
荀彧はなんで曹操と対立したの?



荀彧がなぜ献帝を擁立したのか?知りたい
この記事では、こんな疑問にお答えしますね。
- 荀彧の人物像
- 曹操との出会い
- 荀彧が献帝を擁立させた理由
- 曹操軍における荀彧の功績
- なぜ荀彧と曹操は対立したのか?
- 荀彧の最期について
- 荀彧のエピソード


- 歴史大好き女
- 今まで読んだ歴史書籍は日本史&世界史で200冊以上
- 日本史&中国史が得意
- 特に中国の春秋戦国時代や三国時代、日本の戦国時代が好き


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三国志で荀彧と言えば、諸葛孔明と並んで天才軍師と呼ばれている人物です。
この荀彧ですが、曹操配下として数々の戦場において勝利に導きました。
ただ、晩年は曹操との対立によりその命を落としてしまいます。
曹操に仕官したものの、その手によって最期を迎えてしまうなんて、悲しい人生ですね。
そこで、当記事では天才軍師荀彧!曹操への仕官と矛盾に満ちた人生について解説します。
荀彧とはどんな人物?


荀彧は字を文若といい、豫州潁川郡潁陰県の出身で、163年に生まれました。
荀彧は、性悪説で有名な思想家・荀子の子孫とされており、祖父の荀淑は朗陵県令を務めた人物だった。
ちなみに、荀淑は当時の権力者である梁冀一族を批判したことで名声を得ました。
「神君」と呼ばれるほどの硬骨漢で、8人の息子は「八龍」と称されたんです。
このように、荀彧の家系からは多くの優秀な人材が輩出されたんだね。
また、荀彧は、若い頃から才名が高く「王佐の才」(帝王を補佐できる資質)を持つと称賛された。
南陽の名士・何顒も荀彧を見て「これは王佐の才だ!」と驚嘆したという記録が残っています。
イケメン軍師としての評判
実は荀彧、容姿端麗なイケメンとしても有名だったんですよね。
毒舌家として知られる禰衡でさえ、荀彧の「涼しげな風貌」については認めていた。
正史では、珍しく容姿について言及される人物で、その端正な顔立ちは内外で評判だったのです。
荀彧の魅力ポイント:
- 戦略家としての卓越した知略
- 名門出身の品格と教養
- 周瑜にも匹敵するイケメン
- 多数の優秀な人材を推挙する人脈力



荀彧が若くして「王佐の才」と評された背景には、単なる知力だけでなく名門の血統と教養、そして人を惹きつける容姿や人柄があった。これらの要素が組み合わさり、後に曹操の覇業を支える礎となったんだね。
荀彧の生涯年表 – 動乱の時代を駆け抜けた50年
ここで、荀彧の主な出来事を時系列で見てみましょう。
年代 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
163年 | 0歳 | 潁川郡で誕生 |
189年 | 26歳 | 孝廉に推挙され守宮令に |
189年 | 26歳 | 董卓の横暴を見て帰郷を決意 |
191年 | 29歳 | 袁紹を見限り曹操に仕える |
194年 | 32歳 | 呂布の反乱時、兗州三城を死守 |
196年 | 34歳 | 献帝迎入を提言、侍中・尚書令に |
200年 | 38歳 | 官渡の戦いで曹操を励まし勝利に貢献 |
208年 | 46歳 | 赤壁の戦い前後から表舞台から消える |
212年 | 50歳 | 曹操の魏公就任に反対、寿春で死去 |
袁紹を見限り曹操の元へ – 運命の選択
戦乱を予見した先見の明
189年、董卓が権力を握ると荀彧は危険を察知し、故郷の潁川郡の人々に避難を勧めた。
しかし、故郷の人々は動こうとしなかったため、荀彧は一族だけを連れて冀州へ避難したのです。
その数ヶ月後、予言通り潁川郡は李傕や郭汜の軍勢に蹂躙され、多くの人々が犠牲になっています。
これは、まさに荀彧の予見は的中したと言えますね。
「わが子房が来た」
冀州では、袁紹に上賓として迎えられました。
しかし、荀彧は袁紹では天下を取れないと見抜き、東郡にいた曹操の元へ赴いたのです。
そして、曹操は荀彧を迎えると「わが子房である」と大いに喜びました。
ちなみに、子房とは、前漢の劉邦を支えた名軍師・張良の字のこと。
曹操が自分を劉邦になぞらえ、荀彧を張良に例えたこの言葉は、荀彧への最大級の評価を示していますね。
これは191年、荀彧29歳の時であり、この運命的な出会いが、後の三国時代の流れを大きく変えることになったのです。



名門出身で「王佐の才」を持つ荀彧にとって、凡庸な主君に仕えることは最大のリスクなのです。袁紹を見限り曹操を選んだ眼力こそが、荀彧の真価を示していますね。
荀彧の主要な功績 – 曹操の覇業を支えた知略


兗州三城の死守
194年、曹操が徐州を攻めている間に、陳宮や張邈が呂布を引き入れて謀反を起こしました。
これにより、兗州の大半が呂布に寝返る中、荀彧は程昱と協力して鄄城・范・東阿の三城を死守したのです。
この時、荀彧はすぐに謀反を見破り、夏侯惇と連携して反乱分子を一掃し、曹操が戻るまで拠点を守り抜きました。
この功績がなければ、曹操は根拠地を失い歴史から消えていたかもしれませんね。


献帝迎入の献策
196年、長安を脱出して洛陽に逃れていた献帝を、荀彧は曹操にただちに保護するよう献策しました。
この提案に対して、曹操は献帝を許に迎え入れ、曹操は大将軍、荀彧は侍中・尚書令となったのです。
その結果、献帝を擁することで、曹操軍は「官軍」となり、大躍進を遂げることになりました。
ちなみに、袁紹も献帝を迎えるべきだという意見があったが実行できず、後で後悔したという記録が残っていますね。
優秀な人材の推挙
荀彧が推挙した代表的な人材には、鍾繇、程昱、郭嘉、司馬懿、荀攸などがいました。
特に、策謀の士として戯志才を推挙し、その死後は郭嘉を推挙していますね。
ちなみに、郭嘉は三国志を代表する軍師として曹操の覇業を支えた人物です。
また、荀彧自身が多忙な時は、荀攸と鍾繇を曹操の幕僚として推薦しています。



献帝迎入の献策は、曹操に「漢王朝の後継者」という大義名分を与え、その後の躍進の基礎を築きました。荀彧なくして曹操の天下はなかったと言えますね。
官渡の戦い – 勝利を決めた一通の手紙
最大の危機と荀彧の励まし
200年、曹操と袁紹が雌雄を決した官渡の戦いは持久戦となり、曹操軍は兵糧不足に苦しみました。
そして、弱気になった曹操は許昌を守る荀彧に「引き返すことで袁紹軍をおびき寄せて滅ぼす」と撤退を希望する手紙を送ったのです。
これは、実質的には「もうダメかもしれない」という弱音だった可能性があります。
荀彧の分析と予言
荀彧はこれを強く諌め、「内情を見るに必ず袁紹軍に変事があるので、奇策を用いる機会を逃さなければ勝てます」と進言しました。
ちなみに、この手紙には袁紹と曹操の比較分析も含まれていたんですね。
- 袁紹は人を集められるが適材適所に配置できない
- 曹操は少数精鋭で人材を最大限活用できる
- 袁紹は決断力に欠け、曹操は機を見て敏な判断ができる
- 今は耐える時だが、必ず敵陣に変化が起きる
予言の的中と勝利
荀彧の予言通り、袁紹軍から許攸が寝返り、烏巣の兵糧庫の位置を教えてくれました。
この結果、曹操は奇襲部隊で烏巣を急襲し、袁紹軍の兵糧を焼き払うことに成功したのです。
そして、この戦いが官渡の戦いの決定的な転機となりました。



曹操でも弱気になることがあったんですね。



曹操が最大の危機に直面した時、的確な分析と励ましで支えています。これこそが参謀の真髄であり、荀彧が「わが子房」と呼ばれた理由なのかもしれませんね。
曹操との対立と悲劇の最期
魏公就任をめぐる亀裂
208年の赤壁の戦い前後から数年、荀彧の名は表舞台から消えています。
この理由として、北方を平定し南方への進出を図る曹操と、漢王朝の復興を願う荀彧の間に、次第に溝が生まれていたんですね。
そして、212年、権力を増した曹操が「魏公」に昇る意思を強めた時、荀彧は断固として反対しました。
荀彧は「公(曹操)が義兵を起こしたのは朝廷を救い国家を安定させるためであり、君子は徳をもって人を愛するものだ。そのようなことをするのは宜しくない」と進言しています。
ちなみに、この魏公という地位は、皇帝に並ぶ存在への第一歩と受け止められていました。
このように、荀彧にとって、これは漢王朝を軽んじる行為に映ったことでしょう。
寿春での悲劇の最期
曹操は献帝に上奏し、荀彧を許都から呼び出して自軍の行事に参加させています。
これは、荀彧にとってそれまでにない形で従軍を強いられたのです。
そのため、荀彧は寿春にて「以憂薨」(憂いをもって没した)と記されています。
享年50歳でした。
しかし、正史『三国志』では病死とも自害ともはっきり書かれていないんですよね。
空箱の伝説は真実か創作か
三国志演義では、曹操から食物を贈られています。
ただ、器を開けると中は空っぽで、荀彧は曹操の意を悟って毒薬を飲んで自害したことになっています。
しかし、この逸話は『魏氏春秋』という史書に記載されているが、史実かどうかは議論が分かれています。
空箱は「もう用はない」という曹操からのメッセージだったという解釈が一般的ですね。
この真実は歴史の闇の中ですが、少なくとも曹操との関係が冷え込んでいたことは間違いありません。



荀彧は最後まで漢王朝への忠義を貫き、権力に屈しませんでした。たとえ曹操に煙たがられようと、自分が正しいと信じたことを主張し続けたんですね。
荀彧の興味深いエピソードを4つ紹介


1. 危機を予見した避難勧告
189年、董卓が権力を握ると荀彧は故郷の潁川郡の人々に戦乱を予見して避難を勧めました。
しかし、人々は信じず動かなかったんですね。
そのため、荀彧は一族だけを連れて冀州へ避難しています。
そして、数ヶ月後に予言通り潁川郡は李傕・郭汜の軍勢に蹂躙されました。
この先見の明が、後に曹操から高く評価される理由の一つとなっています。
2. 呂布の謀反を一瞬で見破る
194年、曹操が徐州を攻めている間に、張邈が呂布を引き込んで謀反を起こしています。
この時、荀彧の守る鄄城に「呂布が曹操の援軍にやってきた」と使者が来たが、荀彧はすぐに謀反を見破っています。
そして、迅速に夏侯惇と連携して反乱分子を一掃し、兗州三城を死守したのです。
この機転がなければ、曹操は根拠地を失っていた可能性が高いです。
3. 毒舌家も認めたイケメン
毒舌家で有名な禰衡が「文若(荀彧)は弔問に行くのがお似合いだ」と皮肉っています。
注者の裴松之は、これを「悪口ばかり言う禰衡も荀彧の風采の良さだけは認めた実例」として挙げているのです。
また、陳寿の評にも「涼しげな風貌」とあり、荀彧は容姿端麗だったと思われます。
4. 曹操への最後の諫言
212年、曹操が魏公になろうとしていました。
そこで、荀彧は、「公が義兵を起こしたのは朝廷を救うためであり、君子は徳をもって人を愛するものだ。そのようなことをするのは宜しくない」と断固反対したのです。
これは、曹操の腹心の中で唯一反対の姿勢を取ったのですが、これが最期の悲劇に繋がりました。
理想と現実の狭間で、かなり苦悩した荀彧の姿が象徴的に表れているエピソードですね。



荀彧のエピソードは、卓越した知性と先見性を持ちながらも、漢王朝への忠義を貫いた悲劇性を物語っていますね。
後世に語り継がれる荀彧の評価
民間伝承や『三国志演義』における荀彧像
荀彧は、後世の民間伝承や『三国志演義』においても、その聡明さと品格を持った賢臣として描かれています。
三国志演義では、彼の人格や行動がドラマティックに脚色され、感情の起伏や葛藤が強調されています。
特に、曹操の魏公推戴に際して、漢王朝への忠誠心から反対した場面は、読者の心に強い印象を残しました。
また、民間の伝承では、「荀令君」として親しまれ、地域社会において優れた道徳的模範の象徴となっています。
こうした物語や伝承は、荀彧を一層魅力的な存在として後世に伝える役割を果たしているのです。
漢王朝忠臣としての再評価
近年の研究では、荀彧が持っていた漢王朝への忠誠心に再び注目が集まっています。
漢王朝末期の混乱の中で、彼はあくまで漢室の復興を掲げ、そのために曹操を利用したと考えられます。
この姿勢は、単に忠義という道徳的観点から評価されるだけではありません。
自分の置かれている状況下において、現実的な選択を迫られた「政治的リアリズム」の一側面としても再解釈されているのです。
また、『三国志』や『三国志演義』では曹操と対立する場面が印象的に描かれています。
しかし、背後にある信念や背景を掘り下げることで、荀彧は単なる補佐役を超え独立した存在としての価値が再認識されています。
こうした再評価は、彼の物語をより深く知る手がかりとなりますね。



天下統一という目標と漢王朝への忠義、現実と理想の狭間で苦悩した荀彧。その姿は1800年以上経った今でも、多くの人々の心を打つんですね。
まとめ
荀彧は、漢王朝の復興が目的で曹操に仕官しています。
そして、数々の戦いにおいて曹操を助け、それが漢王朝の復興に繋がると考えていたようです。
しかし、自身の権力が大きくなるにつれて、曹操は漢王朝の象徴である献帝を軽視するようになります。
これに対して、荀彧は激しく反対しますが、これが曹操の怒りにふれ引導を渡されてしまうのです。
自身の夢と現実との乖離に、荀彧はとても無念だったかの知れません。



漢王朝復興の夢が遠のいていく過程で、荀彧は絶望していったのかも知れないですね。