歴史探偵女劉邦ってどんな人物なの?



劉邦と劉備の関係性が知りたい
この記事では、こんな疑問にお答えしますね。
- 劉邦がどんな人物で、なぜ三国志と関係があるのか
- 劉備が名乗る「劉邦の末裔」説の真相
- 鴻門の会や四面楚歌など劉邦の有名エピソード
- 三国志に登場する劉姓武将たちの系譜
- 劉邦・項羽・劉備の比較から見える勝者の条件


- 歴史大好き女
- 今まで読んだ歴史書籍は日本史&世界史で200冊以上
- 日本史&中国史が得意
- 特に中国の春秋戦国時代や三国時代、日本の戦国時代が好き


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三国志の劉備玄徳(りゅうびげんとく)が、いつも『漢の高祖劉邦(りゅうほう)の血を引く』と名乗っているけど、本当なの?
あなたは、そんな疑問を持ったことはありませんか?
実は、劉備と劉邦の間には約400年もの時間が流れているのです。
しかし、この二人の関係を知ると、三国志の見方がガラリと変わるはず。
そこで、今回の記事では、百姓から皇帝へと登りつめた劉邦の生涯と、三国志との深い繋がりを徹底解説しますね。
劉邦とは?三国志の劉備との関係


前漢の初代皇帝・劉邦の基本プロフィール
劉邦(紀元前256年または247年〜紀元前195年)は、中国史上でも稀有(けう)な経歴の持ち主です。
というのも、農民の家に生まれながら、最終的には漢王朝の初代皇帝にまで上りつめた人物だから。
ちなみに、中国4000年の歴史を見渡しても、こうした「百姓から天子へ」の大出世を果たしたのは、劉邦と明の朱元璋(しゅげんしょう)の2人だけです。
中国の長い歴史の中で、たった二人ということは、それだけ特別な存在なんですね。
また、劉邦の出身地は沛県(はいけん)という小さな村。字(あざな)は季(き)といい、これは「末っ子」という意味。
つまり、本名が伝わっていない程度の庶民の家だったんです。
そして、若い頃の劉邦は、農作業が大嫌いで酒場に入り浸る「ダメ人間」でした。
ところが、不思議なことに、彼が店に来ると自然に人が集まり、店は満席になったと言います。
その人望が、やがて天下を動かすことになるのです。
劉備が名乗る「劉邦の末裔」は本当か?
三国志ファンなら誰もが知っている劉備のセリフがこちら。
「わしは漢の高祖劉邦の末裔、中山靖王(ちゅうざんせいおう)劉勝(りゅうしょう)の子孫である」と。
これは、実は本当かもしれないし、怪しいかもしれません。
というのも、当時の記録では、実際に子孫なのか?の確認が難しいからです。
ただし、劉備が主張する系譜(けいふ)には一定の筋は通っています。
ちなみに、劉邦の孫にあたる前漢の景帝(けいてい)には、14人もの息子がいました。
その4番目の息子が魯恭王(ろきょうおう)劉余(りゅうよ)。そして別の息子が中山靖王劉勝です。
特に、中山靖王劉勝は、なんと120人以上も息子がいたと言われる人物。
つまり、劉勝の子孫を名乗る人は、後漢末期には相当な数に膨れ上がっていた可能性が高いんですね。
景帝→中山靖王劉勝→劉備への系譜
劉備の系譜を整理すると、こうなります。
問題は、中山靖王から劉備まで約300年もあり、その間の系図がはっきりしないこと。
当時の戸籍制度では、遠い親戚までは記録されていなかったんですね。
実際に、劉備の父は早くに亡くなり、母と二人で筵(むしろ)を編んで生計を立てる貧しい暮らしでした。
これが、本当に皇族の血を引くなら、もう少し裕福だったはずですよね?
とはいえ、劉備本人が主張し続け、曹操(そうそう)も公には否定しなかったんです。
そのため、少なくとも「劉姓の名門」であることは認められていたと考えられます。
この真偽はともかく、この看板が劉備の武器になったことは間違いありません。



劉備の血統主張は政治的な戦略でもあったことでしょう。漢王朝復興を掲げるには、劉姓であることが絶対条件。たとえ遠い親戚でも、その権威を最大限に活用したのが劉備の賢さだったと言えますね。
劉邦の生涯年表と波乱万丈の人生
百姓から亭長へ、そして挙兵まで
| 時期 | 年齢 | 出来事 |
|---|---|---|
| 紀元前256年頃 | 誕生 | 沛県の農家に末っ子として生まれる |
| 紀元前220年頃 | 30代 | 沛県の亭長(ていちょう/警察署長)に就任 |
| 紀元前209年 | 47歳 | 陳勝・呉広の乱(ちんしょう・ごこうのらん)に呼応して挙兵 |
| 紀元前207年 | 49歳 | 秦の都・咸陽(かんよう)に一番乗りで入城 |
若い頃の劉邦には、象徴的なエピソードがあります。
始皇帝の行列を見た時、劉邦は「ああ、立派な男ってのはああでなきゃいけないなあ」と感嘆したと言います。
その一方、同じ行列を見た項羽は「いつかあいつに取って代わってやる」と野心をむき出しにしたのです。
この対比が、二人の性格の違いを物語っていますよね。
そして、劉邦のターニングポイントは、呂公(りょこう)という名士の宴席でした。
この宴席で、一文無しなのに「進物は一万銭」と大ボラを吹いた劉邦。
ところが、呂公は劉邦の人相を見込んで、なんと娘の呂雉(りょち)を嫁にしてしまいます。
ちなみに、この呂雉が後に歴史に名を残す「呂后(りょこう)」です。
人を見る目があったのか、それとも博打好きだったのかは分かりません。
いずれにせよ、この結婚が劉邦の運命を変えたんですね。
項羽との対立と楚漢戦争
| 時期 | 年齢 | 出来事 |
|---|---|---|
| 紀元前206年 | 50歳 | 鴻門の会で項羽に命を狙われるも脱出 |
| 紀元前206〜202年 | 50〜54歳 | 楚漢戦争(そかんせんそう)で項羽と激突 |
| 紀元前204年 | 52歳 | 滎陽(けいよう)で包囲されるも脱出 |
| 紀元前202年 | 54歳 | 垓下の戦い(がいかのたたかい)で項羽を破る |
秦を滅ぼした後、項羽と劉邦の対立が表面化します。
軍事的には項羽が圧倒的に優勢で、項羽は40万の大軍を率いる最高司令官です。
これに対して、劉邦はその配下の一将軍に過ぎませんでした。
しかし、劉邦には張良(ちょうりょう)、蕭何(しょうか)、韓信(かんしん)という「漢の三傑(さんけつ)」と呼ばれる優秀な部下がいました。
そして、この人材の差が、最終的な明暗を分けることになります。
そこで、この楚漢戦争は約4年間続き、劉邦は何度も敗北し、命からがら逃げる場面も多々ありました。
それでも諦めずに体制を立て直し、じわじわと項羽を追い詰めていき、最終的には項羽を破ります。
漢王朝建国から晩年まで
| 時期 | 年齢 | 出来事 |
|---|---|---|
| 紀元前202年 | 54歳 | 漢王朝を建国、皇帝に即位(高祖と称される) |
| 紀元前202〜195年 | 54〜61歳 | 韓信・彭越(ほうえつ)ら功臣を次々と粛清 |
| 紀元前195年 | 61歳 | 病死(享年61または67歳) |
天下統一を果たした劉邦ですが、晩年は暗い影を落とします。
それは、建国の功臣たちを次々と粛清していったからなんです。
韓信は謀反の疑いで処刑され、彭越も反逆罪で処刑。
そして、英布(えいふ)は実際に反乱を起こして、劉邦により討たれました。
さらに、劉邦の猜疑心(さいぎしん)は、親友の樊噲(はんかい)にまで向けられたほどです。
劉邦は、一体なぜこんなことをしたのでしょうか?
この一説には、功臣たちの力が強すぎて、後継者である息子が脅かされることを恐れたとも。
また、劉邦自身が百姓出身のため、基盤が脆弱(ぜいじゃく)だったとも言われます。
もっとも、結果的にこの粛清が、漢王朝の安定に繋がったのは皮肉なことですね。
晋(しん)のように、建国直後に内乱が起きることはなく、劉邦の息子の時代も比較的平穏でした。



劉邦の功臣粛清は冷酷だけど、帝国の長期安定という観点では成功でした。人情と政治の間で苦悩する姿は、後の劉備が曹操に敗れ続けた理由とも重なりますね。時として権力者には非情さも必要なのかも。
劉邦を語る上で外せない3つのエピソード


鴻門の会(こうもんのかい)
これは紀元前206年、秦を滅ぼした直後の出来事です。
秦の首都咸陽に先に入城した劉邦に対し、項羽は激怒しました。
「劉邦!約束を破って先に関中(かんちゅう)に入ったな」ということなんです。
実は、当時項羽の軍師・范増(はんぞう)が、劉邦が将来の脅威になると見抜いていました。
そして、「今のうちに殺すべきだ」と項羽に進言します。
こうして劉邦は、項羽の本陣・鴻門(こうもん)での宴席に呼び出されることになったのです。
そこで、この宴席で范増は、何度も項羽に目配せして劉邦殺害を促しますが、項羽は躊躇(ちゅうちょ)してしまう。
そのため、業を煮やした范増は、項荘(こうそう)に命じて「剣舞を披露する」と称して劉邦に近づかせました。
ところが、ここでなんと項羽の叔父・項伯(こうはく)が割って入ります。
項伯は、劉邦の軍師・張良と親友で、密かに劉邦を庇(かば)っていたんですね。
その結果、二人で剣舞を舞い、項荘が劉邦を斬れないようにしました。
そこへ劉邦の部下・樊噲が血相を変えて宴席に乱入してきます。
樊噲の髪を逆立て、目を見開いた姿に項羽も驚きます。
この隙に劉邦は、「トイレに行く」と言って席を立ち、そのまま馬で自陣へ逃げ帰ったのです。
このエピソードから「項荘舞剣、意在沛公(こうそうぶけん、いはいこうにあり)」という故事成語(こじせいご)が生まれました。
表向きは別のことをしているが、真の狙いは他にあるという意味なんですよ。
四面楚歌と垓下の戦い
紀元前202年12月、劉邦軍は項羽を垓下(がいか/現在の安徽省)に追い詰めました。
劉邦側は、韓信・彭越らの援軍も合わせて60万。対する項羽はわずか10万程度。
そして、包囲された項羽が夜中に聞いたのは、四方八方から聞こえてくる楚(そ)の歌でした。
「漢軍はもう楚の地まで占領したのか? 敵に楚人がこんなにも多いとは」項羽は戦意を失います。
実はこれ、劉邦の作戦で、楚の出身者を集めて故郷の歌を歌わせ、項羽の心を折ろうとしたのです。
これに、見事にハマった項羽は、この状況を「四面楚歌(しめんそか)」と嘆きました。
この時、項羽は愛妾(あいしょう)の虞美人(ぐびじん)や愛馬の騅(すい)との別れを惜しみ、有名な「垓下の歌」を詠みます。
「力は山を抜き、気は世を覆う。しかし時勢は我に味方せず、愛馬の騅も進まない。どうすればいいのだ…虞よ虞よ、お前をどうしてやればいいのか」と。
そこで、項羽はわずか28騎で包囲を突破し、長江(ちょうこう)北岸の烏江(うこう)まで逃げ延びました。
その時、船頭が「江東(こうとう)に渡れば、また王になれます」と勧めるも、項羽は断ります。
「かつて江東の若者8000人と川を渡ったが、今では一人も生きていない。どんな顔で彼らに会えるのか」と。
そう言って、項羽は自ら首をはねて果てました。享年31歳。
その後、劉邦は項羽の遺体を手厚く葬り、涙を流したと伝えられています。
ライバルへの敬意と、複雑な感情が入り混じっていたのでしょう。
功臣粛清で韓信・彭越らを排除した理由
天下を取った劉邦の最大の事件が、功臣(こうしん)たちの粛清になります。
特に「漢の三傑」の一人、韓信の処刑はかなり有名ですね。
韓信はもともと貧しく、若い頃には「股くぐり」の屈辱を受けた人物。
しかし、軍事の天才で「背水の陣(はいすいのじん)」など数々の戦術を編み出し、劉邦の勝利に貢献しました。
そして、劉邦は建国後、韓信を楚王に封じます。
ところが、韓信が謀反を企んでいるという噂が流れ、劉邦は韓信を捕らえて淮陰侯(わいいんこう)に降格。
最終的には、かの有名な呂后の命令で処刑されました。
また、彭越も同様に謀反の疑いで処刑。
その遺体は塩漬けにされ、各地に配られたと言い、なんとも残酷な話ですね。
英布は実際に反乱を起こし、劉邦自ら討伐に向かい討ち取られました。
それでは、なぜ劉邦はこんなことをしたのでしょうか?
その一つには、功臣たちの武力があまりにも強すぎたことがあります。
もう一つは、劉邦自身が庶民出身で、正統な血統がなかったことなんです。
そのため、自身の後継者がスムーズにことを進められるように、脅威を取り除こうとしたのでしょう。
その後、劉邦は臨終の際、妻の呂后に「私が死んだら、誰を信じればいい?」と尋ねられ、順番に重臣の名を挙げました。
そして、「彼らに逆らえば、お前たちは滅ぼされる」とも言います。
これはつまり、最期まで猜疑心と現実主義が同居していたんですね。



劉邦の功臣粛清は後世から批判されますが、漢のためには正しかったのです。これとは対照的に、劉備は義理人情を重んじすぎて天下を取れませんでした。このことからも、歴史は非情な決断をした者に味方するのかもしれませんね。
三国志に登場する劉姓の武将たち
劉備玄徳
劉備玄徳(161年〜223年)は、言わずと知れた蜀漢(しょくかん)の初代皇帝ですね。
幼い頃に父を亡くし、母と二人で貧しい暮らしを送りました。
そして、黄巾の乱(こうきんのらん)の際に義勇軍を募る立て札を見て、関羽(かんう)・張飛(ちょうひ)と義兄弟の契りを結びます。
ちなみに、三国志演義(えんぎ)では「桃園の誓い(とうえんのちかい)」として有名ですね。
そこで、劉備の最大の武器は、劉邦と同じく「人を引きつける魅力」でした。
諸葛亮(しょかつりょう)を三顧の礼(さんこのれい)で迎え、趙雲(ちょううん)や黄忠(こうちゅう)らも心服させます。
ただし、軍事面では劉邦ほど恵まれず、曹操に何度も敗れ、各地を転々とする流浪の日々。
その後、益州(えきしゅう)を手に入れて、ようやく三国の一角を占めることが出来たのです。


劉表・劉焉・劉璋(他の漢王室末裔)
劉備以外にも、三国志には劉姓の有力者が複数登場しますよ。
劉表(りゅうひょう/142年〜208年)
- 字は景升(けいしょう)。荊州(けいしゅう)を治めた人物です
- 前漢の景帝の子・魯恭王劉余(ろきょうおうりゅうよ)の末裔を称しました
- 学問を重んじ、荊州を文化的に繁栄させます
- 劉備を受け入れ、新野城(しんやじょう)を与えました
- 後継者問題で内紛が起き、息子の劉琮(りゅうそう)が曹操に降伏してしまいます
劉焉(りゅうえん/?〜194年)
- 字は君郎(くんろう)。益州を治めた人物です
- 前漢の景帝の子・魯恭王劉余の末裔(つまり劉表と同じ系統)
- 演義では幽州太守(ゆうしゅうたいしゅ)として劉備と出会うことになっていますが、史実にはありません
- 益州で半独立状態を築き、後の蜀の基礎を作りました
- 息子の劉璋に後を継がせます
劉璋(りゅうしょう/?〜220年)
- 字は季玉(きぎょく)。劉焉の息子で益州を継ぎました
- 温厚な性格でしたが、優柔不断でもありました
- 張魯(ちょうろ)対策として劉備を益州に招き入れますが、これが命取りに
- 最終的に劉備に益州を奪われ、降伏します
- 曹操の下で余生を送りましたが、不安に怯える日々だったようです
彼らは本当に劉邦の子孫なのか?
ここで大事な疑問が浮かびますよね?
「この劉姓の武将たち、本当にみんな劉邦の子孫なのか」と。
そして、その答えですが、「おそらくそうだが、証明は難しい」になります。
その理由は、以下の通りです。
- 劉氏は当時の名門姓: 漢王朝400年間で、皇族は相当な数に増えました
- 系図の信憑性: 中山靖王劉勝のように子供が多い人物の場合、数百年後には子孫が膨大な数になります
- 政治的メリット: 劉姓を名乗ることで、漢王朝復興の大義名分が得られました
ただし、劉備・劉表・劉焉の三人は、それぞれ微妙に系統が違います。
劉備は中山靖王劉勝、劉表と劉焉はそれぞれ魯恭王劉余の子孫を名乗っています。
そして、共通するのは景帝の血を引くということくらいなんです。



劉姓の武将たちが真に血縁関係にあったかは不明ですが、「漢王室の血統」という看板は後漢末期の混乱期において極めて重要な政治的資産だったのです。血よりも名分が重視された時代と言えますね。
劉邦vs項羽vs劉備 – 3人を比較してみた
リーダーシップと人材登用の違い
三人のリーダーシップを比較すると、興味深い共通点と相違点が見えてきますよ。
劉邦のリーダーシップ
- 自分の能力は平凡だと自覚していました
- だからこそ、優秀な人材を見抜いて任せる能力に長けていました
- 部下の意見を素直に聞き入れる柔軟性がありました
- 劉邦自身の言葉: 「張良は謀略、蕭何は内政、韓信は戦争。この三人を使いこなせたから勝てた」
項羽のリーダーシップ
- 圧倒的な武力と個人的カリスマがありました
- しかし部下の進言を聞かず、自分の判断を過信しがち
- 范増という優秀な軍師がいたのに、疎んじて追い出してしまいます
- 結果として孤立し、人材が劉邦側に流れていきました
劉備のリーダーシップ
- 劉邦に似て、人を惹きつける魅力がありました
- 義理人情を重んじ、部下や民衆から慕われました
- しかし優柔不断な面もあり、決断力では曹操に劣りました
- 人材登用では成功(諸葛亮など)しましたが、絶対数で曹操に及ばず
戦略と戦術面での比較
そして、三人の戦い方も、それぞれ特徴的なんです。
劉邦の戦略
- 局地戦では何度も敗れましたが、戦略的には勝っていました
- 味方を増やし、敵を分断する外交戦が得意でした
- 負けても体制を立て直す粘り強さがありました
- 最終的に物量で項羽を圧倒しました
項羽の戦略
- 戦術レベルでは連戦連勝の無敵状態でした
- しかし戦略的な視野が狭く、政治外交は苦手
- 味方を増やすより、敵を力で叩き潰すスタイル
- 結果として孤立し、多数の敵に囲まれました
劉備の戦略
- 劉邦と項羽の中間的な存在でした
- 諸葛亮の戦略に頼る部分が大きかった
- 義理人情を優先し、時に戦略的判断を誤りました(関羽の仇討ちなど)
- 結果として三国の中では最も国力が弱い状態に
天下統一への道筋
それでは、三人の運命を分けたのは、一体何だったのでしょうか?
劉邦が勝てた理由
- 人材の活用: 張良・蕭何・韓信という最強のブレーンがいました
- 柔軟性: 負けても折れない心と、戦略を変える柔軟さがありました
- 外交力: 諸侯を味方につけ、項羽を孤立させました
- 時代: 秦の圧政から解放された民衆が、寛大な劉邦を支持しました
項羽が負けた理由
- 傲慢さ: 自分の武力を過信し、部下の意見を軽視しました
- 残虐性: 秦の降伏兵20万人を生き埋めにするなど、人心が離れました
- 孤立: 味方を作らず、最終的に四面楚歌の状態に
- 決断ミス: 鴻門の会で劉邦を殺さなかったことが致命的でした
劉備が天下を取れなかった理由
- 時代の違い: 劉邦の時代より遥かに競争が激しかった
- ライバル: 曹操という天才が敵だった
- 資源不足: 人材・兵力・領土、すべてで曹操に劣っていました
- 判断ミス: 関羽の仇討ちで国力を消耗し、諸葛亮の戦略を台無しに
もし劉備が劉邦の時代に生まれていたら?あるいは劉邦が三国時代に生まれていたら? 歴史はどう変わっていたでしょうか。
これらについて、想像するだけでワクワクしませんか?



劉邦の成功は個人の資質だけでなく、時代と運にも恵まれた結果だったのです。対する劉備は、劉邦と似た資質を持ちながら、曹操という強敵と人材不足により天下を取れませんでした。歴史の勝者には、才能・努力・運のすべてが必要と言えますね。
よくある質問(FAQ)
- 劉邦と劉備は本当に血縁関係があるのか?
-
劉備が主張する系譜によれば、劉邦→景帝→中山靖王劉勝→(約15代)→劉備という流れになります。ただし、中間の系図が不明確なため、確実な証明は困難です。当時は遠い親戚まで記録する制度がなかったため、劉備が本当に劉勝の子孫かは分かりません。ただし、劉姓であること自体は事実で、何らかの形で漢王室と繋がりがあった可能性は高いでしょう。
- 鴻門の会で項羽はなぜ劉邦を殺さなかったのか?
-
主な理由は三つあります。一つ目は項羽の性格。彼は武人として正々堂々と戦うことを好み、宴席での暗殺という卑劣な手段を嫌った可能性があります。二つ目は項伯の存在。叔父である項伯が劉邦を庇い、物理的に殺害を妨げました。三つ目は劉邦の弁明。劉邦が平身低頭して謝罪し、誤解を解いたため、項羽も殺す大義名分を失ったのです。
- 四面楚歌は本当に劉邦の作戦だったのか?
-
史記によれば、漢軍が包囲陣から楚の歌を歌ったことは事実です。これが、劉邦や張良の計略だったかは明記されていませんが、偶然とは考えにくいでしょう。劉邦軍には、楚の出身者も多く含まれており、彼らに故郷の歌を歌わせることで項羽の戦意を削ぐ心理作戦だったと推測されます。実際にこの作戦は見事に成功し、項羽は「漢はもう楚まで占領したのか」と絶望したのです。
- 劉邦はなぜ功臣を粛清したのですか?
-
主な理由は二つあります。一つは功臣たちの武力が強すぎたこと。韓信・彭越・英布らは大軍を率いており、反乱を起こせば脅威でした。実際に英布は反乱を起こし、韓信にも謀反の疑いがありました。もう一つは劉邦自身の出自。百姓出身のため正統な血統がなく、後継者のために不安要素を排除しようとしました。残酷ですが、結果的にこの粛清が漢王朝の安定に繋がったのも事実です。
- 三国志の他の劉姓武将(劉表、劉焉、劉璋)も劉邦の子孫ですか?
-
おそらくそうですが、劉備とは系統が異なります。劉備は中山靖王劉勝の末裔を称し、劉表と劉焉は魯恭王劉余の末裔を称しています。いずれも景帝の息子たちが先祖なので、遠い親戚関係にあたります。ただし、400年も経っているため、実際の血縁は極めて薄いでしょう。漢王朝が長く続いたため、皇族の末裔は非常に多く存在していたのです。
まとめ
劉邦は、百姓から皇帝へと登りつめた稀有な人物で、その成功の鍵は優れた人材登用能力にありました。
鴻門の会での危機を乗り越え、四面楚歌の作戦で項羽を追い詰めた彼の戦略眼は見事ですね。
ただし、晩年の功臣粛清は、冷酷な権力者の一面も示しています。
また、劉備が劉邦の末裔を名乗った真偽は不明ですが、その看板は三国志の時代において重要な政治的資産でした。
劉表・劉焉・劉璋など、他の劉姓武将たちも同様に漢王室の権威を背負っていたのです。
項羽の武勇と劉邦の戦略、そして劉備の仁徳。
これら三人の英雄を比較することで、天下を取るには才能だけでなく、時代・運・そして非情な決断力も必要だと分かりますね。
これにより、三国志の見方が少し変わったのではないでしょうか?



劉邦から劉備まで約400年。漢王朝の栄光と衰退を繋ぐ劉姓の物語は、血統よりも理念の継承だったのかも知れませんね。「漢王室の復興」という大義は、混乱の時代に人々が求めた秩序への希望だったのでしょう。
