司馬遷と三国志の司馬懿は親戚?家系図で見る意外な血縁について

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司馬遷と三国志の司馬懿は親戚?家系図で見る意外な血縁について
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司馬遷って何をした人物なの?

歴史探偵男

司馬遷と司馬懿って似てるけど親戚?

この記事では、こんな疑問にお答えします。

この記事で分かること
  • 司馬遷と司馬懿の意外な血縁関係と家系図の真実
  • 二人の「司馬」が生きた時代の決定的な距離感
  • 歴史書としての『史記』と『三国志』の構造的な違い
  • 命を賭して歴史書を執筆した著者たちの熱い動機
  • 「司馬」という名字のルーツと古代中国の官職
執筆者情報
歴女
歴女
  • 歴史大好き女
  • 今まで読んだ歴史書籍は日本史&世界史で200冊以上
  • 日本史&中国史が得意
  • 特に中国の春秋戦国時代や三国時代、日本の戦国時代が好き
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歴史の授業やドラマ、あるいはゲームなどで「司馬遷(しばせん)」と「三国志」という言葉を聞いたとき、ふと疑問に思ったことはありませんか?

「あれ? 司馬遷って三国志に出てくる司馬懿(しばい)と名字が同じだけど、もしかして親戚なの?」「歴史のテストで『史記』と『三国志』がごっちゃになってしまう…」。

こうした悩みは、歴史好きになり始めた方なら誰もが一度は通る道なんです。

特に、三国志の後半で圧倒的な存在感を放ち、やがて晋王朝の礎を築いた司馬懿仲達と、中国最高の歴史家である司馬遷。

この二人に血のつながりがあるとしたら、それはとてつもない歴史のロマンですよね。

また、彼らが残した(あるいは関わった)歴史書の成り立ちを知ることで、これからの歴史鑑賞が何倍も味わい深いものになることは間違いありません。

そこで、この記事では、そんな「司馬遷と三国志」にまつわる複雑な糸を、家系図や時代背景、そして執筆された歴史書の構造から丁寧に解きほぐしていきますね。

専門的な用語も噛み砕いて解説しますので、ぜひ最後までお付き合いください。

目次

司馬遷と三国志の司馬懿は関係ある?

司馬遷と三国志の司馬懿は関係ある?

「司馬遷」と「司馬懿」。漢字も雰囲気も似ているこの二人の偉人は、果たしてどのような関係にあるのでしょうか?

インターネットで検索すると「親子説」や「同一人物説」まで飛び出すことがありますが、史実に基づくとその関係性はもっと複雑で、かつ興味深いものです。

そこで、まずは多くの人が抱く家系の疑問や、生きた時代の違いについて、詳しく解説していきますね。

司馬遷と司馬懿の関係と家系図

結論から申し上げますと、前漢の歴史家である司馬遷と、三国志の勝者である司馬懿は、直接の親子や兄弟、あるいは祖父と孫といった近い親戚関係ではありません。

しかし、だからといって「全くの赤の他人」と切り捨ててしまうのも早計なんです。

そして、二人の関係を正確に表現するなら、「神話に近いほど古い時代の先祖を共有しているが、歴史時代に入ってからは別系統として分岐した遠い同族」ということになります。

これを現代日本で例えるなら、同じ「佐藤さん」や「鈴木さん」でも、ルーツを辿れば平安時代の藤原氏に行き着くかもしれませんが、現在はお互いに親戚付き合いがない関係に近いかもしれません。

また、具体的に家系図を見ていくと、戦国時代(紀元前403年〜紀元前221年)のあたりで、二つの家系が決定的に分かれていることがわかりますね。

司馬遷の家系は、代々「太史令(たいしれい)」という、天文学や暦、そして国家の記録を司る学者の家系として続きました。

その一方で、司馬懿の家系は「河内司馬氏(かだいしばし)」と呼ばれ、地方の有力な豪族として力を蓄え、政治や軍事を司る実務家・武門の家系として台頭していったのです。

このように、同じ「司馬」の血を引いていても、一方は筆で、一方は剣と知略で歴史に名を残したという対比が非常に面白いですね。

ちなみに、司馬遷と司馬懿は、数百年前に枝分かれした遠い親戚同士です。

司馬遷は「学問と記録の家系」、司馬懿は「政治と軍事の家系」という異なる道を歩みましたが、どちらも中国史に巨大な足跡を残しました。

司馬錯から繋がる司馬遷の血筋

司馬遷のルーツを語る上で欠かせないのが、彼の直系の先祖にあたる司馬錯(しばさく)という人物です。

これは、歴史漫画『キングダム』を読んでいる方なら、「ああ、あの渋い将軍か!」とピンとくるかもしれませんね。

彼は、戦国時代の秦(しん)の恵文王に仕えた名将で、弁論にも長けた知勇兼備の傑物でした。

そして、司馬錯の最大の功績は、何と言っても「蜀(しょく・現在の四川省)」の平定です。

当時、秦の宰相であった張儀(ちょうぎ)が韓(かん)を攻めることを主張したのに対し、司馬錯は「まずは背後にある広大な蜀の地を征服し、国力を蓄えるべきだ」と王に説きました。

そこで、この進言が採用され、司馬錯は見事に蜀を攻め落とします。

また、実はこの出来事、三国志ファンにとっても非常に因縁深い話なんです。

なぜなら、この時に司馬錯が平定した「蜀」の地こそが、約500年後に劉備玄徳が入り、諸葛亮孔明と共に「蜀漢」を建国する舞台となるからです。

もし司馬遷の先祖である司馬錯が蜀を秦の領土にしていなければ、その後の秦の始皇帝による中華統一も遅れていたかもしれませんし、三国時代の地図も全く違ったものになっていたでしょう。

このように、司馬遷は武功で名を馳せた司馬錯の血を引きながらも、自身は武人ではなく文人として生きることを選びました。

しかし、その血管には先祖譲りの「不屈の精神」や、権力者に媚びない「強靭な意志」が流れていたことは、彼の生涯を見れば明らかです。

司馬氏の起源と共通の祖先について

司馬氏の起源と共通の祖先について

では、さらに時計の針を巻き戻して、司馬遷と司馬懿をつなぐ共通の祖先、すべての「司馬氏」の始まりについて見ていきましょう。

その起源は、紀元前9世紀頃、周(しゅう)王朝の宣王(せんおう)の時代まで遡ります。

伝説によれば、程伯休父(ていはくきゅうほ)という人物が、司馬氏の始祖とされています。

そして、彼は周の王命を受けて、徐州(じょしゅう)で起きた異民族の反乱を見事に平定しました。

この功績に対し、王は彼に一族の繁栄を願う言葉とともに、ある特別な許しを与えています。

それが、彼が務めていた官職名をそのまま氏(ウジ)として名乗ることだったのです。

ちなみに、当時「司馬」というのは、軍事や馬政(軍馬の管理)をつかさどる、現代で言えば国防大臣や陸軍元帥にあたるような極めて重要な官職の名称(夏官)でした。

つまり、「司馬さん」というのは、元々は「軍事長官の家系ですよ」ということを表す誇り高きネーミングだったのです。

また、中国には「司徒(しと)」や「司空(しくう)」といった官職由来の複姓(二文字の名字)が他にも存在しますが、司馬氏はその中でも特に武門の誉れ高い一族として歴史に定着しました。

それと、「司馬」とは元々、周王朝で軍事をつかさどる官職の名前でした。

共通の祖先である程伯休父が反乱鎮圧の功績により、官職名をそのまま氏として名乗ることを王から許されたのが始まりです。

だからこそ、司馬一族には軍略に優れた人物が多いのかもしれませんね。

司馬遷の子孫は歴史に残っているか

「司馬遷には子孫がいるのか?」という疑問は、彼の人生における最大の悲劇、「宮刑(きゅうけい)」と深く関わっています。

この宮刑とは、男性器を切除する刑罰のことであり、通常であれば、この刑を受けた時点で子孫を残すことは物理的に不可能になります。

しかし、司馬遷がこの刑を受けたのは40代の終わり頃であり、幸いなことに、それ以前に子供を授かっていました。

そこで、記録によれば、司馬遷には娘がいたとされています(息子がいたという説もありますが、歴史の表舞台で明確に活躍したのは女系の血筋です)。

この娘は、非常に賢明な女性で、前漢の昭帝(しょうてい)の時代に丞相(総理大臣クラス)となった楊敞(ようしょう)という人物に嫁ぎました。

そして驚くべきことに、この楊敞と司馬遷の娘の間から生まれた家系が、後の後漢時代に「四世三公(四代にわたって最高位の大臣を出した名門)」と称えられる大貴族、弘農楊氏(こうのうようし)へと発展していくのです。

「天知る、地知る、我知る、子知る」の名言で知られる清廉な政治家・楊震(ようしん)や、三国志の時代に曹操にその才能を恐れられ、処刑されてしまった天才・楊修(ようしゅう)も、実はこの血筋に連なる人物になります。

つまり、男系としての「司馬遷家」は歴史の表舞台から姿を消したかもしれませんが、彼の知性とDNAは女系を通じて脈々と受け継がれ、三国志の時代の英傑たちにも影響を与えていたのです。

また、楊修の切れすぎる頭脳は、もしかすると曾祖父である司馬遷譲りだったのかもしれませんね。

司馬遷が生きた時代と三国志の距離

司馬遷と司馬懿、そして三国志の世界。これらがごっちゃになってしまう最大の原因は、学校の授業などで中国史を駆け足で習う際、同じページや近い章に出てくることが多いからではないでしょうか?

しかし、実際の歴史のタイムスケールで見ると、両者の間には途方もない時間の隔たりがあります。

まず、司馬遷が生きたのは前漢の武帝の時代、紀元前145年頃から紀元前86年頃になります。

その一方、三国志の時代が始まるのは後漢の末期、黄巾の乱が起きる西暦184年以降であり、司馬懿が活躍するのはさらにその後、3世紀に入ってからなんです。

ちなみに、これを計算すると、その間には約300年から400年もの歳月が流れているんですよね。

スクロールできます
人物時代区分西暦の目安歴史的な役割
司馬遷前漢(武帝期)紀元前100年頃太史令として『史記』を執筆
司馬懿後漢末~三国~西晋西暦250年頃魏の軍師・政治家として権力を掌握

そこで、この400年という時間がどれくらい長いか、日本史で例えてみましょう。

現代(2020年代)から400年前と言えば、1600年代初頭、まさに徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利し、江戸幕府を開いた頃です。

つまり、私たち現代人が徳川家康と「同時代の人」ではないのと同様に、司馬遷にとって三国志の英雄たちは、遥か遠い未来の住人でした。

逆に言えば、曹操や司馬懿たちにとって司馬遷は、尊敬すべき「古典の中の偉人」だったのです。

この時間的な距離感を掴むだけで、中国史の解像度がぐっと上がりますよ。

歴史探偵女

司馬遷と司馬懿は、数百年前に分かれた遠い親戚同士であり、直接の面識はありません。しかし、共に「程伯休父」を祖とする同じ血脈が、一方は筆で、一方は政治で歴史を動かした点は興味深いですね。400年の時を超えて輝く一族の因縁を感じずにはいられません。

司馬遷の史記と三国志の著者の違い

司馬遷の史記と三国志の著者の違い

ここからは、人物ではなく「歴史書」としての側面に焦点を当ててみましょう。

「司馬遷が三国志を書いた」と勘違いされることもよくありますが、実際には『史記』と『三国志』は全く別の著者が、異なる時代背景と意図を持って書き上げたものです。

そこで、それぞれの特徴を知ることで、歴史の楽しみ方がさらに広がります。

史記と三国志の決定的な違いとは

『史記』と『三国志』の最大の違いは、その記述がカバーしている「範囲」と「構成」にあります。

まず、司馬遷の『史記』ですが、中国で初めての「通史(つうし)」と呼ばれる形式で書かれました。

これは、伝説の五帝の時代から司馬遷が生きた前漢の武帝の時代まで、数千年にわたる歴史を一貫して描くという壮大なプロジェクトだったのです。

縦軸に時間をとり、王朝の興亡を超えて歴史の普遍的な法則を見出そうとしました。

これに対して、『三国志』は「断代史(だんだいし)」と呼ばれ、ある特定の王朝の期間(ここでは後漢末期から晋の初めまで)のみを切り取って記録したものです。

その範囲が限定されている分、その時代の出来事が詳細に記されています。

また、構成要素にも大きな違いがありますよ。

『史記』には、皇帝の年代記である「本紀」、諸侯の記録である「世家」、個人の伝記である「列伝」に加え、年表である「表」や、経済・天文・治水などのテーマ別論文である「書(志)」という5つのパートが揃っています。

しかし、『三国志』には「表」と「志」が存在しません。

これは著者の陳寿が意図して省いたのか、資料不足で書けなかったのかは諸説ありますが、結果として『三国志』は純粋な「人物伝の集合体」としての性格が強くなっています。

ちなみに、『史記』は世界の成り立ちから描く、百科事典的要素を持った壮大な叙事詩。

『三国志』は乱世を駆け抜けた英雄たちの群像劇を描いた、焦点を絞ったドキュメンタリー。

このようにイメージすると分かりやすいですね。

著者の陳寿は司馬遷の評価を得たか

正史『三国志』の著者である陳寿(ちんじゅ)は、三国時代の蜀(劉備の国)に生まれ、後に晋に仕えた歴史家です。

彼は執筆にあたり、間違いなく司馬遷の『史記』を意識し、深く尊敬していたと考えられます。

なぜなら、彼が選んだ「紀伝体(人物ごとに章を立てて歴史を書くスタイル)」は、他ならぬ司馬遷が発明した画期的なフォーマットだったからです。

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しかし、陳寿の文章スタイルは、司馬遷とは対照的でした。

司馬遷が自身の感情や熱い思いを行間ににじませるドラマチックな筆致だったのに対し、陳寿は個人的な感情を極力排し、信頼できる史料のみを選んで簡潔に事実を記す「質実剛健」なスタイルを貫いたのです。

これを「良史(りょうし)」と評価する声もあれば、「簡素すぎて物足りない」という声もあります。

もし、天国の司馬遷が陳寿の『三国志』を読んだとしたら、どう思ったでしょうか?

おそらく、「少し堅苦しくて淡白すぎるが、敗者である蜀の人物にも公平な視線を向けようとした気概は感じる。よく事実を残した」と、後輩歴史家の仕事に一定の評価を与えたのではないかと、私は想像していますよ。

紀伝体で描く正史の構成比較

紀伝体で描く正史の構成比較

『史記』と『三国志』はどちらも「紀伝体」という形式を採用していますが、その中身のバランスや扱いには、それぞれの著者の苦悩や政治的な立場が反映されています。

まず、『史記』の白眉は、何と言っても「列伝」の面白さにあります。

司馬遷は王侯貴族だけでなく、刺客、道化師、占い師、商人といった市井の人々にもスポットライトを当て、人間臭いドラマを描き出しました。

また、漢王朝の敵であった項羽(こうう)を、皇帝と同格の「本紀」に収録するなど、権力に屈しない公平な歴史観を見せています。

その一方、『三国志』の構成はより政治的なんです。

全体は「魏書(30巻)」「蜀書(15巻)」「呉書(20巻)」の計65巻から成りますが、皇帝の記録である「紀」が立てられているのは、陳寿が仕えた晋王朝が正統と認める「魏」の君主(曹操や曹丕)だけです。

そのため、蜀の劉備や呉の孫権はあくまで「伝」として扱われています。

しかし、陳寿は制約の中で精一杯の抵抗を試みています。

例えば、劉備に対しては「先主(先代の主君)」という敬称を使い、他の群雄とは別格の扱いをしているのです。

形式上は魏を立てつつも、行間からは故郷である蜀への愛着が読み取れる。

そうした微細な表現の違いを読み解くのも、紀伝体の醍醐味と言えるでしょう。

宮刑を受けた司馬遷の執筆動機

なぜ、司馬遷はこれほどまでに偉大な歴史書『史記』を書き上げることができたのでしょうか。

その背景には、一人の人間としての尊厳を奪われるほどの、壮絶な悲劇がありました。

それが前述した「李陵の禍(りりょうのか)」と「宮刑」なんです。

将軍・李陵が匈奴との戦いで奮戦虚しく降伏した際、保身に走る大臣たちの中で、司馬遷ただ一人だけが李陵の忠誠心を弁護しました。

しかし、これが皇帝・武帝の逆鱗に触れ、司馬遷は死刑を宣告されます。

そして、当時の法では、死刑を免れるには莫大な金を払うか、宮刑(去勢)を受けるしかありませんでした。

ただ、貧しかった司馬遷は、父・司馬談から託された「歴史書を完成させる」という遺言を守るため、士大夫として死ぬことよりも恥ずかしい宮刑を甘んじて受け入れ、生き恥を晒す道を選んだのです。

この時の、煮えたぎるような無念と悔しさ、そして理不尽な運命に対する怒りが、「発憤著書(憤りを発して書を著す)」という強烈なエネルギーへと昇華されました。

「天道是か非か(神の正義はあるのか)」と問いかける『史記』の文章が、2000年経った今でも読む人の心を激しく揺さぶるのは、そこに著者の血と涙が混じっているからなんです。

歴史探偵男

司馬遷が全身全霊で描いた通史『史記』と、陳寿が制約の中で事実を記した断代史『三国志』。スタイルは対照的ですが、どちらも著者の命懸けの覚悟が込められています。そして、この二つの名著の構造や背景の違いを理解することで、中国史の味わいが格段に深まりますね。

よくある質問(FAQ)

最後に、「司馬遷」と「三国志」に関して、検索ユーザーの皆さんがよく疑問に思うポイントをQ&A形式でまとめました。

Q1. 漫画『キングダム』に司馬遷は登場しますか?

残念ながら、司馬遷本人は時代が異なる(キングダムは戦国時代、司馬遷は前漢)ため登場しません。しかし、作中で秦の六大将軍級の活躍を見せる「司馬錯(しばさく)」は、司馬遷の直系の先祖にあたります。司馬遷は『史記』の著者として、私たちが楽しんでいる『キングダム』のストーリーの元となる史実(ネタ本)を提供した人物、いわば「原作協力者」のような立場で深く関わっていると言えますね。

Q2. 司馬遷の『史記』を初心者でも読む方法はありますか?

いきなり原文や学術的な翻訳を読むのはハードルが高いですよね。そこでおすすめなのが、横山光輝氏による漫画版『史記』です。『三国志』と同じ作者が描いているため、絵柄に馴染みがあり、非常に読みやすいです。また、難解な歴史用語や複雑な人間関係も、漫画なら視覚的にスッと頭に入ってきます。「項羽と劉邦」のあたりから読み始めると、物語としての面白さに引き込まれるはずですよ。

Q3. なぜ「司馬」という名字は二文字(複姓)なのですか?

中国の名字の多くは一文字(単姓)ですが、「司馬」のような二文字の名字を「複姓」と呼びます。「司馬」は元々、周王朝で軍事をつかさどる重要な官職名でした。そして、祖先がその功績により、官職名をそのまま氏として名乗ることを王から許されたため、このような珍しい名字として定着しました。他にも「諸葛(しょかつ)」や「夏侯(かこう)」など、歴史ある家柄に複姓が多いのは、こうした由来があるからです。

まとめ:司馬遷と三国志の違いを知り歴史を楽しむ

今回は、歴史の巨人である司馬遷と三国志(司馬懿)の関係性、そして彼らが残した歴史書の違いについて徹底解説してきました。

時代こそ約400年も離れていますが、同じ「司馬」というルーツを持ち、それぞれの方法で中華の歴史に消えない刻印を打った彼らの生き様。

司馬遷が屈辱に耐えて書き残した『史記』があったからこそ、私たちは古代の英雄たちの息遣いを知ることができます。

そして、そのバトンを受け継いだ陳寿たちの『三国志』があったからこそ、私たちは今も劉備や曹操、そして司馬懿の物語に熱狂できるのです。

このように、歴史は単なる暗記科目ではなく、こうした「人と人とのつながり」や「思いの継承」のドラマなんですね。

ぜひ、これを機に漫画や小説、あるいは現代語訳などで、『史記』や正史『三国志』の奥深い世界に触れてみてください。

きっと、これまでとは違った景色が見えてくるはずですから。

歴女

司馬遷と三国志の意外な接点を知ることは、歴史の解像度を高める第一歩です。時代背景や著者の想いに触れることで、無機質な年号の暗記が、血の通った人間ドラマへと変わりますよ。ぜひこの知識を武器に、新たな視点で歴史作品をより深く楽しんでみてくださいね。

※本記事の情報は歴史学的・考古学的な諸説に基づいています。歴史の解釈には諸説あり、新たな発見によって定説が変わることもありますので、知的好奇心を満たす一つの視点としてお楽しみください。

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