前221年 | 『キングダム』の舞台 戦国七雄(秦・斉・楚・燕・趙・魏・韓)が覇権を争う。 信や王騎、李牧らが活躍し、秦が中華統一を目指す。 |
| 秦王朝 | 前221年 – 前206年 | 史上初の統一帝国 始皇帝による急進的な統治。万里の長城建設。 しかし、始皇帝の死後すぐに崩壊する。 |
| 楚漢戦争 | 前206年 – 前202年 | 項羽と劉邦の戦い 秦の滅亡後、覇王・項羽と漢王・劉邦が激突。 この戦いを制した劉邦が漢王朝を開く。 |
| 漢王朝 (前漢・後漢) | 前202年 – 220年 | 約400年の平和と繁栄(ミッシングリンク) 現在の中国文化の基礎(漢字・儒教など)が完成。 「漢字」や「漢民族」の由来となる黄金時代。 |
| 三国時代 | 220年 – 280年 | 『三国志』の舞台 漢王朝の権威が失墜し、群雄が割拠。 魏(曹操)・呉(孫権)・蜀(劉備)による鼎立。 |
このように、キングダムのラストから三国志のスタートまでには、「漢王朝」という巨大な時代が挟まっています。
そして、三国志の英雄たちが「守ろうとした」あるいは「取って代わろうとした」のが、この漢王朝という遺産なのです。
始皇帝と劉備の生きた時代


具体的なキャラクターの視点で、時間の距離感を測ってみましょう。
まず、『キングダム』の中心人物である嬴政(後の始皇帝)は、紀元前259年の生まれです。
彼は、古代中国の神話的な時代から、実力主義の帝国へと移り変わる激動の時代の象徴になります。
これに対して、『三国志』の主人公格である劉備(りゅうび)は、西暦161年の生まれです。
劉備は、自分のことを「中山靖王(ちゅうざんせいおう)の末裔」と名乗りますが、これは「始皇帝の次の時代にできた漢王朝の、さらに昔の皇帝の末っ子の子孫」という意味になります。
つまり、劉備や曹操たちにとって、始皇帝や信の活躍は、今の私たちが「関ヶ原の戦い」や「織田信長」を歴史の教科書で読むのと同じくらい、はるか昔の歴史上の伝説として認識されているのです。
そして、彼らは「昔の人は凄かったらしい」という感覚で、キングダムの時代を語っていたことでしょう。


二つの物語は何年の差がある?
具体的に数字で計算してみると、その差の大きさに驚かされます。
キングダムのクライマックスである「秦の中華統一」が紀元前221年。
そして、三国志の物語の幕開けとされる「黄巾の乱」が西暦184年であり、この間を足し合わせると、約400年の開きがあります。
さらに、物語の主要な期間を含めて考えると、ざっくり400年から500年の差があると覚えておけば間違いありませんね。
この400年~500年という時間は、文明を大きく変えるのに十分な長さです。
ちなみに、日本で言えば、戦国時代の織田信長(16世紀)と現代の私たち(21世紀)の差に匹敵しますよ。
それだけの時間が経てば、人々の服装、話し言葉、考え方、そして戦争の道具まで、すべてが別物に変わってしまうのは当然のことなんですよね。
また、漫画などのビジュアルでは似たような鎧を着ているように見えますが、実際には金属加工技術や衣服の素材など、細かい部分で文明レベルが大きく異なっています。
キングダムの時代の日本は?
では、中国大陸でこれほどのドラマが繰り広げられていた頃、私たちの住む日本はどうなっていたのでしょうか?
『キングダム』の時代(紀元前3世紀頃)、日本はまだ「弥生時代」の初期でした。
縄文時代が終わり、大陸からようやく稲作や金属器が伝わり始めたばかりの頃で、国としてのまとまりはまだありません。
その一方、『三国志』の時代(3世紀)になると、日本には有名な「邪馬台国」が登場します。
女王・卑弥呼が、魏(曹操が基盤を作り、息子の曹丕が建てた国)に使者を送り、「親魏倭王(しんぎわおう)」という金印を授かったのは有名な話ですよね。
つまり、卑弥呼は三国志の時代の人物であり、キングダムの時代にはまだ「日本(倭)」という名前すら歴史の表舞台には出てきていなかったのです。
ちなみに、この金印(漢委奴国王の金印とはまた別のものです)のエピソードからも分かるように、三国志の時代には日本と中国の外交ルートがある程度確立されていました。
また、日本で見つかった有名な国宝「漢委奴国王」の金印は、三国志より少し前、後漢の初期(紀元57年)に光武帝から贈られたものです。
そして、これはキングダムと三国志の間の時代にあたります。(出典:福岡市博物館『金印』)





キングダムの統一から約400年、漢王朝を経て崩壊へ向かうのが三国志です。信の時代は神話に近く、日本もまだ弥生時代でした。そして、この「建設から破壊へ」という歴史のサイクルを理解すると、二つの物語がより壮大な一つの大河ドラマとして見えてきますね。
三国志とキングダムはどっちが先か迷う共通点と違い


時代が違うことは分かりましたが、それでもなぜか混同してしまう要素がたくさんありますよね。
「魏」という国名や、一騎当千の武将たちのイメージ。
そこで、ここからは、多くの人が勘違いしやすいポイントや、知っておくと物語がもっと面白くなる意外な共通点について、徹底的に深掘りしていきます。
魏は同じ国?地図での領域差
「三国志 キングダム どっちが先」と検索する方が最も混乱するのが、この「魏(ぎ)」という国名の重複だと思います。
どちらの作品にも強国として登場しますが、実はこれ、名前が同じだけの全く別の国なんです。
まず、『キングダム』に登場する魏は、戦国七雄の一つであり、かつての大国「晋」が韓・魏・趙の三つに分裂してできた国(戦国魏)です。
その場所は、中華の中央部、現在の河南省あたりに位置し、秦の東進を阻む壁のような役割を果たしていました。
その一方、『三国志』に登場する魏(曹魏)は、後漢の丞相であった曹操が基盤を築き、息子の曹丕が後漢から禅譲を受けて建国した巨大帝国です。
その領域は、かつての秦、趙、燕、斉、韓、魏の領土をほぼすべて飲み込んだ、中華の北半分全域に及びます。
つまり、三国志の魏の方が圧倒的に巨大なのです。
| 項目 | キングダムの魏(戦国魏) | 三国志の魏(曹魏) |
|---|---|---|
| 成立の経緯 | 大国「晋」の分裂により成立 | 漢王朝の禅譲により成立 |
| 支配領域 | 中原の中央部(四戦の地) | 華北全域(中華の過半数) |
| 主な敵対国 | 秦、斉、楚、趙など | 蜀(劉備)、呉(孫権) |
| 代表的人物 | 呉慶、廉頗(亡命後) | 曹操、曹丕、司馬懿 |
キングダムと三国志の意外な繋がり
実は、キングダムの主人公・信(李信)の血筋は、三国志の時代にも大きな影響を与えているという説があるのをご存じでしょうか。
これは、歴史ファンの間では胸が熱くなるトピックの一つですよね。
そして、歴史書の『史記』李将軍列伝によると、前漢の時代(キングダムと三国志の間)に活躍し、匈奴との戦いで勇名を馳せた悲劇の名将・「李広(りこう)」という人物がいます。
そこで、実はこの彼が李信の子孫であると明記されているのです。
また、この李広は、そのあまりの強さと弓の腕前から「飛将軍」という異名で恐れられました。
ちなみに、この「飛将」という呼び名は、後に三国志最強の武将・呂布(りょふ)が「飛将」と称えられる由来(飛将軍・李広に喩えられた)にもなっているのです。
もちろん、数百年ごしの系図なので歴史的な真偽には議論があります。
しかし、キングダムの信の熱い魂と武の遺伝子が、時を超えて三国志の武人たちの評価基準になっていると考えると、二つの作品が一本の線で繋がって見えてきませんか?
戦い方は馬か戦車かの違い


戦闘シーンの描写にも、約400年の技術進歩がはっきりと表れていますね。
ここを注目すると、アニメや漫画の解像度がグッと上がりますよ。
『キングダム』の時代、戦場の主役はまだ「戦車(馬に引かせる車)」でした。
中華の国々の軍事力は「千乗の国」「万乗の君」といった具合に、保有する戦車の数で表されていました。
ちなみに、当時はまだ馬に乗るための「鐙(あぶみ)」などの馬具が未発達だったんです。
そのため、兵士が馬上で踏ん張ることが難しく、騎兵は偵察や奇襲などの補助的な役割しか持てませんでした。
しかし、『三国志』の時代になると技術革新が起き、戦車は廃れ、代わりに「騎兵」が最強の兵科として君臨します。
曹操軍の精鋭部隊「虎豹騎(こひょうき)」のように、馬にまたがって集団で突撃し、自在に戦うスタイルが確立されたのです。
また、キングダムの作中で李牧などが高度な騎馬戦術を使い始める描写があります。
あれはまさに、戦車から騎兵へと時代が変わる「軍事革命の過渡期」を先取りして描いていると言えるでしょう。
将軍の呼び名と儒教の影響
登場人物の名前の呼び方にも、決定的な違いがあります。
『三国志』を見ていると、劉備のことを「玄徳(げんとく)」、曹操を「孟徳(もうとく)」、諸葛亮を「孔明(こうめい)」といったように、本名とは別の名前で呼び合うシーンが非常に多いですよね。
ちなみに、これは「字(あざな)」と呼ばれる文化であり、漢王朝の400年間で、中国には儒教が国教として深く定着しました。
儒教の礼節では「親や主君以外が、成人男性の本名(諱・いみな)を呼ぶのは極めて失礼」とされたため、日常会話では「字」で呼び合うのがマナーとなったのです。
逆に『キングダム』の時代は、まだ儒教が社会の隅々まで浸透しておらず、秦のような国は実力主義の「法家」思想が強かったのです。
そのため、信や王騎、蒙武のように本名で呼び捨てにすることが普通でした。
このように、言葉遣いの違い一つとっても、社会の雰囲気や価値観が400年~500年で大きく変化したことが分かりますね。
呂布と龐煖など最強武将の比較
「キングダムの龐煖(ほうけん)と三国志の呂布(りょふ)、もし戦ったらどっちが強いのか?」
これは時代を超えたドリームマッチとして、歴史ファンや漫画ファンの間で永遠に議論されるテーマですね。
二人とも「個人の武力が突出している」「戦術を超越した武神」として描かれる点は共通しています。
そこで、冷静に分析すると、先ほど触れたように、龐煖の時代は「戦車戦や歩兵戦」がメインだったのに対し、呂布の時代は「人馬一体の騎馬戦」が完成されていました。
そのため、機動力や馬具の技術においては、三国志時代の呂布の方が圧倒的に有利かもしれません。
しかし、龐煖のような「人の理解を超えた武神」には、常識的な技術論は通用しない気もします。
史実では決して交わることのない二人ですが、こうして時代を超えた最強対決を想像できるのも、歴史の流れを正しく理解しているからこその楽しみ方ですね。





同じ「魏」でも全く別の国であり、戦車から騎馬への進化や呼び名の変化など、400年~500年の重みは細部に宿りますね。信の血が「飛将軍」として三国志の時代にも受け継がれているというロマンは、歴史を知る者だけが味わえる最高の楽しみ方ではないでしょうか。
よくある質問(FAQ)
最後に、キングダムと三国志の時系列や関係性について、読者の方からよく検索されている疑問に、Q&A形式で分かりやすくお答えします。
Q1. 項羽と劉邦はどの時代の話ですか?
キングダム(秦)の滅亡後、三国志(漢)が始まるまでの間に起きた「楚漢戦争」の出来事です。秦の始皇帝が亡くなった後、秦を倒した覇王・項羽と、庶民出身の劉邦が覇権を争い、勝利した劉邦が漢王朝を樹立しました。この漢王朝が約400年続いた末に、黄巾の乱が起きて三国志の時代が訪れます。ちなみに、時系列としては「キングダム → 項羽と劉邦 → 三国志」となります。
Q2. キングダムの秦王朝は長く続いたのですか?
いいえ、実は非常に短命でした。始皇帝による中華統一国家は、紀元前221年に成立しましたが、紀元前206年には滅亡しており、わずか15年ほどしか続きませんでした。これは、急激な改革と法治主義による厳しい支配が人々の反発を招き、始皇帝の死後すぐに陳勝・呉広の乱などの反乱が起きたためです。この短命な統一期間の反省を経て、次の漢王朝は長期安定政権を築くことになります。
Q3. 司馬懿と李牧が戦うことはありますか?
いいえ、時代が異なるため史実で戦うことはあり得ません。李牧は戦国時代(キングダム)の趙の三大天の一人であり、司馬懿はそれより約400年以上後の三国時代の魏の軍師(後の晋の高祖)です。ゲームやクロスオーバー作品では共演することもありますが、歴史上では生きている時代が全く異なります。ちなみに、両者とも「国を守る守戦の名手」として比較されることは多いですね。
まとめ:三国志とキングダムはどっちが先か?その歴史を整理
今回は「三国志 キングダム どっちが先」という疑問について、歴史的な背景や年表、文化の違いを交えて徹底的に解説してきました。
そこで、結論としては、キングダムの方が三国志よりも約400年先に起きた出来事なんです。
記事の要点まとめ
- 時系列は「キングダム(戦国時代)」→「漢王朝(約400年)」→「三国志(三国時代)」の順。
- 二つの「魏」は、場所も規模も成立過程も異なる全く別の国である。
- キングダムの頃の日本は弥生時代、三国志の頃は邪馬台国の時代。
- 信の時代に築かれた「統一への意志」が、三国志の時代にも影を落としている。
「キングダムで信たちが血を流して作り上げた中華帝国が、漢王朝(約400年)の時を経て腐敗し、再び乱世に戻ってしまったのが三国志の世界である」
そう考えると、少し切なくもなりますが、歴史の壮大なロマンを感じずにはいられません。
ぜひ、この時系列を頭に入れた上で、両方の作品を読み返してみてくださいね。
今までとは違った深みや発見があるはずですから。



キングダムが先で三国志が後。このシンプルな事実の裏には、中華統一という巨大な夢の興亡が隠されています。別々の作品として楽しむのも良いですが、時を超えて繋がる一つの歴史として味わうことで、あのアニメや漫画の感動が何倍にも膨らむはずですよ。
※本記事の情報は歴史学的・考古学的な諸説に基づいています。歴史の解釈には諸説あり、新たな発見によって定説が変わることもありますので、知的好奇心を満たす一つの視点としてお楽しみください。
