
呂布の最期って結局どうなったの?



呂布の武勇伝をもっと知りたい
この記事では、こんな疑問にお答えしますね。
- 呂布の生い立ち
- 呂布の主な戦歴
- 呂布と赤兎馬との関係
- 呂布裏切りの真実
- 呂布の最期
- 現代における呂布像


- 歴史大好き女
- 今まで読んだ歴史書籍は日本史&世界史で200冊以上
- 日本史&中国史が得意
- 特に中国の春秋戦国時代や三国時代、日本の戦国時代が好き


- 歴史大好き女
- 今まで読んだ歴史書籍は日本史&世界史で200冊以上
- 日本史&中国史が得意
- 特に中国の春秋戦国時代や三国時代、日本の戦国時代が好き
三国志で呂布と言えば、知らない人はいないほど有名ですよね?
良くも悪くも、この呂布は三国志の武将の中では最強とうたわれている人物です。
赤兎馬に跨り戦場を駆け抜けた姿は、今も多くの人々を魅了していますね。
そんな呂布ですが、その生い立ちや各武勇伝などについて、詳細に知っている人は少ないのではないでしょうか?
そこで、当記事では【完全版】と題して、三国志・呂布奉先の生涯|最強武将の真実と赤兎馬との絆について解説します。
呂布奉先とは?


呂布の出身と生い立ち
呂布は、并州五原郡九原県の出身で、この地区は現在の内モンゴル自治区にあたります。
生年は不詳ですが、北方騎馬民族の地域で育ちました。
ちなみに、北方出身のため、異民族の血を引くという説もあります。
そして、呂布の肖像画が髭なしで描かれることが多いのも、北方民族の特徴を反映しているためなんですね。
また、呂布は並外れた腕力と卓越した弓術・馬術の持ち主でした。
その武勇から、前漢の名将・李広になぞらえ「飛将軍」と呼ばれていたんですね。
これは、空を飛ぶように素早く戦場を駆け巡る将軍という意味です。
「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」の意味
ここで、呂布を語る上で欠かせない言葉があります。
それは、「人中有呂布、馬中有赤兎」です。
この言葉には、「人間の中では呂布が最高、馬の中では赤兎馬が最高」という意味があります。
そして、この言葉は史書『曹瞞伝』に記録されていますね。
呂布が袁紹配下の時、黒山賊の張燕討伐で数百騎を率いて敵陣に突撃し圧倒的な武勇を見せつけました。
この活躍が、この賛辞を生んだのです。
また、これは呉地域の史料にも記録があるため、呂布の名声が全国に響いていたことが分かりますね。
史実と演義で異なる呂布像
呂布について知る時、史実と演義の違いに注意が必要です。
正史『三国志』では優れた騎馬武者として記録され、弓術に秀でていました。
ただ、人格面で厳しく批判され裏切りの多さが強調されています。
また、『三国志演義』では方天画戟を振るう無敵の豪傑として描かれています。
関羽・張飛・劉備の3人を同時に相手にする場面や貂蝉との恋愛物語など、読者に楽しんでもらう意図が分かりますね。
そして、正史では弓の名手でしたが、演義では巨大な戟を振り回すイメージに変わりました。
さらに、陳舜臣の三国志によれば、呂布は色白で涼しげな二枚目だったそうです。



正史では武勇を認めつつ裏切りを批判し、演義では武勇を極端に誇張しされています。史実と創作を分けて理解することで、呂布の本当の姿が見えてきますね。
呂布の生涯年表と主な戦歴
呂布の生涯は激動の連続でした。約10年間に彼の人生が凝縮されています。
【呂布の生涯年表】
年代 | 出来事 | 備考 |
---|---|---|
生年不詳 | 并州五原郡九原県で誕生 | 現在の内モンゴル自治区 |
189年頃 | 丁原の配下となる | 主簿(会計係)に任命される |
189年 | 董卓の誘いで丁原を殺害 | 赤兎馬と高い地位が報酬 |
189年 | 董卓と父子の契りを結ぶ | 騎都尉、中郎将に昇進 |
192年 | 王允の計画で董卓を暗殺 | 奮武将軍、温侯となる |
192年 | 李傕・郭汜に敗れ長安から逃亡 | 董卓の死から60日後 |
193年頃 | 袁紹を頼る | 黒山賊討伐で大活躍 |
194年 | 陳宮・張邈に迎えられ兗州へ | 曹操の本拠地を襲撃 |
195年 | 曹操に敗れ劉備を頼る | 小沛に駐屯 |
196年 | 劉備から徐州を奪取 | 下邳を拠点とする |
197年 | 袁術軍を撃退 | 辞門射戟のエピソード |
198年冬 | 下邳の戦いで包囲される | 曹操による水攻め |
199年2月7日 | 処刑される(絞首刑) | 享年不詳、白門楼にて |
丁原・董卓時代の呂布
呂布は、丁原の配下として史書に登場します。
当時丁原は、呂布を主簿に任命し寵愛していました。
しかし189年、大将軍・何進が宦官に排除され政局が混乱します。
この時、董卓は涼州から軍を率いて洛陽に入り、障害となる丁原を排除しようとしました。
そして、董卓は呂布に赤兎馬という名馬と高い地位を約束し寝返りを促します。
その結果、呂布はこの誘いに乗り丁原を排除して、董卓の配下となったのです。
その後、董卓は呂布を騎都尉、中郎将と昇進させ父子の契りを結びます。
絶大な権力を握った董卓は、常に呂布を護衛として傍らに置いたんですね。
放浪時代と徐州占拠
192年、呂布は董卓排除に加担し、王允とともに朝廷を掌握し奮武将軍となります。
しかし、この政権はわずか2ヶ月で崩壊しました。
李傕・郭汜が涼州兵を率いて長安を襲撃し、王允は排除されたのです。
この結果、呂布は数百騎で逃亡し、中国各地を転々するはめになりました。
そして、放浪していた呂布ですが、放浪先で袁紹の配下になります。
袁紹のもとでは、黒山賊討伐で大活躍しましたが、傲慢な性格が災いし排除されかけて逃亡。
この際、陳宮と張邈が曹操を裏切り呂布を兗州に迎えましたが、曹操との激戦の末に敗れます。
その後、195年に呂布は徐州の劉備を頼りました。
しかし196年、劉備が袁術との戦いで出陣した隙に徐州を占拠してしまいます。
こうして、劉備を裏切った呂布は、ようやく自分の根拠地を得たのです。
下邳の戦いと最期
198年、曹操は自ら大軍を率いて呂布討伐に乗り出します。
この時、陳宮は策を提案しましたが、呂布の妻の懸念により採用されませんでした。
そして、曹操は伊河と泗河の水を城内に引き入れる水攻めを実行。
約3ヶ月の籠城戦の末、呂布軍の侯成・宋憲・魏続が反乱を起こしました。
陳宮と高順も捕らえられ、呂布は白門楼で最後まで抵抗しましたがついに投降します。



短期間にいろいろな出来事があったんですね。



呂布の生涯は約10年に凝縮されています。優れた武勇を持ちながら、群雄として独立した期間はわずか数年。個人の武力と組織の統治力は別物であることを、呂布の生涯は如実に示していますね。
赤兎馬との絆―名馬が支えた飛将軍の武勇
呂布を語る上で赤兎馬は切り離せません。
「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と並び称されたこの名馬は実在したのでしょうか?
赤兎馬の由来と特徴
赤兎馬は、「赤い毛並みを持ち、兎のように素早く走る馬」という意味です。
演義では、西方交易で得た汗血馬とされ、血のような赤い汗を流して走る馬とされています。
そして、赤兎馬の最大の特徴は驚異的な速さで、「一日に千里を駆ける」と伝えられています。
後漢時代の千里は約414キロメートル。
これはもちろん誇張表現ですが、それほど速かったということなんですね。
ちなみに、現代の研究では、トルクメニスタン原産のアハルテケ種がモデルとされています。
中国では現在、アハルテケを「汗血馬」として200頭以上飼育しているそうです。
董卓から呂布へ、そして関羽へ
赤兎馬の最初の持ち主は董卓でした。
しかし、董卓は呂布を引き抜くため赤兎馬を贈ります。
そして、呂布は赤兎馬とともに数々の戦場を駆け抜け抜けました。
袁紹配下での活躍が「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」という賛辞を生んだのです。
その後198年、呂布が処刑されると赤兎馬は曹操の手に渡ります。
演義では、気性が荒く誰も乗りこなせませんでしたが、曹操が関羽に贈ると関羽は見事に乗りこなしたんですね。
関羽は「この馬があれば、兄者の居場所が分かれば一日にして会えます」と答え、劉備への忠義を示しました。
ちなみに、演義では関羽の死後、赤兎馬は関羽に殉じて餓死したと伝えられていますね。
赤兎馬は実在したのか?
赤兎馬は、実在した可能性が非常に高いです。
正史『三国志』呂布伝には「布有良馬曰赤兔」と明確に記されています。
また、『曹瞞伝』には「人中有呂布、馬中有赤兎」とあります。
『後漢書』にも記載があり、複数の史料で確認できます。
ただし、呂布が得てから関羽の死まで約30年経過しており、馬の寿命としては限界に近い長さです。
そのため、途中で代替わりした可能性も指摘されています。



赤兎馬って実在していたんですね。



赤兎馬は複数の史書に記された実在の名馬です。呂布の武勇を支えた最高のパートナーであり、その名声は当時から広く知られていたようです。
二度の主君排除―呂布はなぜ裏切り続けたのか


呂布は「裏切り者」というイメージが強く、実際二度も主君を排除しています。
それでは、なぜ裏切り続けたのでしょうか?
丁原排除の真相
最初の裏切りは丁原の排除です。
189年、董卓は権力を握るため邪魔な丁原を排除しようとしました。
しかし、丁原には呂布がいたため、董卓は呂布を買収する作戦に出ます。
董卓は呂布に赤兎馬、金銀財宝、高い地位を提示しました。
これに対して、呂布はこの誘いに乗り、丁原の首を董卓に差し出したのです。
その結果、董卓は呂布を騎都尉に任命し父子の契りを結びました。
董卓排除の動機
第二の裏切りは192年の董卓排除です。
正史『三国志』には、理由がいくつか記されています。
呂布は、董卓の侍女と密通しており露見を恐れていました。
また、董卓が手戟を投げつけたことがあり、呂布は密かに恨んでいたのです。
そして、呂布が王允を訪ねた際、王允は董卓排除計画を打ち明けます。
呂布は最初「董卓とは父子です」と固辞しましたが、王允に説得され排除に加わりました。
また、王允と呂布は同郷で、同郷意識が後押ししたとも言われています。
ちなみに、演義では王允の養女・貂蝉を使った「連環の計」が描かれます。
貂蝉を呂布に嫁がせると約束しながら董卓に献上し、二人の仲を裂いて呂布が董卓を排除するという筋書きです。
しかし、正史には貂蝉は登場しておらず、貂蝉は完全なフィクションです。
「三姓の家奴」という汚名
演義では、張飛が呂布を「三姓の家奴!」と罵倒しています。
これは、「三つの姓に仕えた奴隷」という意味で、丁原・董卓・呂布自身と三度主君を変えたことへの非難です。
しかし、後漢末期は乱世で、主君を変えること自体は珍しくありませんでした。
呂布の裏切りは、目先の利益に動かされやすく大局観が欠如していたためと言えますね。
【呂布を裏切りへ導いた要因】
- 目先の利益に動かされやすい性格
- 大局観や長期的ビジョンの欠如
- 人を信じられない猜疑心
- 優れた武勇に見合う主君不在



呂布の裏切りは乱世を生き抜くための選択でした。これは、損得勘定で動く冷静さとも言えますが、信頼関係を築けなかったことが最終的な破滅を招いたのです。
下邳の戦いと呂布の最期―飛将軍の悲劇的な結末
曹操・劉備連合軍との戦い
198年冬から199年2月まで、呂布は下邳城で籠城戦を行っています。
陳宮は、「城外に兵を配置し挟み撃ちにしましょう」と提案しました。
しかし、呂布の妻が「あなたが城外に出たら陳宮と高順が協力しないかも」と懸念を示します。
その結果、呂布は妻の言葉を優先し陳宮の策を採用しませんでした。
また、袁術に援軍を要請しましたが拒否されています。
部下の裏切りと投降
曹操は、伊河と泗河の水を城内に引き入れる水攻めを実行しました。
そして、約3ヶ月の籠城戦の末、呂布の配下である侯成・宋憲・魏続が反乱を起こします。
これに関して、『九州春秋』によれば、侯成が馬を取り戻し酒と豚を呂布に献上しました。
しかし、禁酒令を破ったことに呂布が怒ったため、侯成は恐れて曹操に降伏したとされています。
その後、陳宮と高順も捕らえられ、呂布は白門楼で最後まで抵抗しましたがついに投降したのです。
命乞いと処刑の真実
捕らえられた呂布は、曹操に降伏を申し出ます。
「あなたが歩兵を率い、私が騎兵を率いれば天下を平定できます」と説得しました。
この時、曹操は一瞬呂布を配下にすることを考えたようです。
しかし、劉備が「丁原と董卓のことをお忘れではありますまいな」と進言し、曹操は呂布を処刑することを決意しました。
その結果、呂布は絞首刑に処され、首は斬られて許都でさらされた後に埋葬されたのです。



呂布の最期には複数の解釈が存在します。命乞いをした姿と部下を思いやる優しさ、両方が呂布の真実でしょう。最強の武将が戦場で華々しく散れなかったことは悲劇ですが、それも乱世の現実を物語っています。
呂布のエピソード
呂布最期のとき
演義では、呂布が命乞いする場面が強調されていますが、『後漢書』呂布伝には別の記述があります。
追い詰められた呂布は部下に、「自分の首を取り、曹操に降伏せよ」と伝えたといいます。
しかし、部下たちは呂布を慕っており首を取れなかったのです。
このように、呂布には最期まで部下に慕われていた一面もあったのです。
辞門射戟
これも、演義の有名なエピソードです。
196年、袁術軍と劉備軍が衝突しかけたことがありました。
この時、呂布は150歩(約200メートル)離れた戟に矢を命中させ、「天の意思」として戦を止めました。
これが、「辞門射戟」として語り継がれる神技です。
そして、これは呂布の弓術の腕前だけでなく、彼なりの知恵と外交術も示しています。
ちなみに、辞門射戟については正史にも記録があり、呂布は酔っていても百発百中だったと伝えられています。
呂布の評価と後世への影響


史書における呂布の評価
正史『三国志』を編纂した陳寿は、呂布について厳しい評価を下しています。
「呂布には虎のような勇猛さがあったが、謀略に欠け、軽率で信義がなかった。このような人物が破滅しなかった例はない」
その武勇は高く評価しつつも、二度の主君排除と目先の利益で動く性格を批判しました。
そして、『後漢書』も「勇猛だが志が小さく、人の言うことを聞かなかった」と同様の評価です。
つまり、史書の評価は「最強の武将だが、最悪の君主」でした。
群雄の器ではなく、配下として活躍すべき武将だったのです。
もっとも、配下にしても裏切っていた可能性は十分考えられますけど。
後世の創作における呂布
時代が流れるにつれ、呂布のイメージは大きく変化していきます。
京劇・ドラマ: 中国の京劇では、呂布は二枚目俳優が演じる人気役です。董卓暗殺を描いた「鳳儀亭」が有名で、貂蝉との恋愛が美しく描かれます。
日本の作品: 吉川英治や横山光輝の作品では豪快な武将として、北方謙三の『三国志』では妻に忠実で情に厚い人物として描かれ、多様な呂布像が生まれました。
ゲーム: 『三國無双』シリーズでは、圧倒的な強さを持つラスボス級の存在として、『三国志』シリーズでは武力最高値(100)だが知力・政治力は極端に低く設定されていますね。
現代から見た呂布像
現代の視点から呂布を見ると、様々な教訓が見えてきます。
個人の能力と組織運営の違い: 呂布は個人としては最強でしたが、組織のトップには向いていない。能力と役割の適性は別物という教訓です。
信頼関係構築の重要性: 優れた部下がいながら彼らの進言を聞かなかった呂布。どんなに能力が高くても、信頼されなければ成功は難しいのです。
短期的利益と長期的ビジョン: 呂布は常に目先の利益で動きました。長期的なビジョンがなかったため、行き場を失い続けたのです。



呂布の破滅的な生き様こそが人々を惹きつけ、後世まで語り継がれる理由となっています。完璧ではない人間臭い武将だからこそ、1800年経った今も多くのファンを魅了し続けているんですね。
呂布についてよくある質問(FAQ)
- 呂布は本当に三国志最強の武将だったのですか?
-
個人の武勇では間違いなく最強クラスでしたね。正史でも「飛将」と称され、演義では関羽・張飛・劉備の3人を同時に相手にした場面が有名です。ただし、統率力や戦略眼では他の群雄に劣っていました。
- 呂布が使っていた武器は何ですか?
-
演義では方天画戟という特殊な戟を使い、重さは約12キログラムとされています。ただ、正史には具体的な武器の記述はなく、弓術に優れていたことが強調されています。
- 貂蝉は実在した人物ですか?
-
貂蝉は演義の架空の人物です。正史には「董卓の侍女と密通していた」という記述がありますが名前は記されていません。そこで、演義がこの侍女を貂蝉として創作しました。中国四大美女の一人とされますが、他の三人は実在の人物です。
- なぜ曹操は呂布を処刑したのですか?
-
呂布が丁原と董卓という二人の主君を排除していたためです。曹操は、呂布の武勇を評価し配下に加えることを考えましたが、劉備の進言で呂布を信用できないと判断しました。裏切りの前例がある人物を重用するリスクを避けたのです。
- 呂布は最期に何と言ったのですか?
-
正史によれば「あなたが歩兵を率い、私が騎兵を率いれば天下を平定できます」と説得しました。処刑が決まると劉備に「辞門射戟で助けてやった恩を忘れたのか!」と罵ったと演義では描かれています。
【よくある誤解】
- ×「呂布は知能が低かった」→実は状況判断力はあった
- ×「赤兎馬は架空の馬」→正史に実在の記録あり
- ×「方天画戟が呂布の武器」→演義の創作、正史では弓術が得意
- ×「貂蝉が董卓暗殺の原因」→正史では政治的な理由が主



呂布に関する疑問の多くは史実と演義の混同から生まれています。正史では武勇に優れるも人格に問題があった武将、演義では最強の豪傑として脚色されていますね。
まとめ
呂布奉先は、三国志最強の武将として知られ、赤兎馬に跨り「飛将軍」と称されました。
並外れた武勇を誇りながらも、丁原と董卓という二度の主君排除で「裏切り者」の汚名を背負います。
そして、史実では優れた騎馬武者で弓の名手、演義では方天画戟を振るう無敵の豪傑として描かれました。
袁紹、曹操、劉備のもとを転々とし、最終的に徐州を拠点としますが、198年の下邳の戦いで曹操に敗北。
その後、部下の裏切りにより捕らえられ、199年2月7日に処刑されました。
個人の武力は、三国志武将の中で最強でも組織統治力に欠け、わずか10年の激動の生涯を終えた呂布。
その破滅的な生き様が、今も多くの人々を魅了し続けているんですね。



呂布は三国志の中でも個性派武将として、その歴史に大きく名を残しています。