歴史探偵女三顧の礼では、何が行われたの?



三顧の礼の使い方が知りたい
この記事では、こんな疑問にお答えしますね。
- 三顧の礼の意味と正しい読み方
- 劉備と諸葛亮の出会いのエピソード詳細
- 正史『三国志』と『三国志演義』の違い
- ビジネスシーンでの使い方と例文
- 類義語・対義語と使い分け
- 水魚の交わりなど関連する故事成語
- 現代の人材登用への教訓


- 歴史大好き女
- 今まで読んだ歴史書籍は日本史&世界史で200冊以上
- 日本史&中国史が得意
- 特に中国の春秋戦国時代や三国時代、日本の戦国時代が好き


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- 日本史&中国史が得意
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「三顧の礼(さんこのれい)」は、ビジネスシーンでもよく使われる故事成語です。
これは、目上の人が礼を尽くして優秀な人材を招くことを意味します。
そして、この由来は三国志の劉備が、諸葛亮を軍師に迎えるため三度訪問したことです。
46歳の劉備が27歳の諸葛亮のもとを何度も訪ねた対応は、約1800年経った今も人材登用の教訓として語り継がれていますよね?
そこで、この記事では、三顧の礼の正しい意味、劉備と諸葛亮の感動的なエピソード、正史と演義の違いなどについて解説します。
三顧の礼とは?意味と読み方を解説


「三顧の礼」は、ビジネスシーンでもよく使われる故事成語ですね。
人材を迎える際に、「三顧の礼を尽くす」という表現を聞いたことがあるかもしれません。
しかし、正確な意味や使い方を理解している人は、意外と少ないと思います。
そこで、まずは三顧の礼の意味と、その使い方について解説しますね。
三顧の礼の読み方と基本的な意味
今更ですが、三顧の礼は、「さんこのれい」と読みます。
四字熟語として表記する場合は「三顧之礼(さんこのれい)」とも書きますね。
そして、「三顧」の「顧」という字には、「かえりみる」という意味が一般的です。
しかし、ここでは「訪れる」という意味で使われています。
つまり「三顧」とは、「三度訪れる」という意味なんですね。
そこで、三顧の礼の基本的な意味は、次のようになります。
「真心から礼儀を尽くして、すぐれた人材を招くこと。また、目上の人が、ある人物を信任して手厚く迎えること」
これをもう少し分かりやすく言うと、地位や年齢が上の人が、目下の人に対して礼を尽くしてお願いをすることです。
通常であれば、目上の人は目下の人を呼びつけますよね?
しかし、三顧の礼では、これとは全く逆のことが起こります。
「目上の人が自ら出向いて、何度も頭を下げてお願いする」これが三顧の礼の本質なのです。
三顧の礼はどんな時に使う言葉か
三顧の礼は、主に次のような場面で使われます。
【三顧の礼を使う場面】
- 優秀な人材を手厚く迎える時
- 会社が有能な人をヘッドハンティングする時
- 経営者が顧問やアドバイザーを招聘する時
- 組織のトップが専門家に協力を依頼する時
ポイントは、立場が上の人が下の人に礼を尽くすという点です。
ただし、ここで注意が必要であり、三顧の礼は、逆の使い方はできません。
つまり、部下が上司に、後輩が先輩に、若手がベテランに対して使うのは誤りです。
あくまでも、「目上→目下」の関係でのみ使える言葉なのです。
また、すでに高い地位や名声がある人を招く場合にも、三顧の礼は適切ではありません。
そのような場合は「三拝九拝(さんぱいきゅうはい)」という別の表現を使います。
三顧の礼は、「まだ無名だが才能がある人」を招く時に使うのが本来の意味なんですね。
「三顧の礼を尽くす」の使い方
三顧の礼の最も一般的な使い方は、「三顧の礼を尽くす」という形です。
つまり、「尽くす」をつけることで、より丁寧で礼儀正しい印象になります。
それでは、実際の例文を見ていきましょう。
【三顧の礼を使った例文】
- 「当社は三顧の礼を尽くして、○○氏を技術顧問にお迎えしました」
- 「優秀な人材には三顧の礼で臨むべきだ」
- 「社長自らが三顧の礼で説得に当たった結果、契約が成立した」
- 「三顧の礼を受けて、彼は転職を決意した」
- 「我々は三顧の礼をもって、先生に顧問就任をお願いしたい」
そして、ビジネスメールで使う場合も、この「三顧の礼を尽くす」という形が最も自然なんです。
例えば、「弊社といたしましては、三顧の礼を尽くして○○様をお迎えしたいと存じます」といった表現が適切になります。
ただし、あまり多用すると大げさに聞こえてしまうため、注意が必要です。
本当に重要な人材を招く時に、ここぞという場面で使うのが効果的になりますよ。



三顧の礼は1800年近く使われ続ける故事成語です。能力のある人を地位や年齢にとらわれず尊重する姿勢は、現代のビジネスにも通じる普遍的な価値がありますね。
三顧の礼の由来|劉備と諸葛亮の出会い
三顧の礼は、中国の歴史書『三国志』に記された実話が由来となっています。
具体的には、蜀の劉備が、諸葛亮を軍師として迎えるために三度訪問した出来事を指しているのです。
そして、この出会いが、後の三国時代の歴史を大きく変えることになりました。
劉備が軍師を求めていた背景
時は西暦207年。中国は後漢末期の戦乱の時代でした。
北の曹操が急速に勢力を拡大し、中国の大半を支配下に置いていました。
そして、劉備は曹操に追われ、荊州の劉表のもとに身を寄せていたのです。
当時の劉備には、関羽や張飛といった勇猛な武将がいました。
しかし、戦略を立てることが出来る、優れた軍師がいなかった。
そんなある日のこと、劉備のもとに徐庶(じょしょ)という人物が訪ねてきます。
徐庶は、学問に優れた人物で、劉備はすぐに彼を重用しました。
そしてある日、劉備は徐庶にこう尋ねまたのです。
「あなたのような優れた人材は、他にいないだろうか」
すると、徐庶はこのように答えたと言われています。
「私の友人に諸葛亮孔明という者がおります。彼は『臥龍(がりょう)』と呼ばれる逸材です」
ちなみに、この臥龍とは、まだ飛び立っていない龍という意味です。
つまり、今は隠れているが、いずれ天に昇る大人物になる、という最高の評価でした。
そこで、劉備は諸葛亮について大変興味を持ちました。
「それなら、あなたがその方を連れてきてくれないか」
しかし、徐庶は首を横に振りました。
「諸葛亮は、呼び寄せることができる人物ではありません。将軍(劉備)ご自身が、礼を尽くして訪ねるべきです」
こうして、劉備は自ら諸葛亮のもとを訪ねることになったんですね。
三度の訪問の詳細
劉備は関羽と張飛を連れて、諸葛亮が隠棲している隆中(りゅうちゅう)へと向かいました。
ここからが、有名な「三顧の礼」の始まりになりますよ。
劉備たちが、隆中の諸葛亮の草庵(そうあん)に到着すると、弟の諸葛均(しょかつきん)が出迎えました。
「兄はただいま留守にしております。友人を訪ねて出かけました」
つまり、諸葛亮は不在だったため、劉備は残念そうに引き返すしかありませんでした。
数日後、劉備は再び隆中を訪れましたが、またしても諸葛亮は留守でした。
すると、関羽と張飛は、さすがに不満を漏らします。
「殿、いつ戻るかも分からない相手を、何度も訪ねるのはいかがなものでしょうか」
「そうです。こちらから呼びつければよいではありませんか」
しかし、関羽や張飛の意見に対して、劉備は聞き入れなかったと言います。
「優れた人材を得るには、こちらが誠意を示さねばならない。もう一度訪ねよう」と。
そこで、劉備は筆と紙を借りて、諸葛亮への手紙を書きました。
漢王朝を救いたいこと、諸葛亮の助けを得たいこと。その思いを綴って諸葛均に託したのです。
年が明けた春、劉備は三度目の訪問を決意しました。
そして、今度は諸葛亮が在宅していましたが、昼寝をしているとのことです。
ここで、普通なら起こしてもらうところでしょう。
しかし、この時の劉備は違いました。
「起こしてはならない。私は庭で待とう」と。
そこで、劉備は庭で諸葛亮が目覚めるのをずっと待ち続けました。
もっとも、関羽も張飛は内心は不満でしたが、劉備の決意を見て黙って待つしかありませんでした。
やがて、昼寝から諸葛亮が目覚めました。
自分を待つために、劉備が何時間も庭で待っていたことを知った諸葛亮は、深く感動しました。
そして、劉備の誠意と人柄に心を動かされ、ついに出仕を決意したのです。
年齢差と立場の違いが際立つ理由
この三顧の礼が名場面となった理由は、劉備と諸葛亮の立場の違いにあります。
当時、劉備は46歳でした。一方の諸葛亮は27歳。19歳もの年齢差があったのです。
しかも劉備は、漢王朝の皇族の末裔(まつえい)でした。
さらに、関羽や張飛とともに黄巾の乱を鎮圧し、天下に名を知られた英雄でもあったのです。
これに対して諸葛亮は、ただの無官であり、また隠居していた身分です。
司馬徽(しばき)など一部の人物には「臥龍」と評価されていましたが、世間一般にはほとんど知られていませんでした。
ちなみに、当時の中国社会では、年齢と身分が絶対的な価値基準となっていました。
つまり、年上の人や身分が上の人が、絶対的な権威を持っていたのです。
その社会通念からすれば、劉備が諸葛亮を呼びつけるのが当然といえばそうでした。
しかし、劉備は年齢も身分も関係なく、自ら三度も足を運んだのです。
諸葛亮を迎えるために、破格の対応を行ったのでした。



三顧の礼が名場面となったのは、年齢や立場の壁を越えた劉備の姿勢にあります。優れた人材の前では、自らのプライドを捨てられる柔軟性こそ、真のリーダーの資質と言えますね。
正史『三国志』と『三国志演義』の違い


三顧の礼の物語は、『三国志演義』で非常に有名になりました。
しかし、演義はあくまでもフィクション(歴史小説)なんです。
それでは、史実はどうだったのか、興味がありますよね?
そこで、正史『三国志』と『三国志演義』を比較してみますね。
正史に記された三顧の礼
正史『三国志』は、西晋(せいしん)の歴史家・陳寿(ちんじゅ)が3世紀末に編纂した歴史書です。
その中の「諸葛亮伝」に、三顧の礼の記録があります。
「先主遂詣亮。凡三往反乃見。因屛人曰計事善之。於是情好日密」
これを現代語に訳すと、概ね次のようになります。
「先主(劉備)はこうして諸葛亮を訪ねた。およそ三度往って、ようやく会うことができた。周囲の者を退けて天下の計略を話し合い、劉備はこれを善しとした。こうして二人は日ごとに親密になっていった」
つまり、三顧の礼は史実であることが分かりますよね。
さらに、諸葛亮自身も『出師の表(すいしのひょう)』という文章の中で、三顧の礼に触れています。
「先帝(劉備)は私の身分の低さを問題とせず、自らを低くして、三度も草庵を訪ねてくださいました。この恩は決して忘れることができません」
もちろん、これは諸葛亮本人が書いた文章になります。
つまり、三顧の礼が本当にあった出来事であることの、決定的な証拠と言えるのです。
ただし、正史の記述は非常に簡潔なんです。
「三度訪ねて会えた」という事実が記されているだけで、具体的な描写はありません。
『三国志演義』での脚色
『三国志演義』は、正史『三国志』をベースにしながらも、多くの創作が加えられています。
そして、三顧の礼も、演義ではより劇的にかつ感動的に描かれているのです。
1回目の訪問:諸葛亮は友人を訪ねて留守(これは正史にも近い)
2回目の訪問:吹雪の中、劉備は再訪するが、またも不在。劉備は手紙を残して帰る(吹雪の描写は演義の創作)
3回目の訪問:諸葛亮は在宅していたが昼寝中。劉備は起こさず、庭で何時間も待ち続ける。目覚めた諸葛亮は感動して出仕を決意(昼寝の場面は演義の創作)
また、関羽と張飛が不満を漏らす場面も、演義では下記のように詳しく描かれていますね。
- 張飛「あんな若造のところに、何度も足を運ぶ必要があるのですか?」
- 関羽「私たちが縄で縛って連れてきましょう」
- 劉備「そのような乱暴なことはならぬ。優れた人材には、礼を尽くさねばならない」
このやり取りは、演義が創作した場面であり、正史には記録がありません。
| 項目 | 正史『三国志』 | 演義『三国志演義』 |
|---|---|---|
| 基本ストーリー | 三度訪問して会えた | 同じ |
| 1回目 | 不在 | 不在(友人訪問中) |
| 2回目 | 不在 | 吹雪の中、不在 |
| 3回目 | 会えた | 昼寝中で待たされる |
| 関羽・張飛の反応 | 記述なし | 詳細に描写 |
| 劉備の忍耐 | 簡潔 | 劇的に描写 |
| 全体のトーン | 事実の記録 | 感動的な物語 |
演義の脚色は、物語を面白くするためのものなんです。
しかし、基本的な史実、つまり劉備が三度訪ねて諸葛亮を迎えたことは、正しく伝えていますよ。
諸葛亮から訪ねた説は?
実は、この三顧の礼には異説も存在しています。
それは、魏の史書『魏略(ぎりゃく)』に、「諸葛亮の方から劉備を訪ねて、仕官を求めた」という記録があるのです。
もしこれが本当なら、三顧の礼はなかったことになりますよね?
しかし、この異説は広く受け入れられておらず、その理由は以下の通りです。
【三顧の礼が正しいとされる理由】
- 正史『三国志』に明確に記載されている
- 諸葛亮本人が『出師の表』で言及している
- 『魏略』は魏の視点で書かれており、蜀の英雄を貶める意図があった可能性
- 歴史家・裴松之(はいしょうし)も三顧の礼を支持
ちなみに、裴松之は正史『三国志』に注釈をつけた学者です。
そして、彼は『魏略』の異説を紹介しながらも、次のように述べています。
「『出師の表』には明らかに、劉備が諸葛亮を訪ねたと書いてある。それなのにこんな異説を立てるとは、実にわけの分からぬ話である」
つまり、諸葛亮本人が書いた文章が証拠として残っている以上、三顧の礼は史実と考えるべきなのです。



演義の脚色は誇大とも言えますが、基本的な史実は正史に記録されています。諸葛亮自身が感謝を込めて語っていることから、三顧の礼は確かにあった出来事なんです。
三顧の礼の後|天下三分の計と水魚の交わり
諸葛亮を迎えた劉備は、すぐにその才能の凄さを知ることになります。
そして、二人の関係は日増しに深まっていきました。
それでは、三顧の礼の後に起きた出来事を見ていきましょう。
諸葛亮が献策した「天下三分の計」
劉備と初めて会った諸葛亮は、すぐに重要な戦略を提示しました。
これが、かの有名な「天下三分の計(てんかさんぶんのけい)」です。
ちなみに、この天下三分の計ですが、別名「隆中対(りゅうちゅうたい)」とも呼ばれます。
この隆中とは、諸葛亮が隠居していた場所であり、対は問答という意味なんです。
そこで、諸葛亮は劉備に次のような分析を示しました。
「北の曹操は、すでに100万の大軍を擁しています。天子を擁して諸侯に号令しており、『天の時』を得ています。これと正面から戦うのは得策ではありません」
「南の孫権は、長江の天険を頼みにしています。国は富み、人材も揃っている。『地の利』を得ています。同盟を結ぶべきです」
「将軍(劉備)は、仁徳をもって知られています。『人の和』を得ることができます」と。
そして、天下三分の計について、具体的な戦略を説きました。
【天下三分の計の内容】
- まず荊州を確保して根拠地とする
- 次に西の益州(えきしゅう)を手に入れる
- 魏(曹操)・呉(孫権)・蜀(劉備)の三国が鼎立(ていりつ)する形を作る
- 内政を充実させ、国力を蓄える
- 時期を見て、荊州と益州の二方面から魏に攻め込む
- 最終的に漢王朝を復興する
この戦略の素晴らしい点は、現実を冷静に分析していることです。
諸葛亮は、劉備が今すぐ天下を取れるとは考えていませんでした。
その理由は、曹操や孫権と比べて、劉備の勢力はあまりにも小さかったからです。
だからこそ、諸葛亮は段階的な計画を立てました。
- 二つの州を確保する
- 三国で均衡状態を作る
- 力を蓄えてから反撃する。
この天下三分の計を聞いた劉備は、この戦略に深く感銘を受けました。
これまで行き当たりばったりだった劉備に、諸葛亮は明確なビジョンと道筋を示したんですね。
また、この天下三分の計は、ほぼその通りに実現していきます。
赤壁の戦いや益州の攻略、そして蜀漢の建国など、諸葛亮の戦略眼の正しさが証明されました。
「水魚の交わり」の誕生
諸葛亮を迎えた劉備は、毎日のように彼と政治や軍事について語り合いました。
ただ、これを不満に思ったのが義兄弟の関羽と張飛です。
そこで、長年劉備を支えてきた二人は、「我々を軽んじているのでは」と不満を漏らしました。
しかし、それを聞いた劉備は静かに答えます。
「私にとって孔明を得たのは、魚が水を得たようなもの。魚は水なしでは生きられない。私も孔明なしでは天下の大業を成し遂げられない」
関羽と張飛は、この言葉を聞いて納得したと言われています。
つまり、諸葛亮が武将とは別の、戦略を立てる軍師として必要なのだと理解したんですね。
そして、この出来事から「水魚の交わり」という故事成語が生まれ、切っても切れない親密な関係を表す言葉となりました。
三顧の礼が劉備にもたらしたもの
三顧の礼によって、劉備は単に優秀な軍師を得ただけではありませんでした。
じつは、それ以上の大きな成果があったのです。
【三顧の礼の三つの効果】
- 人材獲得: 諸葛亮という天才軍師を得た。以後、劉備軍の戦略はすべて諸葛亮が立案するようになる。
- 戦略獲得: 天下三分の計という明確なビジョンを得た。これにより、何のために、どのように戦うのかが明確になった。
- 名声獲得: 「劉備は人材を大切にする」という評判が広まった。これにより、多くの人材が劉備のもとに集まるようになる。
特に、三つ目の効果は重要ですね。
三顧の礼のエピソードは、すぐに荊州中に広まりました。
「劉備は年齢も立場も気にせず、優れた人材には自ら頭を下げる」と。
そして、この評判を聞いて、多くの士大夫(したいふ)たちが劉備に注目するようになりました。
実際に、諸葛亮の後も優秀な人材が次々と劉備のもとに集まったのです。
つまり、三顧の礼は単なる人材獲得ではなく、劉備の人格と姿勢を世に示す「広告」としての効果もあったのです。



三顧の礼は単なる人材獲得以上の意味がありました。劉備の人格を示すエピソードとして広まり、多くの人材が集まる契機となったのです。
ビジネスシーンでの「三顧の礼」の使い方


三顧の礼は、古代中国の故事ですが、現代のビジネスシーンでも頻繁に使われていますね。
そこで、ここでは実際の使い方と注意点を詳しく解説します。
正しい使い方と例文
三顧の礼は、主に人材を迎える場面で使われています。
特に、優秀だがまだ無名の人を招く時に効果的なんです。
【三顧の礼を使える場面】
- 優秀な若手を自社に招聘する時
- 専門家を顧問やアドバイザーに迎える時
- フリーランスの人材に協力を依頼する時
- 他社から有能な人をヘッドハンティングする時
- 取引先に重要な依頼をする時
それでは、具体的な例文を見ていきましょう。
【ビジネスシーンでの例文】
- 「当社は三顧の礼を尽くして、AI分野で注目される○○氏を技術顧問にお迎えしました」
- 「優秀な人材には、年齢や経歴にとらわれず、三顧の礼で臨むべきだ」
- 「社長自らが三顧の礼で説得に当たった結果、彼は当社への転職を決意しました」
- 「三顧の礼を受けて、彼女は大手企業からベンチャーへの転身を決めた」
- 「我々は三顧の礼をもって、先生に経営アドバイザー就任をお願いしたいと存じます」
- 「ライバル会社で実績を上げた彼を、わが社は三顧の礼を尽くして迎えた」
- 「三顧の礼を尽くして招いた新しいコーチのおかげで、チームは躍進した」
- 「彼のような優秀な人材は、三顧の礼を尽くして迎え入れるべきだ」
ちなみに、これらの例文に共通するのは、「優秀な人を手厚く迎える」という文脈ですね。
また、「三顧の礼を尽くす」という表現が最も一般的であることが分かります。
ビジネスメールや正式な文書では、この「尽くす」をつける形を使うと、より丁寧で格調高い印象になりますよ。
使う時の注意点
三顧の礼は便利な表現ですが、使い方を間違えると失礼になることがあります。
そこで、この表現を使うにあたっての注意点を確認しておきましょう。
1. 目上→目下の関係でのみ使用
三顧の礼は、立場が上の人が下の人に対して使う言葉です。逆の使い方はできません。
❌「私は部長に三顧の礼でお願いしました」 →部下が上司に使うのは不適切
⭕「部長は三顧の礼で、あの若手エンジニアを説得しました」 →上司が部下に対して使うのは正しい
2. すでに功績がある人には不適切
三顧の礼の本来の意味は、「まだ無名だが才能がある人」を招くことです。すでに高い地位や名声がある人には使いません。
❌「ノーベル賞受賞者を三顧の礼で招いた」 →すでに功績がある人には不適切
⭕「無名だが優秀な若手研究者を三顧の礼で迎えた」 →まだ無名の人材に使うのは正しい
ちなみに、すでに有名な人を招く場合は、「三拝九拝(さんぱいきゅうはい)」という別の表現を使います。
3. 「三顧の礼を受ける」も可能
三顧の礼は、受ける側の表現としても使えます。
⭕「三顧の礼を受けて、彼は転職を決意した」
⭕「社長から三顧の礼で迎えられ、光栄に思っています」
また、三顧の礼は格調高い表現ですが、多用すると大げさに聞こえますよ。
そのため、本当に重要な場面でこそ使いましょう。
日本史での三顧の礼
三顧の礼は中国の故事ですが、日本の歴史にも似たエピソードがありますよ。
その代表例が、豊臣秀吉と竹中半兵衛の話です。
戦国時代、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)は、優れた軍師として知られる竹中半兵衛を自分の配下に迎えたいと考えました。
ちなみに、この半兵衛は、わずかな手勢で主君の城を乗っ取ったという逸話もある天才的な戦略家でした。
ただ、主君を見限った後は隠遁生活を送り、人に仕える気はないと言います。
しかし、秀吉は諦めず、何度も半兵衛の庵を訪れ、誠意を尽くして説得を続けました。
その結果、半兵衛も秀吉の熱意と人柄に心を動かされ、ついに仕えることを決意したのです。
この話は、日本版「三顧の礼」と言えますよね?
かの有名な秀吉が、優れた人材の前で何度も頭を下げた姿勢が半兵衛の心を動かしたのです。
その後、半兵衛は秀吉の天下取りに大きく貢献しました。



三顧の礼の教訓は、優秀な人材には年齢や立場を超えて敬意を払うべきということなんです。現代の人材獲得競争においても、変わらぬ真理と言えますね。
類義語・対義語と三国志由来の故事成語
三顧の礼には、似た意味の言葉や反対の意味の言葉がありますよ。
また、三国志からは他にも多くの故事成語が生まれていますね。
そこで、これらを知ることにより、さらに豊かな表現力を身につけることが出来ます。
三顧の礼の類義語
意味:礼を尽くして優秀な人材を招くこと。
「草廬(そうろ)」とは、草葺き(くさぶき)の粗末な家のことです。
劉備が、諸葛亮の草廬を三度訪ねたことから生まれた言葉で、三顧の礼とほぼ同じ意味で使われます。
例:「当社は草廬三顧の心構えで、優秀な人材を迎え入れたい」
意味:何度も礼を尽くして人材を招くこと。
「徴」は召し出すこと、「辟」は招くことを意味します。
三度七度と、何度も招くという意味で、三顧の礼よりも一般的な表現です。
例:「優れた人材には、三徴七辟の姿勢で臨むべきだ」
意味:何度も頭を下げてお願いすること。
「拝」は「おがむ」という意味であり、三顧の礼と似ていますが、重要な違いがあります。
それは、三拝九拝は目上の人に対しても使えるということです。
三顧の礼は目上→目下、三拝九拝は目下→目上も可能、と覚えておくと良いです。
例:「社長に三拝九拝して、新規事業の許可をいただいた」
三顧の礼の対義語
意味:威張って人を見下す態度のこと。
「傲岸(ごうがん)」はおごりたかぶっていること、「不遜(ふそん)」は横柄(おうへい)なことを意味します。
三顧の礼が謙虚な姿勢を表すのに対し、傲岸不遜は高慢な態度を表しており、まさに正反対ですね。
例:「彼は優秀だが、傲岸不遜な態度が鼻につく」
意味:表面は丁寧だが、内心は見下していること。
「慇懃(いんぎん)」はきわめて丁寧なこと、「無礼」は礼儀を欠いていることです。
表面的には丁寧なのに、実は相手を馬鹿にしている形だけの礼儀を指します。
そして、三顧の礼が真心からの敬意であるのに対し、慇懃無礼は見せかけの礼儀です。
例:「あの営業マンは慇懃無礼で、かえって不快だ」
三国志由来の故事成語
三国志からは、三顧の礼以外にも多くの故事成語が生まれていますよ。
意味:私情を捨てて規律を守ること。
諸葛亮が腹心の部下・馬謖を軍律違反で処刑した故事に由来しています。
意味:死後も残る威光で人を畏怖させること。
諸葛亮の死後、敵の司馬懿が「罠だ」と恐れて逃げた故事から生まれました。
意味:勢いが盛んで止められない様子のこと。
竹を割る時、最初の節を割れば後は勢いで割れていく様子から生まれました。
意味:功業を成せず、無為に時間を過ごす嘆きのこと。
劉備が荊州で何もできず、太ももに肉がついたことを嘆いた故事に由来します。
意味:自分を犠牲にしてでも目的を達成する策略のこと。
赤壁の戦いで、呉の黄蓋がわざと鞭打たれて敵に寝返るふりをした故事から生まれました。
このように、三国志は1800年近く前の物語ですが、そこから生まれた故事成語は今も生き続けていますね。
それは、三国志が描く人間ドラマが、時代を超えた普遍性を持っているからなんです。



三国志からは数多くの故事成語が生まれました。それは登場人物たちの生き様が、普遍的な人間の真理を表しているから。現代でも色褪せない教訓ですよ。
まとめ
三顧の礼は、劉備が諸葛亮を軍師に迎えるため三度訪問した故事から生まれた言葉です。
これは、目上の人が礼を尽くして優秀な人材を招くことを意味し、現代のビジネスシーンでも使われています。
当時、46歳の劉備が27歳の諸葛亮のもとを訪ねた破格の対応は、年齢や立場を超えて才能に敬意を払う姿勢を示しました。
また、三顧の礼は、正史『三国志』にも記録され、諸葛亮自身も『出師の表』で感謝を述べており、基本的には史実です。
そして、その後の「天下三分の計」「水魚の交わり」へと続く名場面の始まりでもあります。
この三顧の礼は、人材こそが組織の宝であること、そして優れた人材を得るには謙虚さと誠意が何より大切であることを教えてくれていますね。



三顧の礼の教訓は、能力ある人材には謙虚に接するべきということなんです。プライドを捨てて頭を下げられる柔軟性こそ、真のリーダーの資質と言えますね。
