五丈原の戦いとは?諸葛亮が病死した最後の北伐を徹底解説

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歴史探偵女

五丈原の戦いってどんな感じだったの?

歴史探偵男

「死せる孔明生ける仲達を走らす」ってどうやって生まれたの?

この記事では、こんな疑問にお答えしますね。

この記事で分かること
  • 五丈原の戦いが起きた背景と諸葛亮の5回の北伐
  • 出師の表に込められた諸葛亮の決意
  • 司馬懿の持久戦術と100日以上の膠着状態が続いた理由
  • 諸葛亮が過労で病死した経緯
  • 「死せる孔明生ける仲達を走らす」の故事の真相
  • 戦い後の蜀と魏の情勢
  • 正史と演義での記述の違い
執筆者情報
歴女
歴女
  • 歴史大好き女
  • 今まで読んだ歴史書籍は日本史&世界史で200冊以上
  • 日本史&中国史が得意
  • 特に中国の春秋戦国時代や三国時代、日本の戦国時代が好き
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三国志最後の名場面でもある「五丈原の戦い」。

これは234年、諸葛亮が第五次北伐で司馬懿率いる魏軍と対峙しました。

しかしこの戦いは、激しい戦闘ではなく100日以上の膠着状態が続き、最終的に諸葛亮の病死で終わります。

それではなぜ、この両軍は戦わなかったのでしょうか?

そこで、この記事では、出師の表から諸葛亮の死、「死せる孔明生ける仲達を走らす」の故事まで、時系列で分かりやすく解説します。

諸葛亮の執念や司馬懿の冷徹な戦術、そして蜀の運命まで、史実に基づいて詳しくご紹介していきますね。

目次

五丈原の戦いとは何か?【基本情報と歴史的意義】

五丈原の戦いは、三国志のクライマックスを飾る重要な戦いです。

それでは、まずは基本情報から一緒に確認していきましょう。

戦いの概要と発生時期

五丈原の戦いは、西暦234年の2月から8月にかけて行われた戦役です。

場所は、現在の陝西省宝鶏市岐山県にある五丈原(ごじょうげん)という高台で、渭水(いすい)の南岸に位置します。

そして、対戦したのは、蜀漢の丞相・諸葛亮(54歳)と、魏の大将軍・司馬懿(56歳)です。

また、この戦いは諸葛亮の第五次北伐にあたり、最後の北伐となりました。

なぜこの戦いが重要なのか

五丈原の戦いが重要な理由は4つあります。

  • 諸葛亮の生涯最後の戦いだったこと
  • 「出師の表」や「死せる孔明生ける仲達を走らす」など名場面が詰まっていること
  • 蜀漢の衰退が決定的になった転機だったこと
  • 司馬懿の権力掌握への道が開かれたこと

「戦いらしい戦いがなかった」特徴

五丈原の戦いの最大の特徴は、実は「戦いらしい戦いがほとんどなかった」ことです。

この戦いでは、両軍は100日以上対峙しましたが、大規模な戦闘は起きませんでした。

この五丈原の戦いで、諸葛亮は司馬懿を挑発しますが、司馬懿は一切応じません。

その結果、戦いは諸葛亮の病死によって終結します。

これは、実質的に魏の勝利で終わりました。

司馬懿は「戦わずして勝つ」という孫子の兵法を実践し、時間を味方につけて遠征軍の弱点を突いたのです。

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五丈原の戦いは、激しい戦闘がなかったにもかかわらず三国志最大の名場面です。それは諸葛亮という時代の英雄の最期であり、同時に蜀漢の希望が潰えた瞬間だったからです。司馬懿の冷徹な戦術が、諸葛亮の情熱を上回りました。

北伐の背景:諸葛亮の執念と出師の表

五丈原を理解するには、諸葛亮がなぜ北伐を続けたのかを知る必要がありますよ。

劉備の死と諸葛亮の使命

223年、劉備が白帝城で崩御しました。

夷陵の戦いでの大敗後、心身ともに疲弊した劉備は、諸葛亮に言います。

「息子を支えてほしい。もし息子が補佐に値しないなら、あなたが皇帝になってくれ」と。

そして、諸葛亮は劉備の遺志を継ぎ、漢王朝復興のために全力を尽くすことを誓いました。

しかし、夷陵の戦いで国力が衰えており、すぐには北伐を始められなかったのです。

そのため、諸葛亮はまず国内の立て直しと、225年の南方平定(七擒七縦)から始めます。

出師の表

227年、諸葛亮は第一次北伐に出陣しますが、その際に皇帝・劉禅に上奏したのが「出師の表」になります。

そこで、この名文には諸葛亮の悲壮な決意が込められていたのです。

まず、最初に「北伐せずして国が滅びることを恐れます」と述べています。

そして、最後に「鞠躬尽瘁、死而後已」(きっきゅうじんすい、しじこうい)、つまり「力を尽くして身を屈し、死んで後に止む」と締めくくりました。

諸葛亮は、この言葉通り命を削って北伐を続けることになるのです。

また、出師の表を聞いた将軍たちは涙を流したと記録されています。

5回の北伐の経過

諸葛亮は227年から234年まで、5回にわたって北伐を行いました。

北伐の年表

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回数主な出来事結果
第一次228年街亭の戦いで馬謖敗北失敗・撤退
第二次228年冬陳倉攻略失敗失敗・撤退
第三次229年小規模な侵攻一部制圧後撤退
第四次231年司馬懿と初対決、張郃を射殺食糧不足で撤退
第五次234年五丈原で対峙諸葛亮病死で終結

第一次北伐では、諸葛亮の命令を聞かなかった馬謖が街亭で敗北し、計画が頓挫します。

そのため、諸葛亮は泣いて馬謖を斬りました。

そして、第二次、第三次も食糧不足や兵力不足で大きな成果を上げられませんでした。

その後、第四次では司馬懿と初対決し、局地戦では勝利しますが食糧不足で撤退。

ただし、撤退時に魏の将軍張郃を戦死させました。

そして、第五次の北伐が五丈原の戦いなのです。

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諸葛亮の北伐は、常に補給の問題に悩まされました。しかし、劉備の遺志と漢王朝復興という大義のため、国力が劣る蜀で5回も大軍を動員した執念は驚異的と言えます。それは使命感というより、もはや自己犠牲的な献身だったのでしょう。

第五次北伐と膠着状態【234年2月〜7月】

第四次北伐から3年、諸葛亮は入念な準備を整えて最後の北伐に臨みます。

戦いのタイムライン

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時期蜀軍(諸葛亮)魏軍(司馬懿)
234年2月褒斜道より出陣、武功を経て五丈原に布陣渭水南岸に砦を築き防御態勢
3月渭水北岸の北原攻略を試みる郭淮が先に北原を占拠し撃退
3月下旬陽遂への陽動作戦を展開郭淮が陽動を見破り防衛成功
4月武功水に浮橋を架け橋頭堡確保騎兵1万で20日間攻撃するも失敗
5月〜7月五丈原で持久戦、挑発を続ける持久戦術を徹底、挑発に応じず
8月諸葛亮病死、蜀軍撤退開始追撃するも反撃の構えに撤退

3年間の準備と10万の大軍

司馬懿は、第四次北伐後に「諸葛亮は三年間は糧食の蓄積に専念するだろう」と分析していました。

その予測通り、諸葛亮は3年間で兵糧蓄積、軍備増強、輸送手段の改良(木牛流馬の実用化)を行い、呉との連携も図りました。

そして、234年2月、諸葛亮は「十余万」の大軍で出陣します。

人口が少ない蜀で10万もの軍を動員することは、国力の限界に挑戦する行為でした。

そこで、魏の皇帝・曹叡は司馬懿を派遣し、「砦の防備を固め、守備に徹せよ。敵の食料が尽きて撤退した時、追撃せよ」と厳命しました。

屯田策

諸葛亮が、五丈原で取った戦略は「屯田」という画期的な方法でした。

これは、兵士に農業をさせ、現地で食糧を自給自足する計画です。

そこで、五丈原に到着した諸葛亮は、渭水の沿岸で兵士に農地を開墾させました。

ちなみに、正史には「諸葛亮は渭水の沿岸で兵士に屯田を行わせたが、軍規は厳正で当地の民は安堵した」と記録されています。

そして、この屯田策により、理論上は無期限に駐留することが可能になります。

これは、曹叡の「食料が尽きるまで待て」という戦略を逆手に取る準備でした。

司馬懿の戦わずして勝つ

これに対して、司馬懿の戦術は明確であり、それは「絶対に戦わない」ことです。

司馬懿は、諸葛亮の恐ろしさを知っており、第四次北伐では張郃を失った教訓もありました。

さらに、遠征軍は時間が経てば不利になり、皇帝から出撃禁止の厳命も出ています。

このように、司馬懿には戦わない理由が揃っていたのです。

また、司馬懿は「諸葛亮が五丈原に布陣するなら問題ない」と述べています。

諸葛亮は、慎重な性格でリスクを冒さないため、持久戦に持ち込めば必ず勝てると確信していたんですね。

諸葛亮の挑発作戦

諸葛亮は、司馬懿を挑発して戦いに引きずり出そうとしました。

最も有名なのが、魏軍に女性の衣装を送りつけた事件です。

さらに使者を送って司馬懿を罵倒させ、魏の将軍たちは激怒して「討って出るべきだ」と主張しました。

これに対して、司馬懿も表面上は怒りを見せますが、これは部下の不満を和らげる演技でした。

実際、司馬懿は諸葛亮の使者に「丞相は毎日どのくらい食事をされるのか」と質問しています。

この時、使者が「日夜軍務に精励され、食事も少ない」と答えると、司馬懿は「諸葛亮の寿命は長くない」と確信したのです。

その後、諸葛亮の挑発に魏軍内部で出撃を求める声が高まると、曹叡は辛毗を派遣して「絶対に出撃してはならない」と命じます。

ついには、姜維が「もはや司馬懿は出てこない」と言うと、諸葛亮は「司馬懿の策略だ」と看破しました。

こうして両軍は100日以上も対峙し続けることになるのです。

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司馬懿の戦術は「戦わずして勝つ」孫子の兵法の実践でした。諸葛亮の挑発に動じず、部下の不満を抑え、ひたすら待つ。この忍耐力こそが司馬懿の真の強さですね。感情ではなく合理性で戦った冷徹な軍師でした。

諸葛亮の死と蜀軍の撤退【234年8月】

五丈原での膠着状態が続く中、諸葛亮の体は徐々に限界を迎えていました。

過労による衰弱と病死

諸葛亮は、日夜軍務に専念し、食事の量は減り、睡眠時間も削って働き続けました。

54歳という年齢に加え、5回もの北伐で心身を酷使してきた諸葛亮は、まさに「鞠躬尽瘁、死而後已」を体現していたのです。

その後234年8月、諸葛亮はついに病床に伏します。

この際、死期を悟った諸葛亮は重臣たちを呼び寄せ、費禕、姜維、楊儀に撤退方法を指示しました。

「撤退は密かに行え。姜維を前衛、魏延を殿軍とせよ。魏延が従わなければ軍はそのまま進め」と。

つまり、諸葛亮は魏延が反乱を起こすことを予測していたのです。

そして234年8月、諸葛亮は五丈原の陣中で病死しました。

享年54歳。これは過労死であり、軍務に専念しすぎ、食事も睡眠も削って働き続けた結果です。

なお、演義では「七星灯」という延命の術を試みるが魏延が祭壇に飛び込んで失敗するという場面がありますが、これは創作です。

正史では、過労による自然な病死と記録されていますよ。

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蜀軍の密かな撤退

諸葛亮の遺言に従い、蜀軍は諸葛亮の死を秘密にしたまま撤退を開始しました。

姜維が前衛、魏延が殿軍として魏軍の追撃に備えます。

しかし、魏軍は蜀軍の撤退に気づき、司馬懿は「追撃せよ」と命令しました。

「死せる孔明生ける仲達を走らす」

演義では、諸葛亮の木像を車に乗せて司馬懿を欺いたという劇的な場面がありますが、これは創作です。

正史『漢晋春秋』によれば、司馬懿が追撃しようとしたとき、蜀軍が反撃の構えを見せたため、司馬懿は追撃を中止したとあります。

これは、諸葛亮の遺策に従い、蜀軍は反撃の姿勢を示すことで魏軍を牽制したのです。

この事を聞いた蒋琬が、揶揄して「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」と言いました。

ちなみに、「仲達」は司馬懿の字であり、「死んだ諸葛亮が、生きている司馬懿を逃げさせた」という意味です。

また、この話を聞いた司馬懿は「私は生者のする事は推し測れるが、死者のする事は推し測れない」と答えました。

まさに、自分の慎重さを正当化したのです。

司馬懿の評価「天下の奇才」

撤退後、司馬懿は諸葛亮の陣営跡を視察しました。

五丈原の陣地を見た司馬懿は、その布陣の見事さに感嘆して「ああ、孔明は天下の奇才なり」と漏らします。

これは、司馬懿の本心からの言葉であり、敵として対峙した諸葛亮を、司馬懿は心から認めていたのです。

実際、司馬懿は後に息子の司馬昭に諸葛亮の用兵術を研究させています。

このように、敵同士でありながら、互いの才能を認め合う関係は興味深いものがありますね。

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諸葛亮の死は過労死でした。「出師の表」で誓った通り、まさに力を尽くして死んだのです。使命感が強すぎたがゆえの悲劇的な最期でした。「死せる孔明」の故事は、死してなお司馬懿を退けた遺策を物語っていますね。

魏延の反乱と戦いの影響

諸葛亮の予測通り、撤退中に魏延が反乱を起こします。

そして、この五丈原の戦いは、蜀と魏の運命に大きな影響を与えたのです。

魏延と楊儀の対立とその最期

魏延と楊儀はもともと非常に不仲でした。

魏延は優秀な武将でしたが、傲慢で協調性に欠け、楊儀は几帳面で厳格な文官です。

ただ、諸葛亮が生きている間は対立を抑えられましたが、諸葛亮の死後に対立が表面化します。

魏延は「なぜ撤退するのか。戦い続けるべきだ」と主張し、楊儀の撤退命令を無視して単独行動を開始。

さらに、楊儀の退路を焼き払うという暴挙に出たのです。

しかし、蜀軍の兵士たちは諸葛亮の遺命に従って楊儀を支持します。

そのため、孤立した魏延は逃亡を試みますが、馬岱に追い詰められて斬首されました。

ちなみに、演義では諸葛亮が予言して馬岱に具体的指示を与えていた設定になっています。

ですが、正史では魏延と楊儀の権力争いがより現実的に記述されています。

このように、魏延は確かに優秀な将軍でしたが、協調性に欠けていました。

そして、この内部分裂が、諸葛亮亡き後の蜀の弱さを象徴していますね。

蜀への影響

諸葛亮の死は、蜀にとってかなり致命的な打撃でした。

当時、諸葛亮は単なる軍師ではなく、蜀の全てを統括する存在であり、内政や外交、軍事など全ての分野で中心にいたのです。

ただ、後継者の蒋琬、費禕は優秀でしたが、諸葛亮ほどのカリスマ性はありませんでした。

また、姜維が北伐を継続しようとしますが、11回の北伐は全て失敗に終わります。

姜維には、諸葛亮ほどの戦略眼も政治力もなく、無謀な北伐により蜀の国力はさらに疲弊していきました。

その後、結局蜀は諸葛亮の死から29年後の263年に魏(実質的には司馬氏の晋)に滅ぼされます。

諸葛亮が生きている間は魏も蜀を侵略できませんでしたが、諸葛亮の死後は一方的に守勢に回るしかなかったのです。

魏への影響

一方、諸葛亮を退けた司馬懿は魏の朝廷で揺るぎない地位を確立します。

238年には、遼東の公孫淵を討伐し、東西の外患を除いた大功により権威は絶大になりました。

また、239年に皇帝・曹叡が崩御すると、幼い曹芳が即位し、司馬懿の権威は曹氏をも凌駕します。

そこで249年、司馬懿は「高平陵の変」というクーデターを決行。

曹爽とその一派を処刑し、魏の全権を掌握したのです。

ちなみに、251年に司馬懿は73歳で死去しますが、息子の司馬師、司馬昭が権力を継承します。

そして265年、司馬懿の孫・司馬炎が曹奐から帝位を譲られ、晋を建国しました。

結果的に、司馬懿は新国家・晋の礎を築いたことになります。

歴史探偵男

五丈原の戦いは蜀の終わりの始まりでした。諸葛亮という太陽を失った蜀は、もはや魏に対抗できません。一方、諸葛亮を退けた司馬懿は権力を固め、やがて晋建国の礎を築きます。この戦いが歴史の流れを決めたのです。

正史と演義の違い

五丈原の戦いについて、正史と小説では大きく異なる部分がありますよ。

正史と演義の主な違い

兵力:正史では蜀軍「十余万」、魏軍の数は不明ですがほぼ互角と推測されます。演義でも五丈原に関しては極端な誇張はありません。

木像の計:「死せる孔明」のエピソードで有名な木像は、正史には記載がありません。正史では蜀軍が反撃の構えを見せたため司馬懿が追撃を中止したと記録されています。木像は演義の創作です。

延命の祈祷:演義の「七星灯」で延命を試みるが魏延が祭壇に飛び込んで失敗する場面も、正史には記載がありません。正史では過労により自然に衰弱して病死したとされています。

魏延の反乱:正史では魏延と楊儀の権力争いが原因とされ、比較的現実的な記述です。演義では諸葛亮が予言して馬岱に具体的指示を与えた設定や「誰か三声叫べる者はいるか」という台詞など、より劇的に脚色されています。

演義は諸葛亮の神秘性を強調するため劇的な要素を加えています。

しかし、正史の過労死という描写の方が、かえって諸葛亮の献身性が伝わりますね。

歴女

正史と演義ではところどころ異なる部分があります。そのため、この違いを理解することが三国志の世界をより楽しむことが出来るでしょう。

よくある質問(FAQ)

五丈原の戦いで勝ったのはどっち?

実質的には魏(司馬懿)の勝利です。大規模な戦闘がほとんどなかったため通常の意味での「勝敗」とは異なりますが、司馬懿は「戦わずして勝つ」戦術で諸葛亮の病死を待ち、蜀軍を撤退させることに成功しました。蜀は諸葛亮という最大の武器を失い、以後は守勢に回ることになります。

なぜ諸葛亮と司馬懿は戦わなかったのか?

司馬懿が持久戦術を徹底したためです。皇帝から「守備に徹せよ」という厳命、第四次北伐で張郃を失った教訓、遠征軍は時間が経てば不利になるという判断から、司馬懿は戦わない理由が揃っていました。諸葛亮は女性の衣装を送るなど様々な方法で挑発しましたが、司馬懿は冷静さを保ち続けました。

「死せる孔明生ける仲達を走らす」の意味は?

「死んだ諸葛亮が、生きている司馬懿を逃げさせた」という意味です。諸葛亮が病死した後、蜀軍は密かに撤退を開始しました。司馬懿が追撃しようとしたところ、蜀軍が反撃の構えを見せたため追撃を中止しました。これは諸葛亮の遺策でした。蒋琬がこれを揶揄して言った言葉が後世に語り継がれています。

まとめ

五丈原の戦いは、諸葛亮の執念と司馬懿の冷徹さが激突した戦いでした。

出師の表で誓った通り、諸葛亮は5回の北伐で劉備の遺志を果たそうとします。

そして、第五次北伐では屯田策で長期戦に備えますが、司馬懿は籠城戦で時間を味方につけました。

その後、100日以上の膠着状態の中、過労で衰弱した諸葛亮は54歳で病死します。

「死せる孔明生ける仲達を走らす」の故事が残るように、死してなお司馬懿を退けたのです。

しかし、蜀は求心力を失い衰退へ、魏では司馬懿が権力を掌握していきます。

歴女

五丈原の戦いは「情熱と冷静」の対決とも言えます。諸葛亮の使命感は尊いものですが、自己犠牲的すぎました。司馬懿は感情を排し、合理的に勝利を掴みます。理想に燃える諸葛亮と、現実主義の司馬懿。どちらが正しいかではなく、時代が選んだ答えだったのです。

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