
魯粛って具体的には何をした人なの?



赤壁の戦いで魯粛が何をしたのか?が知りたい
この記事では、こんな疑問にお答えしますね。
- 運命を変えた周瑜との出会い
- 魯粛が提唱した天下二分の計の内容
- 赤壁の戦いで魯粛が果たした役割
- 魯粛亡き後の呉の変化


- 歴史大好き女
- 今まで読んだ歴史書籍は日本史&世界史で200冊以上
- 日本史&中国史が得意
- 特に中国の春秋戦国時代や三国時代、日本の戦国時代が好き


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魯粛と言えば、孫権配下で呉の裏方として外交や同盟の調整役として活躍した人物です。
そして、この魯粛ですが、実はかの有名な赤壁の戦いにおける影の立役者と呼ばれています。
ただ、何故魯粛が赤壁の戦いで功労者と呼ばれているのか?についてはあまり知られていません。
そこで、当記事では赤壁の影の立役者!魯粛と「天下二分の計」について解説します。
魯粛とは?


魯粛(ろしゅく)は、漢末三国志時代を代表する人物の一人で、字(あざな)を子敬(しけい)と言います。
172年、徐州臨淮郡東城県(現在の安徽省定遠県南東部)に生まれました。
彼は、幼少期に父を亡くしたため、祖母の手で育てられています。
そんな魯粛ですが、裕福な豪族の子として生まれたものの、その豊かな資産を投じて困っている人々を助ける活動を行っていました。
また、少年期から剣術・馬術・弓術などの武芸や兵法を学び、自ら私兵を養成し訓練するなど、早くから軍事面で非凡な才能を発揮していたのです。
しかし、これらの行動は当時の社会で異端とされることもあり、地元の長老から「魯家に気違いが生まれた」と評された逸話も残されています。
運命を変えた周瑜との出会い
魯粛の人生において重要な転機となったのが、周瑜との出会いです。
当時、周瑜は居巣県の長として活動しており、魯粛に支援を求めます。
これに対して魯粛は、倉庫に蓄えられていた財産の半分を惜しみなく提供し、これにより周瑜との深い友情が築かれたのです。
この行動からも分かる通り、魯粛は豪胆かつ温厚な性格の持ち主であったと言えますね。
そして、魯粛の評判が高まった結果、袁術の配下となり東城県の長に任命されました。
しかし、袁術の優柔不安な行動を目の当たりにし、魯粛はこれに失望してしまいます。
その結果、魯粛は周瑜を頼って呉へと移動し、孫権の陣営へ参加したのです。
温厚さと大胆さの両面を兼ね備える
魯粛の人物像を語る上で、とても重要なことがあります。
それは、その温厚さと大胆さが絶妙に交じり合っていた点です。
正史『三国志』の記録によると、彼は体が大きく立派であり、他者を思いやる優しさを持っていました。
ただ、必要な場面では豪胆な策を用いることも躊躇なく行っていたんですね。
また、彼は奇計を好み、単なる理論家ではなく、具体的な策をもって実践へと移す行動力もありました。
このような性格は、赤壁の戦いにおいて孫権と劉備の連携を主張した行動からも間違いないですね。
その一方で、『三国志演義』においては、優柔不断で他者に従順な一面を強調されています。
そのため、実際の像とは異なる部分も多く描写されました。
しかし、正史においてその業績や実直さが評価されていることから、彼の本質はむしろ大胆さと鋭さを兼ね備えた人物であったと考えられています。
裏方としての活躍と低評価の背景
魯粛は、その生涯において、表舞台に華々しく登場することは少なく、主に裏方として活躍しました。
彼が、孫権軍において担っていた重要な役割の一つが、外交や同盟の調整役です。
赤壁の戦い後、劉備陣営との交渉を主導し、荊州問題の均衡を保つために尽力した結果、呉の安全と国力は大きくなったのです。
ただ、このような周囲を支える働きは、しばしば過小評価されがちだったことも事実です。
特に、諸葛亮や周瑜といった同時代の英雄たちの陰に隠れる形となり、その評価が上がることはなかったのです。
また、『三国志演義』において、誇張された優柔不断なキャラクター像も、彼の真の価値を誤認させる要因となっていますね。
しかし、魯粛の裏方としての活動が、呉という国家を長期的に支えることになったことは間違いありません。



魯粛って元々袁術の配下だったんだ?



そう、最初は袁術についていたけど、見切りをつけて孫権の配下になったのです。
天下二分の計とは?
三国志では、諸葛亮の天下三分の計が有名ですが、実は魯粛も天下二分の計を提案していたことが分かっています。
曹操の勢力拡大と呉の危機という背景
三国志の中で、天下二分の計が提案された背景には、曹操の勢力拡大による呉への脅威が大きく影響しています。
曹操は、北方を着実に掌握し、関中や中原の有力者らを討伐することで、圧倒的な軍事力を誇っていました。
そのため、江南の地を治める呉は、長江を境に防衛を固めていたのです。
しかし、曹操の軍事力拡大を前にして危機感を募らせていました。
特に、曹操が荊州まで進出し劉表を破ったことで、次は呉を直接攻める可能性が現実味を帯びてきたのです。
このままでは、孫権率いる呉が単独で曹操に対抗するのは困難であり、呉は滅亡の危機に立たされていました。
そこで、魯粛は単なる防衛ではなく、積極的な策として「天下二分の計」を構想したのです。
天下二分の計とは孫権・劉備の連携論
魯粛が提案した天下二分の計とは、一言でいえば孫権と劉備が連携し、曹操に対抗するという戦略です。
当時、劉備は荊州を失ったものの一定の実力を保ち、曹操に敵対する意志を持っていました。
そこで、魯粛はこの状況を利用し劉備と結びつくことで、曹操の一極支配を阻止する道を選んだのです。
具体的には、孫権が長江以南を確保し、劉備に荊州を分与することで、両者が協力して曹操と対峙するという戦略です。
そして、この連携はただの防衛協定ではなく、赤壁の戦いに向けた同盟関係としても機能しました。
そのため、魯粛はこの戦略を推進すべく劉備との交渉に尽力し、劉備と孫権の間に今後の進むべき道筋を説いたんですね。
天下三分の計との違い
魯粛の天下二分の計と、諸葛亮の天下三分の計には明確な違いがあります。
天下二分の計は、あくまで曹操の拡大を抑え込むために、孫権と劉備が協力して二大勢力として対峙する構想です。
これに対して、天下三分の計は、最終的に魏、蜀、呉の三国がそれぞれ独立し、勢力を均衡させた上で天下を分け合うという構想になります。
魯粛が提案した天下二分の計は、短期的な視点を重視しており、赤壁の戦いを中心とした大規模な戦局で成果を上げることが目的でした。
その一方で、天下三分の計は、諸葛亮の長期的な視野を元に展開され、各勢力がそれぞれの地盤を持って安定する未来図を描いています。
つまり、天下二分の計は緊急かつ必要不可欠な対応策であり、その後の天下三分構想への道筋を作った戦略と言えますね。



天下二分の計と天下三分の計、紛らわしい(笑)



まあ、どちらも天下を分けることに変わりはないかな(笑)
赤壁の戦いへの貢献とその影響


赤壁の戦いと言えば、周瑜と諸葛亮が有名ですが、実は影の立役者が魯粛なんですよね。
劉備との協議と信頼構築
魯粛は、孫権軍と劉備軍の連携を実現するため、直接劉備と対話を重ねました。
当時、まだ勢力が弱かった劉備に対し、魯粛は誠意を示しながら同盟の必要性を強調しています。
そして、この協議が成功したことにより両軍は赤壁の戦いにおいて一致団結し、曹操の大軍に立ち向かうことが可能になったのです。
ここで特筆すべきは、魯粛が単なる形式的な同盟に留まらず、劉備とお互いの信頼関係を築いた点です。
これにより、赤壁の戦い後も呉と劉備陣営の協力関係が継続されたんですよね。


軍事戦略において果たした役割
赤壁の戦いにおいて、魯粛は直接戦場で指揮を執る立場ではなかったです。
ただ、戦略面でたびたび重要な意見を述べていました。
例えば、孫権が曹操との外交を考え揺れていた時期に、魯粛は曹操の脅威を強調して戦うべきであると明言しました。
また、周瑜や諸将と共に作戦を練り、曹操軍の弱点を突く火計の戦術を形にするための下準備にも大きく貢献したのです。
これらのことから、彼は軍事的な天才というよりも、戦略的な視点から状況を俯瞰する能力に長けていたことが分かります。
赤壁後の天下二分の行方
赤壁の戦いにおける勝利を受け、魯粛が提唱していた「天下二分の計」は現実味を帯びてきました。
曹操を長江以北に追い返したことで、呉は劉備と共に長江を中心とする南方地域を確保することが出来たのです。
ただ、その後は劉備が荊州を巡り積極的に領地拡大を図る一方で、呉との間に緊張が生じるようになっていきます。
しかし、魯粛はそのような状況下でも、あくまで曹操を共通の敵と見なし、連携維持の重要性を説きました。
これは、最終的に魯粛の死後に呉と劉備の間で関係が悪化しまいます。
ですが、赤壁の戦いとそこに至る魯粛の外交的努力は、三国志の歴史の中でも極めて重要であったと言えるでしょう。



魯粛の行動力は、その後赤壁の戦いで勝利するためには欠かせないものでしたね。
魯粛亡き後の情勢
魯粛亡き後の呉の情勢は、大きく変化していくことになります。
呉の外交方針の変化
217年に46歳という若さで亡くなった魯粛の死は、呉にとって大きな転機となりました。
彼が存命中に掲げた「天下二分の計」は、孫権政権の重要な外交指針の一つでした。
しかし、その調整役を失ったことで、呉の外交方針は次第に変化していきました。
当時、魯粛が劉備との連携を重視していたのに対し、彼の後任である陸遜やその他の重臣たちは、劉備との関係悪化の道を進みます。
このように、魯粛が築き上げた冷静で柔軟な外交論が次第に影を潜め、より対立的な姿勢が目立つようになっていったのです。
正史と三国志演義における違い
正史『三国志』では、魯粛は温厚かつ知略に富み、多大な功績を残した人物として描かれています。
特に、孫権と劉備の同盟を推進し、赤壁の戦いに至る連携を実現させた立役者として高く評価されているんですね。
その一方で、『三国志演義』ではその人物像が大きく脚色され、豪胆な謀士というよりも、しばしば優柔不断でお人好しな性格が強調されています。
例えば、荊州問題において劉備や関羽に押し切られる場面が強調され、戦略家としての一面がやや軽視されがちです。
このような描かれ方の違いは、後世の魯粛に対する評価の大きなポイントとなっています。
魯粛が描いた未来図と現実との相違
魯粛が構想した「天下二分の計」は、呉と蜀が連携し、曹操を中心とする魏に対抗するという戦略でした。
しかし、実際の歴史では、この理想図が長く続くことはなかったのです。
荊州を巡る対立をきっかけに、孫権と劉備の間に亀裂が生じ、同盟関係は崩壊していきます。
このため、三国時代は「二分」ではなく「三分」の争いが続くこととなったのです。
魯粛が描いた未来図は、理論的には合理的で現実的なものでした。
ただ、当時の複雑な人間関係や権力争いの中で実現し続けることは難しかったと言えます。
ですが、その試みは当時としては画期的なものであり、彼の思考の柔軟性と先見性はしっかり後世に伝わっています。



もっと魯粛が生きていれば、三国志の歴史も変わっていたかもしれませんね。
まとめ
魯粛は、元は袁術配下であったものの、その人物像に嫌気がさし、呉の孫権に身を寄せます。
そこで、魯粛は孫権に天下二分の計を提案し、劉備との連合成立にむけて尽力します。
その結果、孫権と劉備の連合は成立して、後の赤壁の戦いでは大勝利を収めたのです。
このことからも分かるように、赤壁の戦いにおいて魯粛は大きな役割を果たしたと言えますね。



赤壁で実際に指揮を執ったのは周瑜ですが、魯粛こそ戦いを勝利に導いた影の立役者だったのです。