歴史探偵女孫堅ってどんな人物?



孫堅はどこで最期を迎えたのか知りたい
この記事では、こんな疑問にお答えしますね。
- 孫堅の基本プロフィールと「江東の猛虎」の異名の由来
- 17歳の海賊退治から董卓討伐までの詳細な生涯年表
- 史実(正史)と『三国志演義』での描写の違い
- 孫堅の最期をめぐる複数の説と歴史的真相
- 孫策・孫権への影響と呉国建国への貢献
- よくある質問とその回答


- 歴史大好き女
- 今まで読んだ歴史書籍は日本史&世界史で200冊以上
- 日本史&中国史が得意
- 特に中国の春秋戦国時代や三国時代、日本の戦国時代が好き


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孫堅(そんけん)は、三国志の呉国を築いた孫策・孫権の父として知られる武将です。
「江東の猛虎」と恐れられた彼は、17歳で海賊を退治し、黄巾の乱や董卓討伐で数々の武功を挙げました。
しかし、その輝かしい戦歴の裏には、史実と『三国志演義』で異なる記述も多く存在しているのです。
そこで、この記事では、孫堅の生涯を時系列で整理し、有名なエピソードから謎に包まれた最期まで、歴史的背景とともに詳しく解説していきますね。
孫堅とは?基本プロフィールと「江東の猛虎」


孫武の子孫という伝説
まず、孫堅の出自から一緒に見ていきましょう。
彼は、揚州(ようしゅう)呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん)の出身とされています。
その字(あざな)は文台(ぶんだい)といいました。
そして、興味深いことに、正史『三国志』は「蓋孫武之後也(けだし、そんぶの、あとなり)」という一文で始まります。
これは、「おそらく孫堅は孫武の後裔(こうえい)なのだろう」という意味なんです。
ちなみに、孫武とは春秋時代の呉に仕えた兵法家で、『孫子』の著者とみなされる人物になります。
ただし、孫堅の時代より600年以上も前の人物であり、系譜があるわけでもありません。
それと、実際には孫堅について、父親の名前すら記録に残っていない謎の家系でした。
曹操や劉備のように名門の出ではなく、むしろ得体の知れない家柄だったのです。
そのため、この「孫武の子孫」という説は、孫堅の戦上手ぶりから生まれた後世の伝説と考えられていますよ。
「江東の猛虎」という異名の由来
では、なぜ孫堅は「江東の猛虎(こうとうのもうこ)」と呼ばれたのでしょうか?
この異名の由来については、董卓(とうたく)討伐戦での活躍にあります。
『江表伝(こうひょうでん)』によれば、孫堅が洛陽(らくよう)攻略で快進撃を続けたとき、袁術(えんじゅつ)の側近がこう言いました。
「孫堅がこのまま洛陽を攻め落としでもすれば、もうあなたの命令は聞かないでしょう。狼(董卓)を追い払って虎(孫堅)を得たということになってしまいますぞ」
そして、この時の孫堅は袁術の支配下にあり、その兵を借りていました。
しかし、あまりの快進撃を危険視する者が、袁術にそう耳打ちしたのです。
そこで、これを聞いた袁術は、懐の中の「虎」に恐れをなし、孫堅への兵糧輸送を止めてしまいました。
また、『三国志演義』でも同じような場面が描かれます。
「孫堅は江東の猛虎です。もし彼が洛陽を落とせば、狼を除いて虎を得るも同然」と袁術の側近が言っているのです。
ちなみに、三国時代には猛将を虎に例えることがよくありました。
正史『三国志』でも、曹操が呂布(りょふ)を捕らえたときに「虎を縛るのだから、きつくしないわけにはいくまい」と言っています。
それと、曹操の護衛をつとめた許褚(きょちょ)も「虎痴(こち)」の異名をとりました。
このように、猛将はしばしば虎に例えられましたが、孫堅はその先駆者だったんですね。
孫堅は勇猛果敢だが性急な性格
それでは、孫堅はどのような人物だったのでしょうか?
正史『三国志』では「勇敢にして剛毅(ごうき)」、「忠義と勇壮さを備えた烈士である」と高く評価されています。
その一方で、「行動が軽はずみで、結果を出すことを急ぐあまりに性急であった」とも記されています。
そして、この性急さが、最終的に彼の命を奪うことになるのです。
また、とても興味深いのは、孫堅の人柄の良さなんです。
江東一帯を鎮圧していた際、いくつもの県の次官(じかん)を歴任しましたが、どこでも評判が良かったそうです。
役人も民衆も孫堅になついたと記録されていますよ。
さらに、当時の孫堅は、部下たちからも慕われていたんですね。
程普(ていふ)、黄蓋(こうがい)、韓当(かんとう)、朱治(しゅち)といった後の呉の重臣たちは、みな若い頃から孫堅に仕えていました。
彼らが、孫堅の元に集まったのは、その人柄と武勇に惹かれたからでしょう。



孫堅は出自不明ながら実力で成り上がった典型的な英雄なのです。勇猛さと性急さは表裏一体で、これは孫堅の良いところと悪いところと言えますね。また、民衆や部下から慕われた人柄も、呉国の基盤となる重要な要素だったんです。
孫堅の生涯年表 – 17歳から37歳の激動の人生
孫堅の人生を年表形式で整理してみますね。
わずか20年ほどの軍歴ですが、その密度はかなり驚異的ですよ。
| 年代 | 年齢 | 出来事 |
|---|---|---|
| 156年頃 | – | 呉郡富春県に生まれる |
| 172年 | 17歳 | 銭唐で海賊退治、県尉に任命される |
| 172-174年 | 17-19歳 | 会稽郡の許昌の乱を鎮圧、塩瀆県丞に任命 |
| 184年 | 29歳 | 黄巾の乱鎮圧に参加、別部司馬に昇進 |
| 186年 | 31歳 | 涼州の反乱鎮圧、張温の参軍として従軍 |
| 189年 | 34歳 | 長沙太守となる |
| 190年 | 35歳 | 反董卓連合軍に参加、華雄を討つ |
| 191年 | 36歳 | 洛陽占領、伝国の玉璽を発見? |
| 191/192年 | 37歳 | 襄陽城攻めで戦死 |
この年表を見ると、孫堅が10代から戦場で活躍していたことが分かりますね。
特に、17歳での海賊退治は、彼の人生の大きな転機となりました。
また、黄巾の乱から董卓討伐まで、後漢末期の主要な戦いにはほぼすべて参加しています。
これほど短期間に、数々の戦功を挙げた武将は三国志の中でもかなり珍しいですね。
もっとも、孫堅は残念ながら、37歳前後という若さで命を落としてしまいます。
もし彼があと10年生きていたら、三国時代の歴史は大きく変わっていたかもしれませんね。



このように、孫堅の人生はわずか37年ほどでしたが、その密度は驚異的ですよね?10代から数々の反乱鎮圧に従事し、30代で董卓と戦い最前線で活躍したのですから。三国志武将の中でも短い生涯でしたが、息子たちが継承すべき武勇と人望の両方を築き上げたんです。
孫堅の主な功績とエピソード – 史実と演義を比較
孫堅17歳での海賊退治
それでは、孫堅の代表的なエピソードを見ていきましょう。
熹平元年(きへいがんねん、172年)、孫堅が17歳のときのことでした。
父親と一緒に船で銭唐県(せんとうけん)を訪れた際、海賊の胡玉(こぎょく)らが商人から略奪している場面に遭遇します。
これを見た孫堅は、すぐさま一計を案じました。
見晴らしの良い位置に立ち、あたかも大軍の指揮を執って海賊を包囲殲滅(せんめつ)するかのような身振りをしたのです。
それを見た海賊たちは、大軍が攻めてくるものと勘違いし、我先にと逃げ出してしまいました。
孫堅は、その隙に追いかけて、一人を討ち取って戻ってきました。
そして、これを見た父親は驚き、この件で孫堅は一躍有名になります。
役所は孫堅を召し出して、仮の尉(い、警察・軍事担当の役職)に任命したのです。
このエピソードは史実と演義で大きな違いはありませんね。
ただし、演義ではより劇的に描かれ、孫堅の機転と度胸が強調されています。
わずか17歳の若者が、知恵と勇気で海賊を退治したこの出来事は、後の「江東の猛虎」の片鱗(へんりん)を示すものでした。
黄巾の乱で先陣を切る勇猛さ
次に重要なのが、黄巾の乱(こうきんのらん)での活躍です。
184年、張角(ちょうかく)率いる黄巾賊が36万の信徒を率いて反乱を起こしました。
この時、朝廷は皇甫嵩(こうほすう)や朱儁(しゅしゅん)を派遣して討伐に向かわせます。
そして、朱儁は孫堅を部下として参軍させたいと願い出て、認められました。
そこで、孫堅は討伐戦において奮戦し、向かうところ敵なしでした。
特に宛城(えんじょう)の攻略では、先頭に立って城壁を乗り越え城内に侵入し、賊たちを討って大勝利を収めています。
そこで、この功績により、孫堅は別部司馬(べつぶしば)の官職に任ぜられました。
また、この時期に程普や黄蓋といった後の歴戦の将が孫堅の元に加わっていますね。
このように、黄巾の乱での活躍により、孫堅の名は全国に知れ渡りました。
その結果、189年には長沙太守(ちょうさたいしゅ)という地方長官の地位を得るまでになったのです。
董卓討伐での快進撃
さらに、孫堅の名を不動のものにしたのが、董卓討伐での活躍です。
190年、各地の諸侯が反董卓連合軍を結成しました。
ただ、実際に董卓軍と戦ったのは孫堅だけで、他の諸侯は自軍の損害を恐れて腰を上げなかったのです。
そして、孫堅は董卓軍の猛将・華雄(かゆう)と戦い、見事にその首を上げましたが、ここで史実と演義とで重要な違いがありますよ。
史実では、ここで書いたように、孫堅が華雄を討ち取っています。
しかし『三国志演義』では、この手柄が関羽(かんう)のものとされ、有名な「温酒斬華雄(おんしゅざんかゆう)」のエピソードとして描かれました。
これは、演義が劉備陣営を主人公として脚色したことによるものです。
実際の歴史では、華雄討伐は孫堅の武勇を示す重要な戦果だったのです。
この結果、董卓は孫堅を恐れ、墓を暴き財宝を盗んでから洛陽を焼き払って長安(ちょうあん)へ逃げました。
孫堅はいち早く洛陽に入り、暴かれた墓を修復したと記録されていますね。
ここで、伝国の玉璽(ぎょくじ)にまつわるエピソードがあります。
『呉歴(ごれき)』などの史料によれば、孫堅が洛陽の井戸から伝国の玉璽を発見したとされています。
ただし、正史『三国志』本文には、このような記載がありません。
演義では、このエピソードが大きく取り上げられ、袁紹(えんしょう)に問い詰められた孫堅が嘘をついたことが、連合軍解散の原因とされています。
ですが、史実では、袁術が孫堅への兵糧輸送を止めたことが、孫堅が洛陽から引き上げた理由のようです。



孫堅の戦歴で特筆すべきは、常に先頭に立って戦った点にありますね。董卓討伐では、孫堅だけが唯一果敢に攻撃していますから。この勇猛さこそが「江東の猛虎」と呼ばれた所以であり、その後孫策や孫権など息子たちにも受け継がれていくのです。
孫堅の最期と死の真相 – 謎に包まれた戦死


襄陽城攻めでの戦死
董卓討伐の後、孫堅は袁術の命令で荊州(けいしゅう)の劉表(りゅうひょう)と戦うことになります。
そして、劉表の配下に黄祖(こうそ)という武将がいました。
黄祖は、襄陽(じょうよう)を守っていましたが、孫堅はこれを攻撃します。
そこで、191年または192年、この襄陽城攻めにおいて、孫堅は突然戦死してしまいました。
その年齢は、37歳前後だったと考えられていますね。
「江東の猛虎」と恐れられた孫堅の死は、当時の人々に大きな衝撃を与えました。
また、この死により、呉国の建国は大きく遅れることになってしまうのです。
死因をめぐる諸説 – 矢か落石か
実は、孫堅の死因については複数の説があり、真相は謎に包まれていますよ。
『三国志』本伝の記述
- 死亡年を初平3年(192年)としています
- 詳しい死因は記されていません
『典略(てんりゃく)』の記述
- 劉表は籠城を決め込む一方で、黄祖を城外に出して徴兵をさせました
- 城へ戻る途中で孫堅と交戦し敗北
- 茂みに隠れていた兵士が追撃してきた孫堅を射殺したとあります
『英雄記(えいゆうき)』の記述
- 初平4年(193年)正月7日に逝去としています
- 死因は劉表配下の呂公(りょこう)が伏せておいた伏兵に遭い、落石が頭部に当たったことによるとしています
- この説は『三国志演義』に採用されました
『漢紀(かんき)』と『呉歴』の記述
- 初平2年(191年)に死亡したとしています
注釈者の裴松之(はいしょうし)は、孫策(そんさく)の享年から逆算して、初平2年(191年)が正しいと考察しています。
孫策自身の上表文でも「父が死んだとき17歳だった」とあり、これも初平2年説を裏付けています。
そのため、現在の研究では初平2年(191年)説が有力ですが、確定的な答えは出ていないんです。
孫堅の死が呉国の運命を変える
孫堅が死んだとき、長男の孫策は17歳であり、まだ独立して軍を率いるには若すぎる年齢です。
そのため、孫策は袁術の元に身を寄せることになります。
しかし、これは実質的には人質のような状態であり、孫堅が残した兵士たちも、袁術に吸収されてしまうのです。
そして、孫策が父の旧部下を取り戻し、江東平定を開始できたのは、数年後になります。
もし孫堅が生きていれば、江東平定はもっと早く実現していたでしょう。
また、黄祖は孫家の宿敵となり孫策、そして弟の孫権(そんけん)も、何度も黄祖と戦うことになります。
その後、孫権が黄祖を討ち取ったのは208年、孫堅の死から17年後のことでした。
このように、孫堅の死は、呉国の運命を大きく変えた出来事だったのです。



現在でも、孫堅の死因については複数の史料で記述が異なり、真相は謎のままなんです。しかし、黄祖を仇敵とみなした孫策・孫権の行動から、彼らが父の死をどう受け止めたかがよく分かりますよね。この悲劇的な最期が、逆に呉国建国への強い動機となったのです。
孫堅が遺したもの – 呉国建国への礎
孫策・孫権への影響
孫堅は37歳という若さで命を落としましたが、息子たちに大きな遺産を残しました。
まず、長男の孫策は父の武勇を受け継ぎました。
「小覇王(しょうはおう)」と呼ばれた孫策は、父と同じく戦場で先頭に立って戦う勇将でした。
そして、江東を平定し、呉国の基盤を築いたのです。
次に、次男の孫権ですが、父や兄とは異なる資質を持っており、武勇よりも慎重さを重視して優れた人材を集めて国を治めました。
父の勇猛さと、自身の慎重さのバランスが、呉国を長く存続させる要因となったんですね。
しかし、孫堅の息子たちは、「虎の子」としてのプレッシャーを感じていたことでしょう。
特に孫策は、父の仇である黄祖を討つという使命感を強く持っていました。
このように、父の遺志を継ぐという強い意識が、彼らを突き動かしたのです。
江東の基盤づくり
孫堅が残したもう一つの重要な遺産は、優れた人材たちでした。
程普、黄蓋、韓当、朱治といった武将たちは、みな孫堅の時代から仕えていました。
そして、彼らは後に孫策の江東平定を支え、さらに孫権の時代には呉の柱石となります。
また、孫堅が各地で築いた評判もかなり重要でした。
江東一帯で県の次官を歴任した際、どこでも民衆や役人から慕われたという記録があります。
この人望が、後に孫策が江東を平定する際の助けとなりました。
「あの孫堅の息子」という名前だけで、多くの人々が協力してくれたのです。
さらに、孫堅の弟である孫静(そんせい)も重要な役割を果たしました。
孫堅の死後、孫静は甥たちを支え、呉国の発展に貢献していますよ。
「江東の虎」の真価
では、歴史は孫堅をどう評価しているのでしょうか?
正史『三国志』では「勇敢にして剛毅」「忠義と勇壮さを備えた烈士」と高く評価されています。
その一方で、「性急で軽はずみ」という批判もありますね。
また、後世で呉が皇帝を称したとき、孫堅には廟号(びょうごう)「始祖」、諡号(しごう)「武烈皇帝」が贈られました。
これは、呉国の創始者としての位置づけなんです。
ちなみに、曹操や劉備と比較すると、孫堅は一世代前の人物です。
もし彼が、あと10年生きていたら、魏・蜀・呉の構図は違ったものになっていたかもしれませんね。
「志半ばで倒れた悲劇の英雄」それが孫堅の歴史的な位置づけと言えるでしょう。
しかし、その短い生涯で築いた基盤が、息子たちによって大きく花開きました。
つまり、孫堅なくして呉国の建国はありえなかったのです。



孫堅の最大の遺産は息子たちと優れた部下たちですね。わずか37年の生涯ながら築いた人脈と評判が、孫策の江東平定と孫権の建国を可能にしたと言えます。自身の血筋より実力で成り上がった彼の姿勢が、その後の呉国を形作ったのです。
よくある質問(FAQ)
- 孫堅は本当に孫武の子孫なのか?
-
正史『三国志』でも「おそらく孫武の子孫であろう」と曖昧に書かれており、確証はありません。父親の名前すら不明で系譜も存在しないため、春秋時代の兵法家・孫武から600年以上経過した孫堅が子孫である証明は困難です。戦上手から生まれた後世の伝説と考えられていますよ。
- 伝国の玉璽を孫堅は本当に見つけたのか?
-
『呉歴』や『山陽公載記』には洛陽の井戸から発見したとありますが、正史本文には記載がなく史実かは不明です。演義では大きく取り上げられ、これが連合軍解散の原因とされています。ただし、その後の玉璽の行方から、実際に入手した可能性は低いというのが現代研究者の見解ですね。
- 孫堅の死亡年はいつが正しいのか?
-
『三国志』本伝は初平3年(192年)、『漢紀』と『呉歴』は初平2年(191年)としています。裴松之は孫策の年齢から逆算して初平2年が正しいと考察し、孫策の上表文「父が死んだとき17歳」もこれを証明しています。そのため、現在は初平2年(191年)説が有力ですが確定はしていませんね。
- 孫堅と董卓の関係はどうだったのか?
-
涼州反乱鎮圧時(186年)、董卓の軍規違反を見た孫堅は処刑を進言しましたが却下されました。これを知った董卓は孫堅を深く恨みます。その後、反董卓連合軍では孫堅が最も積極的に戦い華雄を討つなど大戦果を挙げ、董卓は恐れて洛陽から逃げる際に街を焼き払っていますよ。
まとめ
孫堅は出自不明ながら、17歳の海賊退治から始まり、黄巾の乱や董卓討伐で輝かしい戦果を挙げた「江東の猛虎」でした。
しかしながら、史実と演義では描写が異なる部分も多く、特に華雄討伐や伝国の玉璽のエピソードには注意が必要ですよ。
そして、37歳前後で襄陽城攻めにて戦死しましたが、優れた部下たちと江東での評判を息子たちに遺しました。
この基盤があったからこそ、孫策の江東平定と孫権の呉国建国が実現したのです。
このように、孫堅は短い生涯ながら、三国時代に大きな足跡を残した英雄と言えるでしょう。



孫堅の人生は、実力主義の三国時代を象徴していますよね。家柄に頼らず武勇と人望で成り上がり、わずか20年の軍歴で呉国の礎を築きました。彼の死は早すぎましたが、その遺産は息子たちによって大きく花開いたのです。
