歴史探偵女劉禅って無能と呼ばれているけど本当なの?



蜀を40年も統治した理由はなに?
この記事では、こんな疑問にお答えしますね。
- 劉禅(りゅうぜん)の生涯と主要な出来事
- なぜ「暗愚」「無能」と評価されるのか
- 40年間統治できた理由と実際の能力
- 諸葛亮をはじめとする重臣との関係
- 有名なエピソード(長坂の戦い、楽不思蜀)の真相
- 演義と正史での描かれ方の違い
- 現代中国における劉禅の評価


- 歴史大好き女
- 今まで読んだ歴史書籍は日本史&世界史で200冊以上
- 日本史&中国史が得意
- 特に中国の春秋戦国時代や三国時代、日本の戦国時代が好き


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劉備の息子として生まれた劉禅は、父の死後17歳で即位し、なんと40年間も蜀漢を統治しました。
しかし、「阿斗(あと)」という幼名は、現代中国で「無能者」を意味する言葉となっています。
それでは、本当に劉禅は無能な君主だったのでしょうか?
それとも、長期統治を実現した彼には、私たちが見落としている能力があったのでしょうか?
そこで、この記事では正史『三国志』と小説『三国志演義』を比較しながら、劉禅の生涯と真の評価を解説していきます。
劉禅の生涯と波乱の幼少期


誕生から長坂の戦い
劉禅(りゅうぜん)は207年、荊州(けいしゅう)の新野(しんや)で生まれました。
父の劉備はすでに47歳で、ようやく授かった実子であり、母は側室の甘氏(かんし)です。
ちなみに、幼名の「阿斗(あと)」は、演義によれば甘氏が妊娠中に「北斗七星を飲み込む夢」を見たことに由来します。
「阿」は親しみを込めた呼び方なので、「北斗ちゃん」といった意味合いですね。
そして、この名前には、神の申し子として期待が込められていました。
しかし、劉禅の人生は誕生直後から波乱に満ちていました。
208年、北方を制圧した曹操の大軍が、荊州に侵攻してきます。
これが有名な長坂の戦い(ちょうはんのたたかい)ですね。
この時、劉備軍は大混乱に陥り、劉備本人は早々に戦場を離脱します。
ですが、当時乳児だった阿斗は、正室の糜夫人(びふじん)に抱かれて戦場を逃げまどいました。
その結果、糜夫人は致命傷を負い、追いついた趙雲に阿斗を託して井戸に身を投げます。
その後、趙雲は単騎で敵陣を駆け抜け、阿斗を劉備の元へ届けました。
この場面は正史にも記録されており、趙雲の勇猛さを示す有名なエピソードとなっていますね。
太子時代から即位まで
長坂の戦いの後も、劉禅の受難は続きます。
211年頃、劉備は孫権の妹を妻に迎えていました。
ただ、数年後孫夫人が呉に帰る際、劉禅を連れて行こうとする事件が発生します。
これは、嫡男(ちゃくなん)の誘拐に等しい行為でした。
そのため、張飛と趙雲が追いかけ、力づくで劉禅を取り戻したのです。
ちなみに、この事件は正史にも記録されており、劉禅がいかに重要な存在だったかを物語っていますね。
その後、劉備は益州(えきしゅう)を平定し、さらに漢中(かんちゅう)を手に入れます。
そして219年、劉備が漢中王(かんちゅうおう)を名乗ると、劉禅は太子に立てられました。
しかし221年、劉備は夷陵の戦い(いりょうのたたかい)で呉に大敗します。
この大敗により体調を崩した劉備は病に倒れ、223年に永安宮(えいあんきゅう)で崩御しました。
このとき劉禅は17歳。父劉備の崩御により成都(せいと)で皇帝に即位することになったのです。


生涯年表
劉禅の波乱に満ちた人生を、年表で整理してみましょう。
| 年 | 年齢 | 出来事 |
|---|---|---|
| 207年 | 0歳 | 荊州の新野で誕生。幼名は阿斗 |
| 208年 | 1歳 | 長坂の戦いで趙雲に救われる |
| 211年頃 | 4歳頃 | 孫夫人誘拐未遂事件 |
| 219年 | 13歳 | 太子に立てられる |
| 221年 | 15歳 | 夷陵の戦いで成都の留守を任される |
| 223年 | 17歳 | 劉備崩御、皇帝に即位 |
| 234年 | 28歳 | 諸葛亮が陣没 |
| 246年 | 40歳 | 董允が死去、黄皓が台頭し始める |
| 253年 | 47歳 | 費禕が暗殺される |
| 263年 | 57歳 | 魏に降伏、洛陽へ移される |
| 271年 | 65歳 | 洛陽で死去 |



劉禅は誕生直後から生命の危機にさらされ続けました。幼少期のこうした体験は、後の消極的で慎重な性格形成に影響を与えたかもしれませんね。また、演義での劉備の行動は創作ですが、父子関係の複雑さを象徴的に表現しているとも言えます。
諸葛亮時代の劉禅(223-234年)
丞相への全権委任
劉備は死の間際、劉禅に「孔明を父と思え」と遺言しました。
また、諸葛亮にも「劉禅が皇帝にふさわしくなければ、あなたが蜀を治めてほしい」と伝えています。
これは、劉禅にとっても諸葛亮にとっても非常に重い言葉でした。
しかし、諸葛亮は帝位を簒奪(さんだつ)することなく、丞相(じょうしょう)として劉禅を支え続けます。
一方の劉禅も、諸葛亮に政務と軍事のほぼ全権を委ねました。
そして、諸葛亮は225年に南征(なんせい)を行い、南方の反乱を平定します。
そこで、228年から北伐(ほくばつ)を開始しました。
これは、魏を討ち、漢王朝を復興するという蜀漢の大義を実現するためです。
劉禅は成都から動かず、諸葛亮の活動を全面的に支援しました。
また、231年の北伐では、輸送の失敗をごまかそうとした李厳(りげん)を、諸葛亮の上奏に基づいて罷免しています。
この判断は適切で、劉禅が諸葛亮の意見を尊重していたことを示していますね。
ちなみに、北伐は5回にわたって行われましたが、魏の国力は圧倒的だったのです。
そのため、戦果は限定的で、蜀の国力は徐々に消耗していくことになります。


諸葛亮の死と劉禅の反応
234年、5回目の北伐の陣中で諸葛亮は病に倒れ、54歳で陣没しました。
劉禅にとって、父のように慕っていた諸葛亮の死は大きな衝撃だったはずです。
また、正史によれば、劉禅は白い喪服を着て3日間、哀悼の意を表したとあります。
そして、諸葛亮の死を喜ぶ上表を出した李邈(りばく)を、怒りに任せて処罰したのです。
この反応は、劉禅が諸葛亮に深い敬意を抱いていたことを示す重要な記録ですね。
単なる傀儡(かいらい)君主であれば、李邈の処罰のような感情的な行動は取らなかったでしょう。
その後、諸葛亮の後継者として、蔣琬(しょうえん)、費禕(ひい)、董允(とういん)といった有能な臣下が政権を支えます。
諸葛亮に委ねた時と同様に、劉禅はこの時期も彼らに政務を委ね続けました。
ちなみん、蔣琬と費禕は、諸葛亮ほど積極的な北伐を行いませんでした。
特に、費禕は慎重派で、姜維(きょうい)が北伐を申し出ても、1万以下の兵しか与えなかったのです。





劉禅は諸葛亮に全権を委ね、その判断を最後まで尊重し続けました。これは無能の証拠とも、自分の限界を理解した賢明な判断とも解釈できますよね?諸葛亮の死に際しての反応は、劉禅の人間性を垣間見させるエピソードです。
「暗愚」と呼ばれる理由


後期の政治腐敗
劉禅の評価を決定的に悪くしたのが、諸葛亮の死後、特に246年以降の政治腐敗です。
246年、劉禅の悪い癖を諫める役割を果たしていた董允が死去します。
そこで、彼の死により、それまで抑えられていた宦官(かんがん)の黄皓(こうこう)が台頭し始めます。
ただ、残念なことに、劉禅は黄皓を深く信任してしまうのです。
その結果、黄皓の権力は次第に増大し、ついには劉禅の弟である劉永(りゅうえい)すら宮中から遠ざけられるほどになります。
ちなみに、正史によれば、蔣琬の死後から劉禅が自ら政治を見るようになりました。
しかし、大赦(たいしゃ)を濫発するなど政治は弛緩(しかん)したのです。
また、宮中は奢侈(しゃし)に流れ、劉禅は遊興や行幸を繰り返したと記録されています。
そして、董允や譙周(しょうしゅう)に諫言されても、劉禅は後宮の人員増員を要請するなど、私生活の充実を求めていました。
こうした姿勢が、暗愚な君主というイメージを強めたと言えますね。
蜀滅亡への道
253年、費禕が魏の降将・郭循(かくじゅん)に宴席で暗殺され、慎重派の歯止めが失われました。
また、姜維は諸葛亮の遺志を継ぎ、積極的な北伐を継続します。
しかし、連年の軍事行動は、小国である蜀の国力を著しく疲弊させたのです。
その結果、国内には厭戦気分(えんせんきぶん)が広がっていきます。
それでも劉禅は、姜維による北伐中止を命じませんでした。
何故なら、魏の打倒こそが蜀漢の存在意義であり、それを放棄することは出来なかったのです。
そこで263年、ついに魏の大都督・司馬昭(しばしょう)が大軍を率いて蜀討伐を開始します。
この時、姜維は最前線の剣閣(けんかく)で魏軍を必死に食い止めました。
ですが、別働隊を率いる鄧艾(とうがい)が険しい山道を越えて、成都近くに現れます。
この知らせを聞いた劉禅は、譙周の勧めに従い、あっさりと降伏を決断したのです。
魏の大軍が成都に来たことにより、もはや劉禅はあきらめの境地だったのかもしれませんね。
ちなみに、姜維はまだ抵抗を続けていましたが、劉禅は勅命を出して降伏を命じます。
こうして蜀漢は滅亡し、劉禅は家族とともに洛陽(らくよう)へ移されました。
楽不思蜀の逸話
降伏後、劉禅は安楽県公(あんらくけんこう)に封じられ、領地1万戸、絹1万匹、奴婢100人を下賜されます。
魏によるこの待遇は、一貴族として遊んで暮らすには十分でした。
そして、ここで有名な「楽不思蜀(らくふししょく)」の逸話が生まれます。
魏の権力者・司馬昭が劉禅のために酒宴を催しました。
そこで、蜀の音楽を演奏させたところ、劉禅の従者たちは故郷を思って涙を流します。
しかし、劉禅だけは機嫌よく笑い、宴を楽しんでいました。
これを見た司馬昭は、側近に「人間の無感動さも、ここまでくるとは。諸葛亮が生きていても、この人を補佐し続けることは不可能だっただろう」と耳打ちしました。
この宴会より後日、司馬昭が「少しは蜀を思い出されますか」と尋ねます。
すると、劉禅は「この地は楽しく、蜀を思い出すことはありません(楽不思蜀)」と答えたと言います。
この逸話から、劉禅は故国への愛着すらない暗愚な人物とされました。
ただし、これが司馬昭の警戒を解き、生き延びるための演技だったという解釈もあり、真相は謎のままです。



黄皓の重用と早すぎる降伏が、劉禅の暗愚評価を決定づけました。しかし楽不思蜀は、敵の警戒を解いて家族を守るための処世術だった可能性もあります。そのため、劉禅の真意は評価が分かれるところです。
実は有能?劉禅再評価の論点
40年間の長期統治
劉禅を単純な暗愚として片付けられない最大の理由が、40年間という在位期間の長さなんです。
劉禅の皇帝在位は、223年から263年までの40年間もありました。
これは、三国時代に即位した君主の中で最も長いのです。
ちなみに、曹操の息子・曹丕は7年、孫権は24年でした。
しかも、劉禅が在位していた時代、蜀では大きな謀反や内乱が起きておらず、これは注目すべき事実です。
対照的に、隣国の呉では政治の乱れによる謀反や反乱が度々発生しています。
孫権の後継問題は、当時深刻な対立を生み、多くの有能な臣下が粛清されました。
また、呉最後の皇帝・孫皓(そんこう)は暴君として知られていますね。
そして、魏でも司馬一族による簒奪が進行し、曹氏の皇帝は実権を失っていきました。
つまり、三国時代という乱世において、40年もの長きにわたり治世を続けられた君主は劉禅ただ一人です。
本当に無能な君主であれば、もっと早く権力を奪われていたのではないでしょうか?
臣下の言葉に耳を傾ける資質
劉禅には、臣下の言葉に耳を傾けるという重要な資質がありました。
正史『三国志』を編纂した陳寿(ちんじゅ)は、劉禅を次のように評しています。
「賢れた宰相に任せている間は理にそった君主となったが、宦官に惑わされて昏闇(こんあん)の後となった。白い糸は染められるままに何色にも変ずる」
つまり、劉禅は臣下次第で良い君主にも悪い君主にもなる人物だったのです。
これは、斉の桓公(かんこう)と同じだと陳寿は指摘しています。
劉禅は、諸葛亮や蔣琬、費禕、董允といった有能な臣下を重用し、その判断を尊重しました。
自ら積極的に善政を敷くことはありませんでしたが、進んで悪政を行うこともなかったのです。
そして、これは一種の能力と言えるかもしれませんね。
自分自身でその限界を理解し、政治は有能な臣下に任せる。
もっとも、君主としての積極性には欠けていましたが、聞く耳を持つという点では優れていました。
ただし、有能な臣下を次々と失った後、黄皓のような宦官に依存してしまったのが劉禅の限界と言えますね。
いくつかの賢明な判断
劉禅の治世を詳しく見ると、いくつか賢明な判断も見られます。
249年、魏の名将・夏侯淵(かこうえん)の息子である夏侯覇(かこうは)が蜀に亡命してきました。
そこで、劉禅は夏侯覇と会見し、こう言います。
「あなたの父君は戦陣の中で命を落とされたのだ。私の父が殺したのではないぞ」
そして、自分の子供を指さし、「この子は夏侯氏の甥にあたる」と言いました。
劉禅の妻の一人である張皇后は張飛の娘で、張飛の妻が夏侯氏だったからです。
そして、劉禅は夏侯覇に手厚く爵位恩賞を与えました。
この対応は非常に賢明であり、潜在的な恨みを解消し、有能な武将を味方にすることに成功しています。
また、諸葛亮の死後、魏延を討った功績を誇る楊儀(ようぎ)が、待遇に不満を持ち危険な発言をしました。
この時、劉禅は速やかに庶人に落として流罪としていますよ。
結局、最終的には劉禅が魏に降伏したのも、臣下の勧めに従った結果でした。
成都の民衆を戦火から守るという意味では、正しい選択だったとも言えますね。



劉禅は優れた臣下がいれば安定した統治を実現できる君主でした。積極性には欠けましたが、暴君化せず長期政権を維持した事実は評価に値しますよね。凡庸であって暗愚ではない。近年の研究では、そうした再評価が進んでいますよ。
演義と正史での違い
演義での描写
小説『三国志演義』は、劉禅をより無能に描いていますが、これには理由があります。
もともと演義は、蜀を正統として美化する作品なのです。
そのため、劉備と諸葛亮を英雄として際立たせるには、対比となる存在が必要でした。
そこで、劉禅を無能として描き、その役割を担わされたのです。
演義では、劉備が長坂の戦い後に救出された阿斗を地面に投げつけます。
これにより、劉禅は三度も頭を打ち、それが原因で脳に損傷を負ったという設定になっています。
また、演義では劉禅が諸葛亮を非常に恐れている描写があります。
ある日、劉禅が梅の木に登って遊んでいると、諸葛亮が来たので慌てて落ち、池に落ちて助かったという話も創作です。
このような演義の描写が広まったことで、劉禅の無能イメージは決定的になったといっても過言ではありません。


正史での記録
その一方で、正史『三国志』の劉禅伝は、もっと客観的です。
正史でも、劉禅の功績はほとんど記録されていませんが、悪政を積極的に行ったという記述も少ないのです。
そして、陳寿の評価は「臣下次第で変わる君主」というもので、単純な暗君扱いはしていません。
また、陳寿は次のようにも述べています。
「諸葛亮が補佐した12年間は改元もせず、あれほど出兵しながらも、恩赦を行うことも無かった。なかなか出来ないことだ。しかし諸葛亮が没して後、そうしたやり方も崩れていった。優劣は歴然としている」
これは、劉禅が諸葛亮の方針を尊重し、余計な口出しをしなかったことを評価した言葉とも取れますよ。
つまり、正史の劉禅は、英雄でも暗君でもない、ごく普通の人間として描かれています。


主要エピソードの史実性
劉禅に関する主要なエピソードについて、演義と正史の違いを整理してみますね。
エピソード別の史実性
- 長坂の戦いで趙雲に救われる:正史◯ 演義◯
- 趙雲の活躍は正史にも明確に記録されています
- 劉備が阿斗を地面に投げた:正史✕ 演義◯
- 完全な創作です。三度頭を打ったという話も創作
- 孫夫人誘拐未遂事件:正史◯ 演義◯
- 正史にも記録されている実際の事件です
- 諸葛亮への全権委任:正史◯ 演義◯
- 両方に共通する歴史的事実です
- 楽不思蜀の逸話:正史◯ 演義◯
- 裴松之が注に引いた『漢晋春秋』に記録があります
- 黄皓の重用:正史◯ 演義◯
- 正史でも明確に批判されています
このように、劉禅の主要な行動自体は史実ですが、演義はそれを誇張し、劉禅をより無能に描いているのです。



演義が蜀を美化し劉備・諸葛亮を際立たせるため、劉禅は無能な二代目として描かれました。しかし、正史の劉禅はより複雑な人物で、単純な暗君ではありません。創作と史実を区別して理解することが、劉禅の真の姿に迫る鍵となりますよ。
まとめ
劉禅は、確かに積極性や卓越した政治的手腕に欠ける君主でした。
しかし、三国時代で最長となる40年間の統治を実現し、有能な臣下がいる間は安定した政権運営が出来ていたことも事実です。
もっとも、黄皓の重用と早すぎる降伏が暗愚評価を決定づけましたが、これらは晩年の人材不足と時代の制約の結果と言えます。
そして、『三国志演義』が劉備・諸葛亮を英雄として際立たせるために劉禅を無能に描いたことで、彼の評価はさらに悪化しました。
楽不思蜀の逸話も、本当に無感動だったのか、それとも生き延びるための演技だったのか、解釈が分かれるところですね。



劉禅の生涯は、偉大な父と名宰相を持った者の宿命を象徴しています。凡庸であることは罪ではなく、彼なりに君主として激動の40年を生き抜きました。暗愚か賢者かという単純な二元論ではなく、複雑な時代を生きた一人の人間として捉えた方が良いでしょう。
