歴史探偵女夷陵の戦いでは、なぜ劉備は孫権を攻めたの?



夷陵の戦いの敗因ってなに?
この記事では、こんな疑問にお答えしますね。
- 夷陵の戦いが起きた背景と関羽の死
- 劉備が復讐戦を強行した理由と群臣の反対
- 陸遜の持久戦と火計の詳細な戦術
- 劉備が大敗した4つの具体的な敗因
- 蜀軍が失った主要武将と人的損失の深刻さ
- 劉備の白帝城での最期と諸葛亮への遺言
- 三国の勢力図が確定した歴史的意義
- 正史と演義での記述の違い


- 歴史大好き女
- 今まで読んだ歴史書籍は日本史&世界史で200冊以上
- 日本史&中国史が得意
- 特に中国の春秋戦国時代や三国時代、日本の戦国時代が好き


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三国志において、蜀漢の運命を決定づけた「夷陵の戦い」。
222年、関羽の復讐に燃える劉備が、若き陸遜率いる呉軍と激突しました。
しかしこの戦いは、劉備の生涯最大の敗北となり、蜀漢衰退の始まりとなったのです。
それではなぜ、歴戦の英雄・劉備が、若干38歳の陸遜に惨敗したのでしょうか?
これについて、この記事では、関羽の死から夷陵の戦い、そして劉備の最期まで、時系列で分かりやすく解説します。
陸遜の火計や劉備の判断ミス、蜀が失った人材、そして三国時代への影響まで、史実に基づいて詳しくご紹介していきますね。
夷陵の戦いとは何か?【基本情報と歴史的意義】
夷陵の戦いは、三国志の後半を決定づけた重要な戦いです。
それでは、基本情報から一緒に確認していきましょう。
戦いの概要と発生時期
夷陵の戦いは、西暦222年の6月から8月にかけて行われた大規模な戦役です。
場所は、現在の湖北省宜昌市にあたる夷陵(いりょう)という地域で、長江の三峡地帯が主戦場となりました。
そして、ここで対戦したのは、蜀漢(しょくかん)の皇帝・劉備と、呉の大都督(だいととく)・陸遜です。
この時劉備は63歳、陸遜は38歳で、年齢差はなんと25歳もありました。
ちなみに、この戦いは官渡の戦い、赤壁の戦いと並んで「三国志三大決戦」の一つに数えられています。
三国時代に入ってから、初期の大規模戦闘でもありました。
また、別名として「猇亭の戦い」(こうていのたたかい)や「宜都の役」(ぎとのえき)とも呼ばれます。
これは、戦場となった地名から来ていますね。
なぜこの戦いが重要なのか
夷陵の戦いが三国志の歴史で重要視される理由は、主に4つあります。
第一に、この戦いによって三国の勢力図がほぼ確定したことです。
蜀は荊州(けいしゅう)奪還の可能性を完全に失い、以後は益州(えきしゅう)と漢中(かんちゅう)に閉じこもることになります。
第二に、蜀漢の衰退が始まった転換点になったことです。
この戦いで、蜀漢は多くの将軍級人材を失い、国力が大きく削がれました。
諸葛亮の北伐も、この打撃から完全に回復できない中での挑戦となります。
第三に、劉備の最後の大規模軍事行動だったことです。
この敗北の翌年、劉備は白帝城(はくていじょう)で病死しています。
桃園の誓いで結ばれた三兄弟も、ここで完全に歴史から退場することになりました。
第四に、陸遜という若き名将の名声が天下に轟いたことです。
それまで無名に近かった陸遜が、歴戦の英雄・劉備を完膚なきまでに打ち破ったことで、呉の重鎮としての地位を確立しました。
狭義と広義の「夷陵の戦い」
実は「夷陵の戦い」という言葉には、狭い意味と広い意味の2つがあります。
狭義では、222年6月に行われた陸遜の火計による決戦のみを指します。
つまり、劉備軍の陣営が炎上し、壊滅的な打撃を受けた戦闘の部分だけなんです。
その一方、広義では221年7月の劉備の出陣から222年8月の完全決着まで、約1年以上に及ぶ一連の戦役全体を含みます。
この間には、劉備軍の快進撃、長期の膠着状態、そして最終的な火計による崩壊まで、様々な展開がありました。
そこで、本記事では、広義の意味で夷陵の戦いを解説していきますね。
なぜなら、劉備の出陣理由と、陸遜の持久戦への展開模様、そして最終的にどう決着がついたのかという全体の流れを理解することが、この戦いの本質を掴むために重要だからです。



夷陵の戦いは劉備の人生と蜀漢の運命を変えた転換点でした。この敗北により、蜀は荊州奪還の可能性を完全に失い、守勢に回らざるを得なくなります。三国鼎立の構図がここで確定したと言えますね。
戦いの背景:関羽の死と劉備の復讐心
夷陵の戦いを理解するには、その2年前に起きた悲劇を知る必要があります。
それは、劉備の義兄弟・関羽の死です。
関羽の樊城攻撃と呉の裏切り
219年、関羽は荊州の守将として、魏の拠点である樊城(はんじょう)を攻撃しました。
関羽は、魏の援軍を水攻めで撃破し、曹操を遷都検討まで追い込むほどの快進撃を見せたのです。
しかし、このとき劉備と同盟を結んでいたはずの呉が、突然裏切ります。
突如として、呂蒙と陸遜が、関羽の背後から荊州を奇襲したのです。
ちなみに、この時孫権が裏切った理由は複数ありました。
- 赤壁の戦い後も劉備が荊州を返さなかったこと
- 孫権の縁談を関羽が「虎の娘を犬の子にやれるか」と侮辱的に断ったこと
- 関羽が「樊城を落としたら次は孫権を滅ぼす」と暴言を吐いたことなどです。
そして、呂蒙の奇襲は見事に成功し、220年、関羽は呉軍に包囲され斬首されました。
享年58歳。孫権は関羽の首を曹操に送ります。
この結果、劉備は義兄弟を失っただけでなく、戦略的要地である荊州も完全に失ったのです。
劉備の帝位即位と復讐の決意
220年、曹操が死去し、息子・曹丕が後漢の献帝から禅譲を受けて魏を建国します。
これに対抗して、221年に劉備は蜀漢の皇帝に即位しました。
そこで、皇帝となった劉備は、すぐに呉への出兵を決意します。
この出兵の名目は「関羽の仇を討つ」というものでした。
ただ、趙雲は「今攻めるべきは呉ではなく魏です」と強く諫め、諸葛亮も反対の立場です。
しかし劉備は、この趙雲や諸葛亮を含め誰の意見も聞き入れませんでした。
これは、義兄弟への情が、理性を上回ってしまったからです。
さらに、出陣直前の221年6月、もう一人の義兄弟・張飛が部下に殺されるという悲劇が起こります。
その後、犯人は張飛の首を持って呉に逃亡しました。
これにより、桃園の誓いで結ばれた三兄弟のうち、劉備だけが残されたのです。
そのため、劉備の復讐心は、もはや誰にも止められませんでした。



関羽の死は劉備にとって義兄弟を失った個人的悲劇であり、同時に荊州という戦略的要地を失った政治的敗北でした。しかし、感情が理性を上回り、諸葛亮の反対も聞かず出陣を強行したことが、悲劇の始まりとなったのです。
劉備の出陣と陸遜の持久戦【221年7月〜222年6月】
221年7月、劉備は自ら大軍を率いて呉への遠征を開始しました。
この時の前衛部隊の指揮官は、呉班(ごはん)と馮習(ふうしゅう)です。
劉備軍の快進撃と陸遜の抜擢
この遠征で、当初劉備軍は快進撃を続けました。
呉との国境にある巫(ふ)と秭帰(しき)の呉軍を撃破し、荊州への侵入路を確保します。
さらに、荊州の異民族、特に武陵蛮の沙摩柯(しゃまか)が劉備に味方しました。
その一方、呉では荊州奪取の立役者だった呂蒙が220年に病死していました。
これにより、孫権は誰を総大将にするか悩んだ末、当時38歳の陸遜を抜擢します。
ただ、この人事に呉の古参将軍たちは不満を抱きました。
特に、韓当(かんとう)や徐盛(じょせい)といった猛将たちは、「若造の陸遜に何ができる」と批判したのです。
しかし、若き陸遜には明確な戦略がありました。
「劉備軍は士気が高い。今正面から戦っても勝ち目は薄い。持久戦で疲弊させるべきだ」と。
兵力比較
| 史料 | 蜀軍 | 呉軍 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 正史三国志 | 記載なし | 5万 | 陸遜伝に明記 |
| 資治通鑑 | 4万余り | 5万 | ほぼ互角 |
| 三国志演義 | 75万 | – | 完全な誇張 |
正史では、蜀軍の兵力は明記されていませんが、『資治通鑑』では4万余りとされ、両軍はほぼ互角でした。
ちなみに、『三国志演義』の75万は完全な誇張ですよ。




劉備の長大な陣形と膠着状態
222年2月、劉備は猇亭(こうてい)に本陣を構え、白帝城まで数百里に及ぶ長大な陣営を築きます。
そして、長江沿いに40以上の砦を造り、補給線を確保しました。
その一方、陸遜は劉備軍を呉の領土深くまで引き込むことに専念します。
最も象徴的だったのは、孫桓(そんかん)の城が包囲されても援軍を送らなかったことです。
「孫桓は必ず持ちこたえられる」と判断したのです。
ただ、この判断に呉の将軍たちは激怒しました。
「陸遜は愚か者だ。呉は滅ぶ」と口々に語り合います。
しかし、陸遜には確かな読みがありました。
「劉備軍は補給線が長すぎる。時間が経てば必ず疲弊する」と。
そこで、半年近い対峙で、陸遜の読み通りに蜀軍に変化が現れます。
長期の遠征で疲労が蓄積し、222年の夏の暑さが兵士を苦しめました。
これにより、劉備は暑さ対策として陣を山林の中に移動させます。
この時、陸遜はこの変化を冷静に観察しており、222年6月、ついに反撃の時が来たと判断します。
そう、劉備軍の陣営が樹木に囲まれており、火計に弱いということを陸遜は気づいたいのです。



陸遜の持久戦は見事でした。若い大都督への批判に耐え、冷静に劉備軍の弱点を分析し続けました。一方の劉備は焦りから長大な陣形を作り、自ら退路を絶つ形となります。経験の差ではなく、戦略眼の差が表れ始めた結果でもありましたね。
決定的瞬間:陸遜の火計と蜀軍の崩壊【222年6月】
機が熟したということで、ついに陸遜が動き出します。
そして劉備軍は、想像を絶する大敗北を喫することになります。
陸遜の火計による総攻撃
222年6月、陸遜は蜀軍の陣地の一つに試し攻撃を仕掛けました。
この攻撃には失敗しますが、これには重要な目的がありました。
それは、実際に攻撃することで、蜀軍の陣形の弱点を確認したかったのです。
そして、陸遜は確信しました。
「蜀軍の陣は樹木に囲まれている。火計を使えば、一気に崩壊させられる」と。
そこで、陸遜はすぐに朱然(しゅぜん)、潘璋(はんしょう)、韓当といった将軍たちに火計の準備を命じます。
その後、夜半に陸遜は水軍を動かして劉備軍の後方に回り込み、一斉に火計を実行したのです。
その結果、樹木に囲まれた陣営は瞬く間に炎に包まれ、40以上の陣営が次々と燃え上がり、巨大な火の海と化しました。
これによって、劉備軍は完全に想定外の攻撃を受け、大混乱に陥ります。
特に致命的だったのは、退却する際の後方から攻撃されたことです。
「退路に敵が回り込んだ。補給基地がやられた。自分たちはどうなるのか」という不安と恐怖が、蜀軍の士気を一気に崩壊させました。
つまり、陸遜の火計は、単に陣営を焼くだけでなく、劉備軍の心理を完全に破壊したのです。
これをきっかけとして、士気が崩壊した蜀軍に、呉軍が総攻撃を仕掛けます。
蜀軍の壊滅と多くの将軍の戦死
火計による混乱の中、多くの蜀の将軍が命を落としました。
馮習は蜀軍の総指揮官でしたが、潘璋に討たれて戦死。
そして、張南は劉備の古参の部下で副将を務めていましたが戦死します。
また、馬良は武陵の異民族との外交を担当していた文官でしたが、この混乱の中で死去しました。
ただ、傅肜(ふよう)は劉備の殿軍(しんがり)を務め、最後まで戦いました。
呉軍が降伏を勧告すると、「漢の将軍が呉の狗(いぬ)に降れるか」と言い返し、戦死を選びます。
それと、沙摩柯は武陵蛮の王でしたが戦死し、杜路と劉寧は呉軍に投降しました。
そこで、劉備は馬鞍山に逃れますが、陸遜は四方から総攻撃をかけます。
このとき趙雲の援軍が到着し、劉備を救出して、辛うじて白帝城まで逃げ延びます。
さらに、黄権(こうけん)は長江の北岸に配置されていましたが、陸遜の火計で劉備軍が崩壊すると退路を完全に遮断されます。
この結果、進退に窮した黄権は、やむを得ず魏に投降しました。
ちなみに、この知らせを聞いた劉備は、「黄権が私を裏切ったのではない。私が黄権を裏切ったのだ」と言ったと記録されています。
自分の判断ミスで、黄権を窮地に追い込んだことを認めたのです。



陸遜の火計は単なる放火ではなく、劉備軍の退路を完全に遮断する計略でした。後方から火攻めされた蜀軍は、恐怖と混乱で士気が崩壊。多くの将軍級の人材を失い、蜀は再起不能な打撃を受けたのです。
劉備の敗因を徹底分析
それでは、なぜ劉備は負けたのでしょうか?
劉備の戦い方から、この敗因を4つの観点から分析してみますね。
敗因①:感情的判断と戦略の欠如
最大の敗因は、劉備が感情に支配されて出兵したことですね。
関羽の復讐という個人的動機が、国家の戦略を上回ってしまいました。
趙雲が「今攻めるべきは魏だ」と進言したのは戦略的に正しい判断だと言えます。
しかしながら、劉備は誰の意見も聞き入れませんでした。
さらに、劉備の軍師だった法正(ほうせい)が219年に既に死去していたことも痛手でした。
諸葛亮は後に「法正が生きていれば、こんな敗戦はなかった」と嘆いています。
敗因②:長大な陣形と補給線
第二の敗因は、劉備の陣形にありました。
数百里に及ぶ長大な陣営は、兵力が極端に分散し、各個撃破されやすい形なのです。
また、細長い陣形は退却が極めて困難で、陣営を樹木の中に配置したことで火計に弱くなりました。
ちなみに、魏の曹丕は「劉備は戦というものが分かっていない」と酷評しています。
敗因③:大軍指揮の経験不足
第三の敗因は、劉備の大軍指揮経験の不足だと思われます。
劉備は戦の経験は豊富でしたが、大軍を率いての戦いがほとんどありませんでした。
この戦いのように、4万を超える大軍を指揮するのは、劉備にとってほぼ初めての経験だったのです。
小規模戦闘と大軍の戦いでは求められる能力が異なるため、劉備はこの違いに対応できませんでした。
敗因④:陸遜の完璧な戦術
最後の敗因は、陸遜の戦術が完璧だったことですね。
「持久戦で劉備軍を疲弊させ、決定的な弱点が現れた時に一気に叩く」という陸遜の戦略は一貫していました。
若い大都督への批判に耐え続け、自分の戦略を貫いた陸遜の冷静さは見事というしかありませんね。



劉備の敗因はいくつかあります。感情に支配された戦略判断、地形を無視した陣形、大軍指揮の未熟さ。しかし最大の敗因は、陸遜という天才軍師の完璧な戦術でした。年齢や経験ではなく、冷静な判断力こそが勝敗を分けたのです。
劉備の死と三国時代の確定
夷陵の戦いの敗北は、劉備の人生と蜀漢の運命を決定づけました。
劉備の白帝城での最期
白帝城に逃げ延びた劉備ですが、心身ともに疲弊していました。
それを狙ってか、222年の夏、陸遜は劉備を追撃しようとします。
ただ、魏軍の不穏な動きが伝えられたため進軍しませんでした。
また、孫権も劉備に和睦を申し込み、223年には和睦が成立します。
しかし、劉備の命はもう長くありませんでした。
そして223年、劉備は白帝城で病に倒れると諸葛亮を呼び寄せ、後事を託しました。
「息子(劉禅)を補佐してほしい。もし息子が補佐に値しないと思ったら、あなたが皇帝になってくれ」と。
これは、劉備が諸葛亮を心から信頼していたことを示す言葉なのです。
そこで、223年4月に劉備は白帝城で崩御しました。享年63歳。
これにより、桃園の誓いで結ばれた三兄弟は、ここで完全に歴史から退場したのです。
蜀の人的損失と三国の勢力図
夷陵の戦いで蜀は、馮習、張南、馬良、傅肜、沙摩柯という将軍級の人材を失いました。
さらに、黄権は魏に投降し、数万の兵士も失われたのです。
蜀の人口は約90万人。その中で数万の兵力を失ったことは、国力の大きな減少を意味しました。
そして、夷陵の戦いの結果、三国の勢力図がほぼ確定します。
蜀は荊州奪還の望みを完全に失い、守勢に回らざるを得なくなりました。
呉は荊州の支配を確立し、魏は両国の消耗を傍観して漁夫の利を得ます。
その後223年、劉備の死後、諸葛亮は呉との再同盟を結びます。
これは、蜀と呉が争っても得をするのは魏だけだと理解していたのです。
その結果、両国は魏に対抗する体制を整えますが、蜀の国力は夷陵の戦いで大きく削がれていました。



夷陵の戦いは蜀漢の運命を決定づけました。劉備という求心力を失い、多くの人材を失った蜀は、もはや天下統一の夢を追う余力を失います。諸葛亮の北伐も、この打撃から完全に回復できない中での挑戦となったのです。
よくある質問
- 劉備の兵力は本当に75万だったのか?
-
『三国志演義』では劉備軍75万とされていますが、これは完全な創作です。当時の蜀の人口は約90万人と推定されており、75万も動員することは物理的に不可能でした。正史『三国志』では蜀軍の兵力は明記されていませんが、後世の『資治通鑑』では蜀軍4万余り、呉軍5万とされており、両軍はほぼ互角だったと考えられています。
- もし劉備が勝っていたらどうなっていたか?
-
もし劉備が夷陵の戦いで勝利していたら、歴史は大きく変わっていたと思われます。蜀は荊州を奪還し、諸葛亮の天下三分の計が実現可能になります。呉は大打撃を受け、場合によっては蜀に降伏した可能性もありますね。そうなれば蜀は長江流域を支配し、魏と対等に戦える勢力となったはずです。ただし魏の国力は圧倒的で、天下統一は容易ではなかったでしょう。
- 諸葛亮はなぜ夷陵の戦いに参加しなかったのか?
-
諸葛亮が夷陵の戦いに参加しなかった理由は、正史には明記されていません。しかし、諸葛亮が後に「法正が生きていれば、こんな敗戦はなかった」と嘆いたという記録から、出兵自体に反対だったと推測されます。諸葛亮は益州の統治と後方支援を担当しており、劉備が自ら前線に出たため、誰かが成都に残る必要がありました。劉備が感情的判断で出兵を強行したため、諸葛亮は後方で事態を見守るしかなかったのでしょう。
まとめ
夷陵の戦いは、関羽を失った劉備の復讐心が招いた悲劇でした。
関羽の死に感情的になり、諸葛亮の反対を押し切って出陣した結果、若き陸遜の火計により大敗を喫します。
この理由として、長大な陣形や退路の確保不足、大軍指揮の経験不足など、劉備の判断ミスが挙げられます。
また、蜀は多くの将軍級人材を失い、劉備自身も翌年に白帝城で病死したのです。
この敗北により、三国の勢力図がほぼ確定し、蜀は守勢に回らざるを得なくなりました。



夷陵の戦いは「感情と理性」の戦いでした。義兄弟への愛情は美しいものですが、国家の運命を左右する判断を感情で行う危険性を示していますね。また、冷静な戦略眼を持つ陸遜が、感情に支配された劉備を完全に制した歴史的教訓と言えるでしょう。
