歴史探偵女始皇帝って妻は何人いたの?



キングダムの向は実在したのか?
この記事では、こんな疑問にお答えしますね。
- 始皇帝に正式な妻がいたか分かる
- キングダムの向が実在するか判明
- ドラマの麗姫が架空である理由
- なぜ皇后を立てなかったか理解できる
- 後宮の女性と子供の悲劇を知る


- 歴史研究20年の歴史大好き女
- 今まで読んだ歴史書籍は日本史&世界史で200冊以上
- 日本史&中国史が得意
- 特に中国の春秋戦国時代や三国時代、日本の戦国時代が好き


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- 特に中国の春秋戦国時代や三国時代、日本の戦国時代が好き
漫画『キングダム』や歴史ドラマを通じて、中華統一の偉業を成し遂げた始皇帝(嬴政)に魅力を感じている方は多いはずです。
絶対的な権力を持つ彼ならば、美しい皇后を迎え、多くの妻たちに囲まれた華やかな私生活を送っていたのではないか、妻は何人いたのだろうと気になって「始皇帝 妻 何人」と検索されたのではないでしょうか。
そして、物語の中では、彼を支える健気な女性や、ドラマチックなロマンスが描かれることがありますよね。
しかし、史実というフィルターを通してみると、そこには驚くほど冷徹で、そして深い孤独に彩られた真実が浮かび上がってきます。
それでは、なぜ彼の妻の名前は一人として残っていないのか? 1万人とも言われる後宮の女性たちはどうなったのか?
そこで、この記事では、長年の文献調査と最新の考古学的知見に基づき、始皇帝の「妻」にまつわる謎と、その背後にある悲劇的な史実を、フィクションとの違いを交えながら詳しく解説していきます。
史実の始皇帝に妻は何人いたのか?


まず結論から申し上げますと、中国史上初めて「皇帝」という称号を使用した彼が、生涯において「妻」と呼べる女性を何人持ったのか、その公式な記録は完全に空白となっています。
つまり、「ゼロ」というのが、史料から読み取れる唯一の答えなのです。
そこで、ここでは、なぜこれほどの異常事態が起きたのか、史書に残る後宮の実態と共に、その謎を紐解いていきましょう。
史実で妻の名前は記録なし
私たち歴史研究家の間でも、始皇帝の配偶者に関する記録の欠落は、古代中国史における最大のミステリーの一つとして議論されていますよ。
物語の始まりは紀元前221年、始皇帝は戦国七雄の争いに終止符を打ち、広大な中華帝国を樹立しました。
この時、彼は自らの称号を「王」から「皇帝」へと高め、同時に様々な制度を刷新しましたが、当然そこには「皇后」という地位の制定も含まれていたはずです。
そして、通常であれば皇帝が即位した場合、正妻である「皇后」を立て、その父親や兄弟を「外戚」として政治の中枢に据えるのが王朝の慣例です。
しかし、司馬遷がその生涯を懸けて記した一級史料『史記』の「秦始皇本紀」においてさえ、始皇帝の皇后に関する記述は一行たりとも存在しません。
名前はおろか、皇后を立てようとした議論の記録すら見当たらないのです。
そこで、これが意味するものは、単なる記録の散逸ではありません。
始皇帝は崩御するまでの間、頑なに正妻を置くことを拒み続けた、あるいは意図的にその存在を歴史から抹消したと考えるのが自然なんです。
また、歴代皇帝の中で、これほどまでに配偶者の影が薄い、というより「存在しない」人物は他に類を見ません。
この完全な沈黙こそが、彼が抱えていた闇の深さを物語っているのです。
キングダムの向は実在するか
大人気漫画『キングダム』のファンの方であれば、政(始皇帝)を陰ながら支え続ける宮女「向(こう)」ちゃんの存在が心に残っていることでしょう。
戦いの合間に政が彼女の元を訪れ、ふと安らぎの表情を見せるシーンは、冷徹な君主の人間味を感じさせる名場面ですよね。
そのため、「史実にも向ちゃんのような、身分は低くとも心を通わせた女性がいたのではないか」と期待する声は後を絶ちません。
しかし、歴史的事実として申し上げますと、向ちゃんは完全な架空のキャラクター(オリジナル)であり、史実にモデルとなる女性はいません。
そして、当時の秦の後宮は、極めて厳格な階級社会だったのです。
六国の王族や貴族の娘たちがひしめく中で、庶民出身の宮女が王の寝所に上がり、さらにそこから寵愛を受けて頻繁に会うようになるというサクセスストーリーは、当時の規範ではまずあり得ないことでした。
それでも、作者の原泰久先生が彼女を登場させた理由は、研究者としても理解できます。
史実の始皇帝があまりに孤独で人間不信の塊であるため、物語として読者が感情移入できる「救い」や「人間的な側面」を描くための装置として、彼女のような存在が必要だったのでしょう。
ドラマの麗姫は架空の人物


また、中国ドラマ『麗姫と始皇帝』などで描かれるヒロイン「麗姫(公孫麗)」についても、よく話題に上がります。
ドラマでは、始皇帝の幼馴染であり、敵国である燕の刺客・荊軻(けいか)との間で揺れ動く悲劇の女性として描かれていますよね。
また、美男美女の三角関係は非常にドラマチックですが、これもまた歴史的事実とはかけ離れています。
そこで、史実における荊軻による始皇帝暗殺未遂事件は、燕の太子・丹が画策した純粋な政治テロリズムです。
荊軻は秦舞陽という男を連れて秦の宮廷に乗り込みますが、そこに女性が介入する余地は一切ありませんでした。
さらに、始皇帝と荊軻の間に一人の女性を巡る確執があったという記録は、正史には皆無です。
こうしたロマンスは、後世の民間伝承や現代の脚本家による創作です。
史実の始皇帝は、暗殺の恐怖から極度の疑心暗鬼に陥っており、ドラマのように敵対勢力の女性を愛したり、心を許したりする精神的余裕はなかったと考えられていますよ。
なぜ皇后を立てなかったのか
では、なぜ始皇帝はこれほど頑なに正妻(皇后)を拒んだのでしょうか。
その理由は、単なる偶然や好みではなく、彼の幼少期からの壮絶なトラウマと、秦という国を統治するための冷徹な政治判断が複雑に絡み合っています。
母による裏切りという個人的な絶望と、帝国の安定という公的な使命が、彼に「妻を持たない」という極端な選択をさせたのです。
ちなみに、具体的な要因としては、以下の3点が挙げられます。
- 実母・趙姫による不義とクーデター未遂
母が愛人と結託して自分を殺そうとした経験が、女性への不信感を決定づけました。 - 外戚(妻の実家)の排除
皇后を立てることで、その一族が政治に介入し、権力を脅かすリスクを恐れました。 - 絶対権力の確立
自分と対等に近い地位を持つ「皇后」を置かず、唯一無二の皇帝として君臨しようとしました。
この強烈な原体験と政治的計算が、彼に「女性に権力を与えてはならない」という鉄の掟を刻み込んだのでしょう。
このように、皇后を立てないことは、外戚勢力の台頭を未然に防ぎ、皇帝一人に全ての権力を集中させるための、最も確実で冷酷な政治戦略だったのです。
後宮の女性は1万人いた
正妻はいませんでしたが、始皇帝の周りに女性がいなかったわけではありません。
むしろその逆で、彼の周りには歴史上類を見ないほどの数の女性たちが侍っていました。
そして、始皇帝は、韓・趙・魏・楚・燕・斉の六国を次々と滅ぼす過程で、各国の宮殿にいた后妃、王女、宮女、そして各地の美女たちを戦利品として咸陽に連行しました。
その数は、文献によっては1万人を超えていたと『三輔黄図』などに記されています。
これは、単なる好色さの表れではなく、征服した国々の「血統」と「美」を独占することで、自らの支配権を誇示する政治的パフォーマンスの側面が強かったのです。
また、咸陽の北に築かれた阿房宮をはじめとする関中・関外の数百の宮殿群には、六国の衣装をまとい、故郷の楽器を奏でる女性たちが溢れていました。
ですが、彼女たちは、「妻」として愛される対象ではなく、巨大な帝国の「装飾品」としての扱いでした。
ちなみに、あまりに人数が多いため、皇帝が夜伽の相手を選ぶ際、羊に引かせた車に乗り、羊が足を止めた宮殿の女性を選んだという「羊車」の逸話も、この異常な規模の後宮ならではの伝承と言えるでしょう。



公式記録では妻はゼロ。キングダムの向やドラマの麗姫も架空の存在です。その背景には、実母の裏切りによる女性不信と、外戚排除という冷徹な政治判断がありました。このように、愛よりも権力を選んだ孤独な皇帝の実像が、1万人の後宮という数字から浮き彫りになりますね。
始皇帝の妻は何人で子供は誰か


公式な妻はいなくとも、1万人もの女性がいれば、当然そこには多くの子供たちが生まれます。
そこで、ここでは、始皇帝の歪んだ女性観の原点となった母・趙姫の背信行為の詳細と、その呪われた血を受け継いだ子供たちが辿った、あまりに悲劇的な運命について掘り下げていきます。
母親である趙姫の不義
始皇帝の女性不信を決定づけたのは、他ならぬ母・趙姫(ちょうき)による裏切りでした。
彼女はもともと、趙の都・邯鄲で豪商・呂不韋(りょふい)に囲われていた歌姫であり、始皇帝の父・子楚に見初められて譲り受けられたという複雑な経緯を持ちます。
この時点で、既に「始皇帝は本当は呂不韋の子ではないか」という噂が立ち、始皇帝自身の劣等感を刺激していました。
そして、決定的な事件は、始皇帝の即位後に起こります。
若くして未亡人となった趙姫は、後宮での寂しさを埋めるため、呂不韋の手引きで偽の宦官・嫪毐(ロウアイ)を寝室に引き入れました。
また、嫪毐は髭を抜いて宦官になりすましていましたが、実際には精力絶倫の男であり、趙姫は彼に溺れていきます。
- 実の母が情欲に溺れて不義の子をなした
- 母が愛人・嫪毐と結託して実の息子(始皇帝)を殺そうとした
- 自分の出生自体にも呂不韋との不義の噂がつきまとった
そこで、この乱を鎮圧した始皇帝は、嫪毐を車裂きの刑にし、異父弟二人を袋叩きにして殺害、母を雍の地に幽閉しました。
実の母が自分を裏切り、殺そうとしたという事実は、彼から「妻を愛する」「女性を信じる」という感情を永久に奪い去るのに十分すぎるほどの衝撃だったのです。
寵愛された女性と巡幸
それでも、人間・始皇帝にも、生理的な欲求や、ふとした瞬間の安らぎを求める心は残っていたようです。
彼は、在位中に5回もの大規模な全国巡幸を行っていますが、その過酷な長旅には、末子の胡亥(こがい)などが同行していました。
そして、当時まだ幼かった胡亥が長期間の旅に耐えるためには、身の回りの世話をする母親の存在が不可欠です。
このことから、特定の気に入った宮女や夫人が、皇帝のそば近くに仕え、旅にも同伴していたことは確実視されています。
しかし、彼女たちの名前や出自が記録に残ることはありませんでした。
始皇帝にとって彼女たちは、旅の慰めや世継ぎを産むための存在ではあっても、政治的なパートナーとしての「妻」では決してありませんでした。
むしろ、名前を残さないことによって、彼女たちが政治的な力を持つことを徹底的に封じていたとも考えられます。
このように、彼女たちは歴史の表舞台に出ることを許されず、皇帝の影として生きることを強いられたのです。
扶蘇など子供たちの母親


始皇帝には、確実な記録として20人以上の公子(男子)と10人以上の公女(女子)、合わせて30人以上の子供がいたことが分かっています。
そして、これだけの子供がいたということは、少なくとも20〜30人程度の「母」となる女性がいたはずです。
そこで、中でも特筆すべきは、長子の扶蘇(ふそ)になります。
彼は、剛毅で仁愛に厚く、始皇帝の焚書坑儒を諫めるほどの気骨を持っていました。
また、彼の母親については、歴史学者の間で「楚(そ)の国出身の王女だったのではないか」という説が有力です。
それは、当時秦の宮廷には華陽太后(始皇帝の祖母)を中心とする強力な楚の派閥があり、政略結婚として楚の女性が迎えられた可能性が高いからです。
| 子供の名前 | 人物像・特徴 | 母親の推測 |
|---|---|---|
| 扶蘇(長子) | 剛毅で仁愛に厚い。父に諫言し左遷される。 | 楚の王族出身説が有力(記録抹消の可能性) |
| 胡亥(末子) | 二世皇帝。趙高に操られ暴政を行う。 | 身分の低い、あるいは政治力のない寵姫 |
| 公子高 | 一族を守るため自ら殉死を願い出た。 | 不明 |
しかし、統一戦争の最終局面で楚の公子・昌平君が秦を裏切ったことにより、始皇帝の楚に対する憎悪は頂点に達しました。
そのため、もし扶蘇の母が楚出身であったなら、彼女の存在自体が「逆賊の一族」として歴史から抹消された可能性があります。
このように、「妻がいない」のではなく、「政治的な理由で消された」という側面も否定できないのです。
皇女の陰鬘と発掘された墓
これまで文献の中だけの存在だった始皇帝の子供たちですが、近年の考古学調査によって、その実在と悲惨な最期が物理的な証拠として明らかになりました。
それは、始皇帝陵の東側にある「上焦村(じょうしょうむら)」の陪葬墓群の発掘調査で、驚くべき発見があったからです。
この際、17基の発掘された墓からは、金銀、玉、シルクといった皇族にしか許されない豪華な副葬品と共に、「陽滋(陽滋公主)」や「嬴陰鬘(えいいんまん)」という文字が刻まれた私印が出土しました。
これにより、これらが始皇帝の皇女たちの墓であることが確定したのです。
しかし、そこで目撃されたのは、下記のようなあまりに無惨な光景でした。
- 遺骨の多くがバラバラに切断されていた(肢解の刑)
- 頭蓋骨や胸部に青銅の矢尻が刺さったままの遺体があった
- 顎の骨が外れているなど、生前に激しい暴行を受けた痕跡があった
そして、これは『史記』に記された「二世皇帝(胡亥)が、即位直後に公子十二人を咸陽の市で殺し、公女十人を杜にて裂き殺した」という記述が、紛れもない事実であったことを裏付けています。
つまり、始皇帝が寵愛したかもしれない娘たちは、父の死後、実の兄弟によって惨殺され、無念のまま埋葬されたのです。
彼女たちの母親もまた、この粛清の嵐の中で殉死させられたか、娘の後を追った可能性が高く、後宮はまさに血の海となったことでしょう。



妻の記録はなくとも30人以上の子供がいたことは確実です。それは、扶蘇の母が楚出身だった説や、発掘された皇女たちの惨殺遺体は後宮の闇を物語ります。そして、母の名を歴史に残さなかったことが、皮肉にも始皇帝の死後、子供たち全員が処刑される悲劇を招いたのです。
よくある質問(FAQ)
最後に、始皇帝の妻や後宮の事情について、私が読者の方からよくいただく質問と、それに対する歴史研究家としての回答をまとめました。
Q1. 始皇帝は生涯で誰も本気で愛さなかったのですか?
特定の皇后は立てませんでしたが、末子・胡亥の母など、寵愛を受け巡幸に同行した女性は確かにいました。しかし、実母・趙姫の裏切りや、外戚による政治介入への警戒心から、特定の女性に心を許しきったり、「妻」としての公的な権力を与えたりすることは、生涯を通じて頑なに拒絶し続けました。
Q2. 始皇帝の死後、後宮の女性たちはどうなりましたか?
二世皇帝・胡亥が即位すると、「先帝の後宮の者で、子を産んでいない者は宮殿から出してはならない」という残酷な命令を下しました。これにより、数千から1万人近くの女性が殉死(生き埋めや処刑)させられたと伝えられています。それに、始皇帝陵周辺からは、実際に多数の女性の遺骨が発見されており、史実の残酷さを物語っています。
Q3. 始皇帝の初恋の人は誰ですか?
史実に初恋の記録は一切ありません。ドラマや漫画では、人質時代の幼少期に出会った恩人や少女との淡いロマンスが描かれることがありますが、これらは全て現代の創作です。史実の彼は、人質生活の苦難と母のスキャンダルにより、幼い頃から極めて冷徹で現実的な女性観を持っていたと考えられます。
まとめ:始皇帝の妻は何人かという調査の結果
ここまで、始皇帝の妻と子供たち、そして後宮の真実について解説してきました。
その結論として、始皇帝には「妻(皇后)」と呼べる女性は公的には0人でした。
しかし、その記録の空白の裏側には、1万人もの後宮の女性たちと、30人以上の子供たちが確かに存在し、そして歴史の波にのまれて消えていったのです。
この記事のポイント
- 始皇帝は生涯、正式な皇后を一人も立てなかった
- 『キングダム』の向やドラマのヒロインは架空の存在であり、史実にはいない
- 母・趙姫の裏切りが、始皇帝の女性不信と立后拒否の決定打となった
- 後宮には征服した六国から集められた1万人の女性がコレクションされていた
- 多くの子供や女性たちは、始皇帝の死後に胡亥による粛清や殉死で悲惨な最期を遂げた
彼が築き上げた万里の長城や兵馬俑は、2000年の時を超えて今もその威容を誇っています。
しかし、彼を支えたかもしれない女性たちの名は、歴史書から完全に拭い去られ、一人として残っていません。
この徹底した「不在」と「沈黙」こそが、中華統一という偉業の影にある始皇帝の孤独と、絶対権力者としての凄みを、何よりも雄弁に物語っているのかもしれませんね。



始皇帝の妻は公的に0人、後宮は1万人。この数字は母の裏切りによる女性不信と、外戚排除の政治判断の結果でした。名を消された女性たちと死後に粛清された子供たち。秦という偉大な統一帝国の影には、誰も信じず愛さなかった皇帝の孤独と、血塗られた家族の悲劇が埋もれていたのです。
※本記事の情報は歴史学的・考古学的な諸説に基づいています。歴史の解釈には諸説あり、新たな発見によって定説が変わることもありますので、知的好奇心を満たす一つの視点としてお楽しみください。
