三国志において重大なイベントの中に「桃園の誓い」があります。
これは、若き日の劉備、関羽、張飛が義兄弟の契りを結んだことで有名です。
ただ、何故桃園の誓いが結ばれたのか?その背景や真実について良く分からないという人は多いです。
そこで、当記事では三国志桃園の誓いの知られざる真実について解説します。
桃園の誓いとは?

「桃園の誓い」とは、『三国志演義』の序盤に登場する有名な逸話の一つです。
主人公である劉備(りゅうび)、関羽(かんう)、張飛(ちょうひ)の三人が、生死を共にし、義兄弟として乱世を乗り越えることを誓った物語です。
そして、この三人の固い絆は、生涯にわたって三国志の重要な象徴となり、後世の人々にも強い印象を与えました。
ただ、この逸話は歴史小説『三国志演義』における創作であり、史実には含まれないとも言われているのです。
桃園の誓いが、史実ではないとすると、かなり残念な感じになりますよね。
桃園の誓いが起きた時代背景
桃園の誓いが交わされた背景には、漢王朝末期の混乱した状況があります。
この時代、中国全土では黄巾の乱と呼ばれる大規模な農民反乱が発生していました。
政府の腐敗や重い税負担に苦しむ人々の不満が高まり、世情が乱れる中で、地方豪族や若き志士たちが立ち上がりました。
そして、義勇兵を率いて秩序の回復を目指す動きが見られるようになります。
劉備、関羽、張飛の三人もまた、こうした乱世の中で力を合せて時代を変えていこうと誓ったのです。
劉備・関羽・張飛の出自と境遇
三国志演義によると、三人が出会った経緯は、涿県(たくけん)の酒場で偶然顔を合わせたことから始まります。
劉備は、漢王朝皇族の末裔とされるものの裕福ではなく、草履を編んで生計を立てる日々を送っていました。
関羽は、人並み外れた体格と武勇を持つ元流浪者で、張飛は酒豪で荒々しい性格ながらも豪快な農夫でした。
そして、この三人は黄巾軍と戦うための義勇兵募集の場で意気投合し、その後、義兄弟となることを誓います。
劉備が関羽や張飛を雇用した説
一部の研究者の間では、劉備は関羽や張飛を雇用した関係から始まったのではないかとする説もあります。
劉備は、中山靖王の末裔であったものの、若い頃は生計を立てるのに苦労していました。
そして、関羽は武芸に秀でた移住者、張飛は裕福な地主の出身であったため、彼らの力が劉備にとって頼りになる存在であった可能性があります。
こうした、広い意味での雇用関係からスタートした友情と信頼は、やがて兄弟以上の絆へと発展していったと考えられています。
義兄弟の契りの意味
義兄弟の契りとは、血縁ではなく精神的に結ばれる絆を意味します。
桃園の誓いにおいて、劉備は兄、関羽は次男、張飛は末弟として、秩序を尊重し同じ志を持つ者同士としての結束を示しました。
そして、この「義兄弟」という概念は、戦乱の中で生死を共にする覚悟を示す象徴として描かれています。
桃園の具体的な場所
劉備、関羽、張飛の三人が、義兄弟の契りを結んだ場所として伝わるのが「桃園」です。
涿県近郊にある桃園の地は、春には桃の花が咲き誇る美しい場所として描かれています。
この自然豊かな風景の中で契りを交わしたことは、三人の絆の美しさや清らかさを象徴しています。
そして、この桃園という地名そのものが、その後の三人の忠誠や信念を象徴する言葉として使われるようになりました。
三国志演義と史実との違い
三国志における「桃園の誓い」の史実性については、様々な議論があります。
歴史書である三国志正史には、劉備、関羽、張飛が義兄弟としての契りを交わしたという記述は存在しません。
ただ、この三人の間には強い絆が確認されていることも事実です。
この点から、一般的に桃園の誓いは、羅貫中が書いた三国志演義の中で、三人の結束を象徴的に描いた創作であると考えられています。

え?これだけ有名な桃園の誓いは、実際には無かったの?



そうそう、この桃園の誓いは三国志演義での創作と言われているよ。
三国志演義における桃園の誓いの脚色部分
三国志演義では、史実に基づきながらもフィクションの部分が多分に含まれています。
そして、これは桃園の誓いにも当てはまるのです。
羅貫中による創作とその後の伝承
三国志演義の著者である羅貫中は、基本的には正史三国志に記された出来事に基づきながら執筆しています。
ただ、史実について数多くの脚色を加えて物語を生き生きとしたものに仕上げました。
その中でも、この桃園の誓いは、物語の冒頭を彩る大きな見せ場として位置づけられています。
この逸話は、実際には正史に記録がなく、完全な創作と考えられています。
しかし、中国各地の民間伝承や当時の演劇、逸話の影響を受けた結果、義兄弟の契りというテーマを強調することで、三人の英雄像を描いたのです。
特に、混乱する乱世の中で、友情や忠誠を訴えるこの場面は、当時の読者や聴衆により強く響いたことでしょう。
義弟としての関羽と張飛の描かれ方
三国志演義の中で描かれる関羽と張飛は、劉備を長兄として支える義弟として描かれ、その忠実さと献身的な姿勢が際立っています。
関羽は知恵と忠義を象徴し、張飛は勇猛さと純粋な情熱を象徴する存在となっています。
また、彼らは劉備を中心とする結束の象徴として、桃園の誓いを通じて三者一体の理想を体現しました。
この描写は、三人を単なる武将ではなく、兄弟としての絆に結ばれた特別な関係として描かれているのです。



三国志演義による桃園の誓いは、劉備、関羽、張飛が特別な絆で結ばれていたことを表現する意味で描かれていたようです。
史実における劉備・関羽・張飛の関係


史実と三国志演義では、異なる部分がそれなりにあります。
そこで、ここでは史実における劉備と関羽、張飛の関係について解説します。
正史『三国志』が語る三人の結束
正史三国志において、劉備、関羽、張飛の関係は非常に強いものであったと記録されています。
彼らが兄弟の契りを交わしたという記述はないものの、長年にわたり劉備の側近として深い信頼関係を築いていたことが確認されています。
特に、関羽と張飛は、劉備の軍の初期から重要な役割を果たし、後の蜀漢建国においてもその影響力を発揮しました。
これが、桃園の誓いとして物語化された背景とも言えます。
兄弟同然の忠誠と絆そしてエピソード
正史三国志の中には、劉備・関羽・張飛の絆を象徴するエピソードは数多く存在しています。
例えば、関羽が捕虜となった際も劉備を裏切らず、曹操の軍を離れて再び戻ってきたことです。
また、張飛も武勇をもって劉備を支え、危機的状況においても劉備を救うために戦う姿勢を見せています。
この関羽と張飛の忠誠心と絆は、血の繋がりを超えた兄弟愛を感じさせるものであり、これが桃園の誓いという物語の基盤となったと考えられます。



劉備、関羽、張飛の三人は、まるで兄弟のように強い絆で結ばれており、ともに戦場を駆け抜けていたのです。
桃園の誓いの影響とその後
桃園の誓いは、その後の三国志へ大きな影響を与えています。
黄巾の乱への義勇兵参加
桃園の誓いを結んだ劉備、関羽、張飛の三人は、すぐに乱世を生き抜くための行動を開始しました。
その最初の試練が、三国志の始まりとも言える黄巾の乱への対応でした。
この乱は、後漢末期に勃発し、農民たちが不安定な社会の中で立ち上がった大規模な反乱です。
三国志演義では、劉備たちは義勇兵を募り、連携して黄巾党を撃退するために奮戦しています。
この際、三兄弟が互いに助け合い信頼関係を深めていく様子が描かれています。
黄巾の乱への参加は、彼らの絆を強固にし、桃園の誓いの理念である困窮する者たちを救うという志を示した重要な出来事だったのです。
三人の絆が蜀漢建国に果たした役割
桃園の誓いから始まった三兄弟の絆は、蜀漢の建国において重要な役割を果たしました。
劉備は、力強い統率力と人望を備えたリーダーであり、関羽と張飛はそれを支える武勇と忠義を示しました。
彼らは、共に協力して乱世を戦い抜き、最終的には蜀漢という国を建国したのです。
この過程の中で、三兄弟の関係は単なる義兄弟の契りを超えた戦友として、深い絆で結ばれています。
その結果、蜀漢は魏・呉と三国鼎立の一角を担うまでに至ったのです。
関羽亡き後の三兄弟の終焉
三国志におけるクライマックスの一つは、関羽の敗北によって訪れます。
荊州を巡る戦いの中、関羽は敗北し、孫権軍に捕らえられ亡くなったのです。
この出来事は、劉備にとって深い衝撃を与え、彼は関羽の仇討ちを決意します。
しかし、これが後の失策につながり、蜀漢にとって大きな打撃となってしまいます。
最終的には、張飛も部下に襲われ亡くなり、三兄弟の絆は永遠の別れを迎えます。
彼らの運命の終焉は、桃園の誓いに込められた誓約が生死を共にすることを意味していたのです。



最後、関羽は孫権から配下の誘いを受けたが断ったと言われていますが、これも本当にそうだったのか?はっきりしていません。
まとめ
三国志における、最初のイベントが桃園の誓いです。
この桃園の誓いでは、劉備、関羽、張飛が生涯において義兄弟の契りを交わす場面が描かれています。
ただ、正史には桃園の誓いが行われたという記述はなく、三国志演義の創作という考えが一般的です。
しかし、正史では関羽、張飛が生涯において劉備に忠誠を誓っており、強い絆で結ばれていたことも事実です。
そのため、桃園の誓いは史実にはないものの、劉備、関羽、張飛の絆の深さを表す意味においても重要な描写と言えます。



正史には記述がない桃園の誓いですが、三国志ファンにとっては劉備、関羽、張飛が強い絆で結ばれた出来事としてその心に残っています。